第9話 観測されない限り
ボーっとしていたら3限が終わっていた。英語の授業なのに2限で終わった歴史の教科書を広げていた俺のことを見ていた隣の雫石(しずくいし)は、さぞ笑っていたのだろう。
「おいおい、浮かない顔してんなぁ、大丈夫か緋村?」
背後から軽い声がする。仕方なく振り返ると、2冊のノートを持った井戸端(いどばた)が雫石の席に座った。いつものように屈託なく笑う俺の友達に、1つ忠告をしておく。
「やめておいた方が良いぞ。その行為は犯罪と言われても俺は否定ができん。」
同級生の席に座っているだけだが、雫石の席であることがこの行為を犯罪行為へと昇格させている。
雫石はアイドルをやっている。Idol(アイドル)という安直、と言ったら失礼だな。わかりやすい名前のグループで活動をしている。確か6人グループで雫石は最年少だったはずだ。アイドル関係には疎い俺ですらそこまでの知識があるほど、Idolはかなり有名であるということだ。あとは言いたいことは伝わるはずだ。
雫石のファンに殺されるぞ?
だがこの男、その辺の感覚がかなり一般から離れてしまっている。俺が強く止めなければそのまま座り続けるだろう。
「まぁそう言うなよ。一度しかない青春だぜ?もっと楽しんでいこうぜ?」
作業をしながら緩めの表情をこちらに見せる井戸端。悪いが俺は殺されるのはごめんだぞ?
なぜかキリっとした表情に変わる井戸端。一度しかない青春のために、一度しかない人生を棒に振る覚悟があるようだ。
素晴らしい、その覚悟に、乾杯。俺は強くは止めなかった。
それ以上に気になっていることを切り出す。
「それより井戸端、お前が今必死こいて写しているそのノート、すごく見覚えがあるんだけど気のせいか?」
同じノートを使っている人間はたくさんいるから断定はしていないが、確信はしている。こいつ、1限で提出した俺の数学のノートを数学教師である刈谷の机から引っ張ってきたのだ、わざわざ職員室から。
「まぁ落ち着けよ。」
「逆になんでお前はそんなに落ち着いてるんだ?」
「大丈夫だ。刈谷が課題を見るのは早くてもその日の放課後だ。俺は考えた、一度提出した俺とお前のノートをいったん回収し、再度提出することで俺は期限に間に合ったかのように見せられるのでは、というわけだ。」
というわけだ、じゃねぇよ。俺にメリットが1つもないぞ。
「じゃあお前、一度何も書いていないノートを提出したってことか?」
「そういうことだな、参ったか?」
参った。こいつの肝の座り方は尋常ではない。とても俺のような一般人には真似できない。刈谷にバレたら絶対こいつを告発してやる。
「なんで事前にやっておかなかったんだよ。」
「分かってないな緋村よ、人間は追い詰められれば追い詰められるほど、力を発揮する生き物なんだぜ?現にほら、今俺はこれだけ話しながら8割方写し終えたぞ?」
写しておいて自慢げに語るな。
「まぁ確認するまでに戻せば、それまでずっとあったのとなんら変わりはねぇだろ?無かったと観測されなければ、ずっとそこにあったことにできるんだよ。」
そんなもんかね。
...観測されなければ...。
「あっ!」
電撃走る。
「おぉ、どうした急に大きな声出して。急にグラウンド走りたくなったか?」
井戸端のどうでも良い会話も、雫石の席に座ったことで井戸端が浴びている嫉妬の目も、俺には何も気にならなくなった。
瞬発的に俺は携帯を高速でフリックする。七篠に連絡するためだ。
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