次の血を待つ
これまでの被害者が見つかった場所や経緯を聞いているうちに一日が終わった。どの被害者も平凡な日々の中で忽然と消え失せ、数日後に道端で見つかっている。しかしその場所や時間はばらばらで、周囲で怪しい人物は見られていない。どこかに連れ去られた後、時間をかけて解体したものとみられる。
一連の事件の期間、町を訪問した商人や業者は多くいるが、ずっと滞在していた人間はいないことから犯人は住人に絞られる。また、若く力が強い男も被害者になっており連れ去る現場が目撃されていないため、被害者たちは連れ去る際に抵抗していない。以上の事実から浮かび上がる最も自然な犯人像は、顔が広く信頼が厚い住人だ。
「《こっち》側って可能性もあるだろ」
部屋に一脚しかない椅子を座ったまま器用に傾ける。ロクテーヌなら絶対にしない椅子の使い方だ。フィードがまだ化け物退治気分でいるのでロクテーヌは溜息が出てしまった。礼拝堂で確認した遺体の状態を伝えたというのに、どうしてまだ犯人が《あちら》側かも知れないと思えるのだろうか。
「例えば貴方が犯人ならば遺体は残りません。吸血鬼が犯人ならば血が抜かれているでしょう。刃物を使った綺麗な切り口で臓器を切り分ける悪趣味な遊興にふけるところまではともかく、そのあと何もせずに戻す意味が分かりません」
「まあ、確かにそうか」
最終的に化け物退治になる可能性は勿論あった。しかし礼拝堂での遺体を読み解けば、犯人は人間だと断定できる。
「指だけを好むお知り合いでもいらっしゃるなら話は別ですが」
「んー、食感が好きな奴は多そうだけど」
甘みもあるしと無駄な情報を加えて、自分の言葉に顔を曇らせる。
「もう死肉でいいから礼拝堂に行ってもいいか」
「馬鹿言わないでください」
とんでもない提案をしてきたので、にべもなく断った。あり得ない。何のために《店》があると思っているのだ。
「この町、血の匂いが充満しててすげえ腹減る」
フィードは顔を皺だらけにして嫌そうに呟いた。自分の腹をさすって誤魔化している。
「でも貴方本当にお腹が減ったら無口になるじゃないですか」
「そうなったら見境なくなるから言ってんだ」
「そうでしたっけ」
記憶を手繰り寄せるが、別にそういった危機感を抱いた覚えはない。どっちにしろこれくらいの軽口をたたいている間は大丈夫だ。嫌そうにしているがその目は理性的である。
「で、これからどうするんだよ。犯人像が分かったって仕方ねえだろ」
「そうですね。けれどお忘れではありませんか?」
ロクテーヌはベッドに腰かけたまま足を組んだ。
「私たちは別に探偵ではありません。あくまで犯人を殺すことが目標です」
「だから、犯人を見つけるためにいろいろ調べてんだろ」
「フィード、ですからそれは探偵の領分です。私たちがわざわざルールを遵守する必要はありません」
ロクテーヌは嗜めるように言って首を振った。
これは連続殺人だ。サン・シエル町の住人が連れ去られて、解体されており、被害は収束する気配を見せない。十中八九また同様の事件が引き起こされ、その際には住人の血が流れることになる。解体に伴って、間違いなく。
「そして貴方は」
ゆっくりと白い指でフィードの胸を指す。
「血の匂いに敏感でしたね?」
「……あ」
「次に誰かが殺された暁には、すぐさま始末しに行けるわけです」
両手を合わせて微笑み嬉しそうに語る姿はどこかあどけない。フィードはにやっと笑うと舌で唇をなぞった。
憂慮が消えたところでロクテーヌはテーブルに残っている林檎を手に取った。しかし側に置いていたはずの果物ナイフが見当たらず、代わりに紙切れがある。読みやすい字で書かれたメモにぴしりと固まった。
「召し上がる際はいつでも申し付けください。テイリス」
横から奪い取ったメモをわざわざ読み上げる。
「……ふっ」
こみ上げてきた笑いはロクテーヌに睨まれたくらいでは収まらない。ロクテーヌの手のひらで包帯が存在を主張している。傷口に残る鋭い痛みをあの優しそうな顔をした紳士は許さない。しかも林檎を切るという簡単な動作で手元を狂わせる人間だと思われている。
「頼みにいけばいいじゃねえか。り、林檎を切ってくださいって……ははっ! 喜んで用意しそうだ」
フィードがとても楽しそうにしているので、ロクテーヌも笑いかける。静かに歩み寄り、大きな手を両手で包み込むようにした。そっと握ると眉を上げた。
「林檎よりいいものがありますよ」
血の気が引いたフィードの喉がなった。
きちんと黙らせてから林檎を手に部屋を出る。林檎くらい諦めてもいいのだが、せっかくの心遣いだ。依頼人と交友を深めるのも悪くない。断じて林檎の瑞々しい甘みを楽しみたくなった訳ではない。
夜も更け、他の客と遭遇することはなかった。昼間にも訪れたテイリスの部屋にはすぐに辿り着き、扉をたたこうと上げた手をふり下ろす前に止めた。静かな廊下にぽつりと立ち尽くし、初めの一言を考える。
お願いをするなんて自尊心が許さない。かといってフィード相手ならともかく命令をするのもおかしな話だ。そもそも既に寝ている可能性もあるし迷惑ではないか。
いや、こうして立ち尽くしていること自体、フィードに見られたら一貫の終わりだ。下らない躊躇を揶揄われるなんて耐えられない。
意を決して再度手を持ち上げたところで突然扉が開いたので、ロクテーヌの心臓は飛び上がった。欠伸をしながら現れたテイリスは驚いたように目を丸くし、一拍、時が止まった。ロクテーヌが支える林檎へと視線を落とし、合点して柔らかく笑う。
「こ……んばん、は」
「こんばんは。廊下は冷えますから、どうぞ中へ」
たどたどしい挨拶を揶揄うことなく、部屋の中に招き入れた。気恥ずかしさと情けなさが吹き上がり項垂れそうになるもののどうにか取り繕ってテイリスに続く。
テイリスはすぐに暖炉に薪を放り込んだ。火をつけてから熱を持つまでの間にもロクテーヌにひざ掛けを渡してもてなす。
「……」
ロクテーヌが入るまで暖炉の火は消えていた。そして部屋のベッドシーツにはしわが寄っている。
「お休みだったんですね。すみません」
「いえいえ、ちょうど飲み物を取りにいくところでした。そのまま待っていてください」
テイリスは手燭を取った。煙たがる様子は全くなく、むしろ頼ってもらえて嬉しいと言って部屋を離れた。こういう態度が住人に慕われるのだろう。
ゆらゆらと揺れる暖炉の炎が室内をぼんやりと照らしていた。足を向けると温もりがじわりと沁みて気が緩む。長い間つけているウィッグの窮屈さにも慣れてきた。椅子の背に体重を預けた。
次に誰かの血が流れた瞬間が、ロクテーヌの勝利だ。無辜の民を見捨てる事で依頼は達成される。統治は民のための手段たれ、と教育を受けてきたくせに素知らぬふりをする。手をこまねいて身勝手に誰かの死を待っている。
ロクテーヌは大きく息を吸った。冷たい空気で肺を満たし覚悟を決める。見殺しにして、それでも自分勝手にのうのうと生きていく覚悟だ。奪ってきた命を全て背負って生きる。一人で背負うこともまた、自分勝手に決めたことだった。
凍てついた夜が瞼に重くのしかかった。ロクテーヌはほんの少しの間だけ、と目を閉じて眉間の皺を深くした。
小鳥のさえずりがロクテーヌの瞼を薄く持ち上げた。気怠さのなかで窓から差し込む光が眩しい。一段と寒い朝だった。起き上がる気力は乏しく、呻きながら頭までベッドの中に隠してしまう。
「……?」
そこで違和感を持った。いつものベッドと違うのはサン・シエルに来ているからだが、ベッドに入った記憶がない。毛布の中でじわじわと頭が活動を始める。昨夜テイリスの部屋で彼を待っていたところまでは思い出した。眠気に襲われて、それで、どうして自分の部屋のベッドで目を覚ますことになるのだろう。
「俺はどうかと思う」
しゃく、と瑞々しい音が響いて、そっとシーツから顔を出した。机の上に綺麗に切られた林檎が用意されており、一つをフィードが摘まんでいた。寝起きの頭には情報量が多すぎる。
経緯を踏まえれば綺麗な林檎を用意したのはテイリスだ。あまり考えたくないがテイリスがロクテーヌを部屋まで運んでくれたらしい。しかもそれをフィードに批難されている。そもそもこの男はついにロクテーヌの食事にまで手を出したのか。林檎なんていくら食べても腹は膨れないだろうに。
「どうかと思う、ほんとに」
何が不満なのか半眼になっている。頬杖をついて、また林檎を口に放り込む。ロクテーヌの分まで食べつくされそうな勢いだ。
「それ以外言えないんですか……」
「それ以外言えない」
挙句に開き直ってきたのでつられて顔をしかめる。気が付いたら眠っていたのだから、仕方がないではないか。ロクテーヌは腹いせに皿に添えられていたフォークで林檎を取った。
「あら美味しい」
「……」
フィードの目に呆れが混ざる。
「もう少し警戒心を持て……変なとこが箱入りなんだよな」
「はあ? 昨夜のテイリスさんの話をしているんですか?」
だとすれば何も問題なかったのだから、とやかく言われる覚えはない。自分の好きなように行動して何が悪い。待ってみても返事がないので、ロクテーヌは覗き込むようにしてフィードの表情を読んだ。
「それともこの前の人攫いのこと? あるいはさらに前のセーナさんに命を狙われていた事でしょうか」
「……全部」
やれやれとロクテーヌは額を押さえた。
「ああ、フィード」
ベッドを下りて、物分かりの悪い困った男と目を合わせる。不満と困惑が混ざった顔はなかなか悪くない。そのまま指を伸ばして鼻を潰してやった。
「前にも言いました。それは貴方の仕事でしょう」
「俺を頼られても……」
「駄目でしょうか」
「……、いいけど」
満足のいく回答を手に入れて、ロクテーヌは微笑んだ。しかし、不意に伸びてきた手がロクテーヌの細い腕を捕らえ、抵抗する間もなく視界が揺らぐ。気が付けば固い膝の上に収まっており、流石に驚いて目を丸くする。腕の中に固定された体は呆気なく傾き、その喉元に指が当てられた。
「俺に裏切られたら終わりっていうのはどうなんだ」
フィードは爪を立て、空中を切るように動かした。思いの外真剣な表情をしていたので無礼に対する抗議は頭から消えてしまった。
「……そうですね。フィードに裏切られたらどうしましょうね」
真剣に考えた結果、ロクテーヌは微笑んだ。分かり切っていて答える価値がない。
「これでも忠実でいて欲しいとは思っていますよ。ですが裏切りたくなったのならお好きににどうぞ」
「……まあ、現状に満足はしてるんだが」
「それは素晴らしい」
ロクテーヌは体をひねり、するりとフィードの手を逃れた。居心地のいい椅子ではなかった。姿勢を正し、さて、と両手を合わせる。
「重要なことをお伝えしていませんでしたね」
ロクテーヌの衣服は少し乱れている。ボタンやリボンはきちんと役割を果たしているが、所々しわが目立つ。髪の毛だって、ウィッグとはいえ編んでいた黒髪が緩くなってほつれている。そして大前提として、ロクテーヌはルデジエール城でだって寝室に入ることを許していない。
「さっさと出て行きなさい」
ロクテーヌはぴしゃりと言い放ってフィードを部屋から追い出した。
身支度を整えて林檎の皿を空にしても、太陽の位置は低かった。窓を開けて新鮮な空気を取り込む。働き始めている住人もいるだろうが、外から生活音は聞こえない。吐き出した息が白く凍った。雪が降っている。
テイリスに町の案内の続きをしてもらう予定だったが約束の時間にはまだ早い。本のないこの部屋では時間を持て余してしまうので、ロクテーヌは屋敷を一通り歩いてみることにした。自分が泊っている屋敷の構造を頭に入れておいて損はない。
屋敷は四階建てで正面は大きな街道に面しているが、ロクテーヌが宿泊している裏手側には薪小屋がある程度で森が広がっていた。どの階も東西に従業員用の部屋が配置されている。ロクテーヌは西側三階の角部屋だが、正確には隣に物置があるようだ。テイリスやマリナほか住み込みの従業員は東側に自室を持っているらしい。西側はどちらかというと業者が立ち入るような部屋が多い印象だ。
他の宿泊客の邪魔にならないように、足音に気を付ける。受付に怪しまれては困るので、一階を避けて歩いていると東側四階廊下の突き当りに大きな肖像画を見つけた。その家族の肖像を前にロクテーヌは足を止めた。
黒髪の美しい女性が赤子を抱えている。女性に寄り添うように立つ男性は幼い娘と手をつなぎ、娘は嬉しそうだ。女性を挟んで男性の反対側には格式ばった服を着た少年が姿勢を正していた。幸せなひと時を切り取った肖像画だ。額縁の中の人物は全員が笑っており、見るものの心を穏やかにさせる。黒髪の女性は少年と、いやテイリスとよく似た顔立ちをしていた。
ロクテーヌは壁を埋める大きな肖像画の横にならんだもう一つの小さな肖像画に目を移した。先程と同じ美しい黒髪の女性だ。家族の肖像と違って、至って真面目そうな表情をしている。目元だけがどこか優しく、不思議と惹きつけられるものがある。肖像画の右下には画家の書き込みがあった。
「愛するフェリンティアへ……」
「いい出来ですよね」
突然の声にロクテーヌは目を見開いた。いつの間にか背後にテイリスが立っていた。勝手に屋敷の中を歩きまわっていることを咎められるかと身構えたが、普段と同じ優しそうな表情のままだ。
「おはようございます。ゆうべは良く眠れましたか?」
「はぁ……あの……ご迷惑おかけしたようで」
ロクテーヌは昨夜の失敗を思い出して目を逸らす。
「いえいえ」
テイリスは何事もなかったかのようにさらっと流して微笑んでいる。どこかの誰かとは大違いだ。もしかしたらマリナやアリーで慣れているのかもしれない。肖像画を見つめるテイリスの横顔を額縁の中の女性と見比べると、やはりよく似ていた。
「お知り合いに画家がいらっしゃるんですか?」
愛するフェリンティアへ。絵の所有者がテイリスの家族である以上、フェリンティアもその一人だと考えられる。おそらく母親の名前だろう。愛する、とついているならば親しい人間の仕事だ。
「はは、父が喜びます」
ロクテーヌは反射的に家族の肖像画に目を移した。父親が趣味で描いたものだと言うならば、幼いマリナと手を繋いでいる父親は――
「お気付きの通り、父の部分は自画像なんです。休日に皆で並んで……幼いアリーはずっと泣いていましたし、マリナも遊びたい盛りで走り回っていましたね」
テイリスは懐かしそうに目を細めた。肖像画は賑やかなデッサンの思い出までは再現してくれない。しかし溢れんばかりの愛情がそこに見て取れるのは、描き手の感情が一筆に込められているからだ。
「ですからこれは半分空想の肖像画なんですよ」
「空想……」
冗談めかして言うテイリスに、ぽつりと繰り返した。家族のありふれた幸せなひと時は、遠く離れた別世界の出来事のようだった。優しい父、美しい母、しっかり者の兄と幸せな姉妹……下らない感傷を振り払い、顔に笑みを貼り付ける。
「ご両親も一緒に宿屋を経営してらっしゃるんですか?」
そういえば宿泊してから一度も出会っていない。宿屋の仕事も重要な部分はテイリスが担っているように見えた。
「いえ、母は三年前に他界してますし、父の行方も分かりません」
なんでもないことのようにさらりとテイリスは告白した。心を痛めるような時期はとっくに過ぎ去ったのだ。テイリスは苦労を感じさせない穏やかな表情を浮かべている。
「……そうですよね、セーナさんはサン・シエルの人間ではありませんから知らないのは当然でした。私たち家族は、その、この町では有名でして」
言いにくそうな口ぶりをしていたので、ロクテーヌは首を傾げた。有名、という点に何か事情が隠れているのは明らかだ。
「両親とアリーが揃って行方をくらませたのも、今日と同じ凍えるような冬の日でした」
遠くを見つめるテイリスの横顔に、肖像の美しい女性の面影が重なった。
その不可思議な事件が起きたのは三年前の冬のことだったという。住人が総出で三人を探したのだが、森の中まで捜索しても足取り一つつかめない。万策尽きた二か月後の朝、雪ふる街角に倒れているフェリンティアとアリーが見つかった。しかしフェリンティアの胸にはナイフが突き立てられ、もう手遅れだった。アリーも衰弱し、小さな手足は凍傷になっていた。
「その母の肖像画は、倒れている二人の横に落ちていたものなんです。父の作品だと確信してはいるのですが、父は今も見つかっていませんし……不思議な事件でしょう?」
テイリスは眉を下げた。美しい女性の肖像画がそんないわくつきのものだとは知らず、ロクテーヌは驚いた。
「アリーさんは何とおっしゃっているんです?」
「……何も。後遺症なのか、あれからアリーは口数も減ってしまって……一緒にいても心ここにあらずという事が増えました」
手がかりは何もない、ということらしい。非常に興味を惹かれる事件だが、踏み込むのはやめておいた。テイリスとの距離は単なる客と店主のままでいい。ただ与えられた情報を曖昧に咀嚼するだけだ。
「苦労されたんですね」
薄っぺらい気遣いが唇から滑る。安全圏から言葉を投げることほど楽なものはない。
「いえ、ジロフル子爵はじめ色々な方に支援していただきましたから」
テイリスは控えめに笑い、ロクテーヌを外に誘った。話しているうちに日も高くなっていた。どんよりとした曇り空の下、広がる真白の雪が目に眩しい。テイリスが言うにはこの調子なら夕方には膝まで積もるらしい。
屋敷の前の通りを住人が行き交っていた。寒さに身を丸くしながら急ぎ足で去っていく住人が多い。屋敷の入口の横ではアリーが雪山を作る。友人と思われる少女と共にまだ薄く積もっただけの雪をかき集め、木桶に入れて運んでいた。ルデジエールでは積もるほどの雪は滅多に降らない。新鮮な気持ちで雪景色を楽しんだ。
町は近隣を通る大きな河川から離れた場所に形成されている。河川の側に都市が発展するのは定石だが、サン・シエルには当てはまらない。歴史書では数百年前の国境戦争の際は河川沿いに町があったはずだ。
「国境戦争の最中、ある修道女が啓示を受けて今のサン・シエルへと町を移したという伝承があります。真偽は不明ですが、丁度その頃歴史的な豪雨で河川が氾濫し一帯が流されたのは事実のようですね」
サン・シエルに伝わる昔話をロクテーヌは真剣に聞いていた。テイリスの語り口は軽いものだが、ロクテーヌにとっては新鮮で面白い。つまらないと言われても仕方ない話題なのに、嫌な顔一つせず色々な会話を展開してくれる。話の引き出しが多いというよりは相手に合わせて変えているという印象だ。
水路沿いは人気がなく、建物の影になっていて肌寒い。二人が歩く細い路地は事件に何の関係もなかったが、ルデジエールにはない用水路を見てみたかった。ほとんど趣味の領域である。
「豪雨については歴史書の中で何度も論じられていますね。啓示というのもあながちただの伝承ではないのかもしれません。お陰様で大変よく分かりました。大きな河川があるのにわざわざ離れたところに町を作って疏水を引いているなんて不思議でしょう?」
ロクテーヌが顔を輝かせたので、テイリスは目を丸くした。一般的な女性が歴史書に触れることはないし、そもそも町の水路を見て疑問に思うこともない。
「……貴女みたいな方に出会ったのは初めてです」
「私に出会ったのは初めてなのですから当然です」
ロクテーヌはくすくすと笑った。テイリスからの返事はなかった。
通りに出ると横に並ぶ二人はそれなりに目立ち、好奇の目に晒される。昨日同様、話しかけられればロクテーヌはにこにこと笑うだけの人形に成り下がった。友人という設定を忠実に守り、必要とあらば気安い雰囲気を演出する。次々飲み物や食べ物を渡されるので、テイリスの片手の籠は直に一杯になった。
テイリスは話しかけてきた相手次第で軽い話も難しい話もすらすらと口にした。仕事柄だと言ったテイリスは確かに相手をよく見ているが、全く見ていないとも言える。
「町の色々な方が声をかけられるのは、ご両親を失った皆さんを気にかけているからだったんですね」
「えっ……?」
この短期間だけでもテイリスたちは町の住人に愛され、見守られて育ったのだとよく分かる。ロクテーヌに向けられていた目は品定めのそれだ。きょとんとしているテイリスにロクテーヌは笑った。
——そのとき、不意に広場がざわついた。
ロクテーヌが顔を上げると、広場の反対側の男に視線が集まっていることが分かった。撫でつけられた黒髪に耳飾りが赤く映える。短い口髭は男が慇懃に笑うのに合わせて持ち上がった。羽織っているのは落ち着いた色合いの外套だが裏地にきめ細かな毛皮が見えた。胸元にきらりと光るのは宝石をあしらったブローチだ。太陽光を強く反射するカットは一流の職人によるものである。
「……あの方が?」
「ええ、ジロフル子爵です……どうかされましたか?」
ロクテーヌは咄嗟にテイリスの背中に隠れていた。堂々と対峙するべきだったが反射で動いてしまったものは仕方ない。
「……貴族は苦手なんです。その、こういう商売をしているもので」
「それではしばらく隠れていましょうか」
テイリスはロクテーヌの手を引いて広場のパティスリーに入る。ジロフル子爵はケーキ類を食べないらしく、つかの間の安心を得た。テイリスが口を聞くと店員は喜んで二階窓際の席に案内してくれた。広場を一望できる席だ。チョコレートケーキを運んできた店員の目がらんらんと輝いていたが、気にせず楽しむことにする。オレンジピールがほろ苦いチョコレートと混ざりあって美味しい。
「子爵は町の視察にいらっしゃっているのでしょうか。けれど、領主ではないんでしたよね?」
「いつもの買い物でしょう。美術品を集めるのが趣味なんです」
「それはそれは……いいお客様ですね」
ロクテーヌは広場で店先を回っているジロフル子爵を目で追った。確かにそれぞれの店で品物をずらりと並べさせている。当然、住人は概ね好意的な態度で接客しているが、気安さは感じられない。ジロフル子爵がサン・シエルに屋敷を置いている理由も恐らくそれだ。国境付近にあり物流を担う街道沿いに発展した町となれば、国内外問わず多くの商品が町を経由することになる。町の店だけでなく行商からも効率よく買い付けができるだろう。
いつも自分の収集に加えるに相応しい美術品を探しているジロフル子爵は町の名士である。住人なら誰だって知っており、話しかけられれば貴族相手に逆らうことなどできない。
「でも、悪い方ではありませんよ。両親を失った後は本当にお世話になりましたし、アリーの面倒も見て下さっているんです」
「……!」
ロクテーヌは大きく瞬きをした。悪い方ではない、という言い方は何かしら問題を抱えた相手に使う表現だ。テイリスは優しい微笑みを浮かべ、雪降る広場を眺めていた。
ケーキを楽しんでいると、賑わう広場に一人の女性が駆けこんだ。女性は髪の毛を振り乱し、道行く人の袖を掴んでは何かを尋ねている。異変に気付いた住人が声をかけると、女性はその場に崩れ落ちた。騒ぎが徐々に大きくなっていく。
「……次の被害が出てしまったようですね」
「……」
「テイリスさん?」
ロクテーヌが隣を見るとテイリスは言葉を失っていた。広場に向ける目は呆然と動きを止め、口を薄く開いている。
女性は夫婦で定食屋を営んでいるのだという。買い物をするにもいつも二人だった仲睦まじい夫婦が、今は女性一人だ。行方不明になったのは夫であり、彼はテイリスの友人だった。
チョコレートケーキの欠片を乗せていたフォークが、口に運ばれることなく皿に倒れた。陶磁の小花柄がチョコソースで汚れた。
「どうぞ行ってください。私のことはお気になさらず」
ロクテーヌの提案にも、テイリスは曖昧に微笑むだけだった。広場に駆け出すことなく、じっと座ったまま深く呼吸をした。冷たい広場を見て一度。俯いてもう一度。雪は先程よりも強くなっている。
「申し訳ありませんが、私はかける言葉を持ちません」
膝の上にそろえた指先をきつく握りしめる。爪が柔く白い肌に食い込んだ。次の被害者は見捨てることに決めていた。こうして代償にした罪のない命が、誰かにとって重くかけがえのないものであると考えたくはなかった。
「! セーナさんのせいでは……」
「間に合わなかったのは事実です」
「難しい依頼ですから」
テイリスが作り出した優しい微笑みにロクテーヌは戸惑った。あまりにいつもと同じように微笑むので、気遣われていることすら忘れてしまいそうだ。これでは立場が違う。
「何か私にできることはありますか」
「……手を」
探るように伸びたテイリスの手を、ロクテーヌは両手で包み込んだ。一回り大きなその手は温かく、雪で凍えた指先が熱を奪い取っていく。
「ふふっ、これでは励ます甲斐がありませんねえ」
「……」
広場の騒ぎのおかげか、寄り添った二人に気付く者はいなかった。広場ではジロフル子爵が騒ぎを聞きつけて楽しそうに笑っている。悪い方ではないという言葉が頭をよぎった。
握った手に力が込められて、ロクテーヌは顔を上げた。
「部外者の私が言うのもおかしな話ですが、セーナさんはもっと他人を警戒した方がいいのではありませんか?」
曇りなく真摯に告げられて、ぐっと言葉に詰まる。最近似たようなことを言われた。その時はただ呆れただけだったが、テイリス相手ならばまともに返答しようという気にもなる。
「気を許す相手くらい選んでいますよ」
「それは光栄ですが……そういう商いをしている以上、過剰なくらいでいいのでは?」
「一理あります」
確かに一度懐に入れた相手には気を緩めすぎるきらいがある。例えば、と思い浮かべ、馬鹿らしくなって笑った。別に今のままで何の問題もないのだ。不可解そうにしているテイリスは、説明しなければ分からないのだろうか。
「私は、信じた相手になら殺されても構いません」
「……ではもう何も言わないことにしましょう」
テイリスは肩を竦めた。呆れたというよりはすっきりした表情をしている。重なっていた二人の手がそっと離れた。結局自分の指を温めただけだった。
「ありがとうございました。お陰でもう少し頑張れそうです」
「ええ、こちらこそ。だんだん貴方のことが分かってきた気がします」
微笑むロクテーヌを残して、凡庸な紳士は広場に群がる住人の中に消えていった。
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