酷い誤解

 鬱蒼と茂る森の中を一人の男が駆けている。息を切らし、時折背後を確認しながら左右の足を交互に踏む。混乱した頭では何処に向かうべきなのか分からない。それでもただ道なき道を走る。

 口から洩れた息が白く夜を染めた。凍てつく空気にさらされているにもかかわらず男は外套を着ていない。体が煮えたぎるように熱く、途中で脱ぎ捨ててしまった。だが、脱ぎ捨てた外套を見つけた誰かが助けを呼んでくれる可能性はないだろう。

 街道から離れ、むき出しの地面に木の根が浮いている。足を取られて何度か転び、そのたびに怪我した足に激痛が走った。垂れた血が地面に点々と落ちている。これでは居場所がばれてしまう。男は上衣の裾を破り太ももに巻きつけた。気休め程度でもないよりましだ。

 この町にあんなものがいたなんて知らなかった。再び立ち上がった時、男の指先は震えていた。体の芯から震えあがる恐怖に直面したのは初めてだった。

 どれほど走り続けたか、永遠のように長く感じたが実際にはそれほどではないだろう。男は立ち止まり、十分に距離をとったことを確信した。住み慣れた町の森の中、自分の場所を見失って困惑する。こんな時は山頂方向に進むべきだ。町は坂に沿って扇状に広がっており、その頂上付近に屋敷がある。今が森のどこであれ、屋敷まで辿り着けば帰路がわかる。

 顔を上げた男は、さっと青ざめた。それが近付くたび血の気の引いた顔でじりじりと後ずさるも、木の根に足がもつれ地面に座り込んだ。

 振り下ろされたナイフがきらりと輝いた。

 やがてぽつぽつと雪が降る。サン・シエルの冬は深い雪に覆われて、美しい景色を作り出すだろう。



 閑散とした夜のアールゼリゼ通りを一人の女性が歩いていた。眼鏡をかけた物静かな女性で、黒髪をゆったりと編みこんでいる。物陰から彼女を眺めていた男たちは下品な声で笑いあった。こんな時間に一人で歩くなんて馬鹿な女だ。襲ってくださいと言わんばかりに細い路地に入ったもので、男たちはそっと後をつけた。

「今日はどうする?」

 声を落として一人の男が言った。ルデジエールに入ってから中々収穫が上がらず鬱憤が溜まっていたところだ。夜歩きに気を付ける女は多いが、それにしたってルデジエールは異常で誰一人出歩いていない。シャンペルレ公爵家の直轄領は治安がいいと聞いていたので、さぞかし住人は平和ボケしているだろうと思っていたのに裏切られた。むしろ住人の警戒心が強いからこそ犯罪が少ないのではないかとさえ思えてくる。いずれにせよこのままでは商売あがったりだ。

「薬付けにしてどこかの貴族に売るか? 奴隷にして売るか? バラして売るか?」

 にやついて憐れな女の将来を思い描く。肉がついた若い女には高い値が付く。ちらりとみえた真白の肌は滑らかで、相場より高く吹っかける事ができるかもしれない。

「なんだ結局、売るのかよ」

 突然聞き覚えのない声が混ざり、男たちは一斉に振り向いた。路地の入口に見知らぬ男のシルエットが浮かび上がる。男は頭の後ろで手を組んで、飄々と笑った。誰だ、と男たちの一人が声を荒げたが応えることはない。

「久々に大猟か?」

 軽薄な態度は数人の男を前にした人間のそれではない。むしろ嬉しそうに舌で唇をなぞった。確かに上背はあるが、一人でこの人数を相手にするつもりなのだろうか。

 どこか不気味で、男たちは顔を見合わせた。そのうちの一人が歩み出て、男の前で腕を組む。細い路地の中央で二人は真っ向から対峙した。

「人の商売に口出ししないで欲しいね」

「商売、ねぇ……」

 にやついた瞳に、仄暗いものが混ざる。ぞ、と男たちの背中に冷たいものが走り、わずかにたじろいだ。冬の風が路地を吹き抜ける。気付けば胸元を掴まれ、鈍い音が響いた。

「お前らの手に負える女じゃ、ねぇ、んだ、よっ、と」

 声に合わせて一人、また一人と男たちは倒れていった。伸びた体は路地を塞いで邪魔なので、片手で担いで端に寄せた。折り重なった男たちからくぐもった声が聞こえたが放っておく。

 すると、石畳に足音を響かせて黒髪の彼女が目の前に現れた。外套や靴は町娘の風貌だが態度は大きく、腕を組んで煩わしそうにしている。

「こんなところで時間つぶしですか、フィード」

 いい御身分ですね、と嫌味っぽく付け加える。

「ロクテーヌ、いいだろ?」

 フィードは倒れた男たちに目をやって、視線で訴えた。体だけはでかいが傭兵というには粗末な仕上がりで、服装はみすぼらしい。よく言って破落戸だ。その物騒な要求にロクテーヌは鼻で笑った。

「は? 駄目に決まっているでしょう」

「でもお前を薬付けにしてどこかの貴族に売るか、奴隷にして売るか、バラして売ろうとしてたんだぜ?」

「……結局売るんですか」

「だよな」

「でも駄目です。やめなさい」

 小さく息を吐く。フィードが腹を空かせていることは重々承知しているが、どんな屑でも一般人に手出しはしない。それに空腹が限界に達した際は目を見れば分かる。まだ大丈夫だ。

 ロクテーヌがくるりときびすを返したところで、足元がぐいと引かれた。殴り倒されていた男が足を掴んでいるのだった。

「逃、すか!」

「っ!」

 虫けらを見るような眼差しは男を逡巡させるには至らなかった。しっかりと固定された足首は振り払おうとしても動かすことができない。

「やめとけやめとけ。あとが怖い」

 フィードは男の手首を握り、思い切り力を込めた。呻き声と共に指先が離れ、ロクテーヌは服の裾を整える。その仕草は泥でもついたかのようで、失礼極まりない。

「フィード、気が変わりました」

「あ?」

「死なない程度にお願いします」

 明言を避けてにっこりと微笑む。苛立っているのだとフィードにはすぐに分かった。

「……ほら、言っただろ?」

 憐れむように男に話しかけて、振りかぶる。困惑している破落戸の意識はすぐに途切れた。



 夜に響く呻き声を聞き流しながらロクテーヌは路地を進んでいった。舗装されたアールゼリゼ通りから徐々に薄暗く汚れた通りへと足をすすめ、裏アールゼリゼと呼ばれる非合法の通りに辿り着く。先程の破落戸が頭を下げるような物騒な店が立ち並び、陰気な住人たちが今日も活気づいている。

 ただの町娘の格好ですらこの場所では浮いていた。しかし堂々と通りを進む町娘に手出しする者はいない。新参者か余程の馬鹿でなければ彼女に手出ししてはならないことを知っている。したがってロクテーヌは《店》まで何一つ憂慮することなく進むことができるのだった。

 裏アールゼリゼ通りの端にその《店》はある。無法者が統べる裏アールゼリゼには似つかわしくない、どこか上品で神秘的な店構えだ。煉瓦造りで古びてはいるが、手入れされているためか薄汚れた印象は受けない。

 看板もない扉の前に一人の青年が立ち尽くしている。躊躇いながら扉に手をかけるが、動かない。どこか安心したような顔で肩を落とした青年に声をかける。

「お客様でしょうか?」

 この薄汚れた通りにおいて若い女性の声は清涼感をもって響き、青年は反射的に振り返った。黒髪の女性が一人で立っており、景色から切り取られたように浮いている。

「女性の一人歩きは危ないですよ。特にこの辺りは」

「は?」

 ロクテーヌはきょとんとして、一拍の後ふっと顔を緩めた。花開くような綺麗な笑みだった。

「ええ……気を付けます」

「……笑い事では」

「いえ、人に心配されるのが久しぶりだったものですから」

「はあ……」

 いまいち伝わらない会話に青年は首を傾げた。無知な青年のありふれた気遣いが好ましく、くすくすと笑いながら懐から鍵を取り出す。その鍵を扉に差し込んだところでようやくロクテーヌの正体に気付いたらしく、青年は目を丸くした。

 月が真上に上り、裏通りを照らし出す。開店時間だ。

「どうやら今夜一番のお客様はあなたのようですね」

 鳴り響いたドアベルに吸い込まれるようにして、青年は店に踏み込んだ。

 ちょうどロクテーヌと同じくらいの年齢で、落ち着いた雰囲気の凡庸な青年だった。暖炉の前で屈むロクテーヌを呼び止めたかと思うと自然に火をつけたのでロクテーヌは驚いた。伸びた黒髪を後ろでまとめており、姿勢や仕草はきっちりとしているが上流階級のものではない。おそらくは身分が高い相手と接する機会のある仕事をしているのだろう。ティーカップを持つ指先は綺麗なもので職人の手ではない。

「——化け物退治、ですか?」

 温かなカップで指先を温めながらロクテーヌは聞き返した。いい人そうな顔をして、青年が持ち込んだのは非常に特殊な依頼だった。

 青年の暮らす町に数週間前から化け物が現れた。すでに十余名が亡き者となり、被害は留まるところを知らないという。商業で成り立つ国境付近の町であり、このままでは客が町に寄り付かないのだと青年は嘆いた。《店》の噂も商売人から聞いたらしい。

「化け物、というからにはそれなりの殺され方だったのでしょうね?」

「そう、ですね。見つかった遺体はすべて……」

 青年は言い淀み、目を伏せた。適切な言葉を探して視線を彷徨わせる。ロクテーヌはレモンティーを口にして続きをゆったりと待った。

「分解、されているんです」

「……肉片でも散らばっていましたか」

「いえ、綺麗に切り分けられている、といいますか……戯れに標本にした、ような」

 被害者の中には若く力のある男もいたこと、そして一連の事件が数週間前に始まり怒涛の勢いで行われたことから、誰かが化け物と呼び始めた。青年にとって《店》は正体不明の存在だったが、人殺しを請け負う以上何らかの暴力装置を保有していると期待したらしい。少なくともその推察は合っている。

 曖昧で抽象的な依頼だ。誰を殺せばいいのか分からず、したがってフィード一人に任せる事はできない。門前払いでもいいのだが、ロクテーヌの唇は淡く弧を描いた。

「その依頼、引き受けましょう」

「ほ、本当ですか?」

 青年は胸を撫でおろした。自分でも酷い依頼だと分かっていたのだろう、安堵で肩から力が抜けるのが見て取れた。《店》の客にしては珍しい類の青年だ。素直な態度が微笑ましく、誠実そうだ。

「申し遅れました。私はテイリスと言います」

 青年は手のひらを差し出した。重ねると案外強い力で固く握る。

「それでは三日後のこの時間に再度ご来店ください。契約成立です」

「……はい」

 テイリスは意外そうに眉をあげたが、そのまま微笑んだ。暖炉の炎が温かく、レモンティーの香りが漂う店内はとても物騒な契約を交わしているようには見えない。

「ちゃんと鍵をかけてくださいね」

 店を出る際、テイリスは心配そうに告げた。治安が悪い裏通りに女性一人、身を案じるのは普通のことだが笑ってしまう。ロクテーヌに手を出すような人間はいない。そうなったところで痛い目を見るのは相手の方だ。

「ありがとうございます……それではまた」

「はい、三日後に」

 裏通りに青年が消えていく様子を見守って、ロクテーヌは店に戻った。扉に鍵をかける必要はなかったがテイリスの言葉がよぎり、折角なのでかけてみた。少し外に出ていただけなのに指先が凍てつき動きが鈍い。暖炉に手をかざし、徐々に体温を戻していく。

「安請合い」

 批難なのか分からないがフィードに指摘されてロクテーヌは鼻で笑った。

「私はちゃんとやってみせますよ」

「それとも美形に弱いだけか」

「美形?」

 眉をひそめて青年の容姿を思い出す。確かに多少整っていたかもしれないがそれに何の意味があるだろう。美形かどうかはともかく、ロクテーヌにとっての彼は凡庸な平民に違いない。そもそも無茶な依頼を引き受けたのはその内容による。

「面白そうでしょう? 化け物退治だなんて」

 ロクテーヌはまだ見ぬ化け物に胸を膨らませて楽しそうだ。

「知り合いかも知れねえしな」

「貴方にはろくな知り合いがいなそうですね」

 はは、とフィードは笑い飛ばし、椅子を借りた。再度温かい紅茶を入れるロクテーヌを眺め複雑な心境に陥る。非常に頭の切れる彼女がやるといったのだからできる。力が及ばないときはフィードを上手く使って見せるだろう。冷酷さを持ち、大胆な策を練る事ができる。あらゆる分野に造詣が深く、新たに知識を取り入れることを苦にしない。

 ——そして、非力な人間の令嬢である。好奇心が仇とならなければいいが、と考えたが口にすることはなかった。



 提示した三日間で支障を取り除く必要がある。ロクテーヌは腕を組んでじっくりと考え込んだ。今回向かうサン・シエル町は国境付近に位置し、国交の拠点となっている都市付近の町だ。隣国だった時代もあるため異文化が混ざる興味深い地方だと文献で見た記憶がある。

 問題は一日二日で往復できる距離ではない、という点だ。何としても行きたいものの、白の人間に不審がられてはならない。テイリスに提示した三日はこの問題を解決するための期間である。

 今考えている案は二つ。一つはロクテーヌが気まぐれでシャンペルレ家保有の別荘に向かうというもの。連れていく女中をソミュールだけに絞り護衛には空の別荘を守らせればいい。サン・シエルに近い別荘、あるいは宿を選べば護衛の目も誤魔化しやすいだろう。唯一の欠点は、そもそもロクテーヌがこれまでに気まぐれで出掛けたことがなく不自然であるという点だ。こんなことならもう少し出掛けていればよかった。

 二つ目の案には協力者が必要だ。ロクテーヌが城を不在にすることを知っていながら秘密にしてくれるような、口が堅く、信頼できるような人物がいれば全て解決する。ソミュールが実在していればそれで済む話だが、中々思い当たる人物はいない。ソミュールと仲のいい料理人ならいる。だが秘密を共有するとなるとどうだろう。アンジェを巻き込むのも手段の一つだが、彼女に機転が利くだろうか。

 考えているうちに、戸を叩く音が響いた。最近のロクテーヌは部屋の中で給仕服を着ている機会が減ったため、突然の来訪にも余裕を持って対応できる。おずおずと部屋に入ってきたのは神妙な顔をしたミルティーニだった。正面の椅子に座らせて話を促す。机の上にはサン・シエル町とその周辺地域の地理や文化にかかわる書物が散らばっている。あくまで優雅な仕草でそれらを閉じ、机の端に積んだ。

「お姉さま、私、気付いてしまったんです」

「……あらあら、何でしょう」

 心当たりが多すぎる。ロクテーヌは微笑み、嫌な予感を悟られないようにティーカップに口をつけた。今日はハーブティーだが、これも絶妙に美味しくない。

「どうしてお姉さまが部屋から出ていらっしゃらなくなったか、です」

「……何のことやら」

「とぼけますのね」

 きらりとスカイブルーの目が輝いた。

 一体いつの間に悟られたのか、ロクテーヌには分からない。しかしロクテーヌが同じ立場であったなら、不審な行動を調べ、足取りを追うことで容易く答えに辿り着くようにも思う。幼かった妹の姿が強く脳裏に焼き付いて、油断していた。足元をすくわれるなんて、考えもしなかった。

「それで、彼は何というお名前なのですか?」

 やけににこにことしながらミルティーニは体を乗り出した。降参だ。ロクテーヌはどのようにミルティーニを味方につけるのかに思考を費やすことにした。

「……フィード」

「フィードさん」

 胸の前で指を組んで、宝物のように大切そうに繰り返す。生まれつき明るい性格だが、一層輝いて見えるのは気のせいだろうか。うっとりと目を細め、心から、純粋に、笑いかける。

「それが、お姉さまの恋人のお名前なんですね!」

「…………は?」

 令嬢にあるまじき低く唸るような声が出た。可愛らしい唇から耳を疑うような妄言が吐き出され、ロクテーヌの顔が歪んでいることにも気付かない。論理的に、理性的に考えを纏めようとしても、暴力的な誤解によってかき乱される。

「お姉さまに恋人がいらっしゃったなんて、私知りませんでしたわ」

「いませんからね」

「照れなくてもいいではありませんか。愛は素晴らしいことですわ。公にできなかったとしても恋する心は尊ばれるべきだと思いますの」

「そう何回も言わなくてよろしい!」

 愛だ恋だと眩暈がするような言葉の羅列にロクテーヌは声を荒げた。あり得ない。考えられない。一体何がどうなったらそんな酷い有様になるのか、導き出すことができない。

「お姉さま……」

 ミルティーニは口元に手を当ててはたと見つめる。

「動揺してらっしゃいます?」

「してません!」

 吠えるような剣幕ですぐさま否定した。立ち上がった勢いで長椅子ががたんと音を立てる。まるで肯定しているかのような粗相に唇を噛んで、平静そのものの表情で座りなおしたがもう遅かった。ミルティーニの微笑みが、優しく温かなものになっている。

「つい先日、朝一番に散歩していたらこのバルコニーで男性といらっしゃるのを見ましたの。バルコニーで語らっていたのでしょう? 身分違いの恋に見えましたが、私は応援しますわ!」

「……朝一番」

 ひとつ心当たりがある。《店》の仕事が早朝にかかった日、隠し通路を使う時間も惜しく、移動にフィードの手を借りた。そうだあの時、フィードの様子も少し変だったではないか。あの馬鹿な男、ミルティーニの視線に気付いていたに違いない。その時は時間がなくて追い払ったが、問い詰めておくべきだった。

「お姉さまが部屋の扉を閉じていた間も、二人は愛を育んでいましたのね」

「……」

 恋愛に憧れるのは結構なことだが、盲目になってしまうのはどうだろうか。本当にロクテーヌがそうだったとして応援するのもどうかと思う。遠く彼方を見ているミルティーニに、ふと思いついた。利用してやればいい。

「……そうです」

「お姉さま?」

 ミルティーニは急に黙り込んでしまった姉の顔を覗き込む。

「ええ、そうなんです。彼を愛しています」

「きゃあっ! やっぱり!」

 器用にも椅子の上で座ったまま飛び跳ねた。あまりに喜ぶので距離をおいて遠巻きに見ていたい気持ちになったが、あとひと頑張りする。

「ですが……私は普通の恋愛を楽しめる身分ではありませんから」

 悩ましげな溜息をついて指先で机の上の本をなぞる。ミルティーニには分厚い背表紙の中身を想像してもらう。サン・シエル周辺地域の図版が記載された色気のない本であったが、裏表紙を上にしているのでばれやしない。ロクテーヌは顔を背け、目を伏せた。

「物語は素敵ですよね。愛し合う二人は何処にだって行ける」

「お姉さま!いいえ、お姉さまだって何処に行ってもいいんですのよ」

 うるうると丸く大きな瞳に涙が溜まっている。公爵家の令嬢が何処に行ってもいいわけがないが、今はどうだっていい。

「私にできることなら何でも協力いたしますわ!」

「……そうですか」

 手でおさえた口元がにやりと曲がった。

 ミルティーニは異常なほど物分かりが良かった。数日部屋を空けたいと伝えるだけで、公爵の目も女中の目も一人で欺いてみせると張り切った。女中の一人に知られたことがきっかけで全てが台無しになるのが定石だそうだ。非常に頼もしいと同時に空恐ろしいものがあった。

「愛の逃避行ですわね! どうぞ楽しんでらして」

 去り際、ミルティーニは片目を閉じて微笑んだ。ばたん、と扉の閉まる音がロクテーヌを置き去りにする。どうにか作っていた笑顔が引きつった。

「あ、愛の逃避行……」

「なんだって?」

「っ!」

 今一番会いたくない相手の声がして、ロクテーヌの細い肩が跳ねた。突然現れたって普段は当然と言わんばかりの態度をとっているくせに、小さな悲鳴が飛び出たのでフィードも目を丸くする。

「……なんですか」

「いや、こっちの台詞なんだけど」

「はあ? 文句でもあるんですか」

「俺は何も言ってない」

「そのまま黙っていなさい」

 ふん、と鼻を鳴らして乱れ一つない髪を整える。机の下で丸くなっていたビオを抱き上げ膝の上に乗せた。ビオは足をぷらりと垂らしてロクテーヌを見つめていたがすぐにまどろんだ。温かな重みが精神を落ち着けるには丁度いい。

「片がつきました。サン・シエル町へ参りましょう」

「へぇ、どうやったんだ?」

「それは……」

 嫌な言葉が頭をよぎったが、一瞬で記憶の底に沈める。

「それは、内緒です」

「ふーん」

 気のない返事だ。それでいい。何も知る必要はない。

 ロクテーヌは再び本の世界に戻るべく机の上に数冊並べ、表紙に手をかけた。

「……彼を愛しています」

「……っ聞いていたのならそう言いなさい」

 呪いのような言葉がロクテーヌの動きを止める。じろりと睨み上げると、反省の色一つ見せず、いたずらっぽく笑った。

「で、俺が攫えばいいのか?」

「……今日は随分と調子にのってらっしゃるようじゃありませんか」

「今日は随分揶揄い甲斐がある」

「最低……!」

「ははっ」

 からっとした笑い方がこんなに憎らしく見える日が来るとは思わなかった。ロクテーヌは手のひらを握り締めるも、面倒な反応が返ってきては苛立ちが募るだけなのでそっと怒りを静めて黒猫の背を撫でた。

 ともあれ、テイリスとの約束の夜、無事に店主は裏アールゼリゼに姿を現したのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る