転移の章
05 獣
——痺れるように頭が重い。
ファウスティは頭を振り、上体を無理矢理起き上がらせる。
(……一体、何が起きたんだ……?)
——確か俺たちは突然現れた『穴』に吸い込まれ——
(……そうだ、ドメーニカは……?)
少女のことを思い出し、焦燥感に駆られながらファウスティは周囲を見渡した。
果たして少女は——いた。
ファウスティの隣で、仰向けで横たわっている。彼は慎重に耳を澄ます。どうやら息はあるようだ。寝ている、というよりかは意識を失っているといった感じだろうか。
だが、それよりも。
(……どういうことだ?)
彼はジンジンとする頭をなんとか覚醒させながら考える。
空には分厚い雲がかかっていた。先ほどまでは晴天だったのに。
そしてなにより——二人のいる場所は、見覚えのない草原だった。
(どこかに、飛ばされたのか……?)
ファウスティは懸命に考えるが、駄目だ。何一つ、状況が理解出来ない。
「……とりあえず……ドメーニカを安全な場所まで……」
そう思い、ファウスティが少女の身体を揺すったその時。
——彼の耳が、本能が、危険を感じ取る。
遠くから草を揺らす音。ファウスティは警戒し、辺りを注意深く観察する。
音の正体は——いた。
身を屈め、こちらを窺いながらジリジリと迫り来る狼の群れ。十体くらいはいるだろうか。それらがファウスティたちを取り囲もうとする動きを見せている。
(……マズいな)
逃げたところで、簡単に追いつかれてしまうだろう。万全の状態でも難しいのに、足の悪い彼がドメーニカを抱えて逃げるとなると、尚更だ。
なら、戦うしかないが——今のファウスティには銃も剣もない。
ファウスティは唾を飲み込み、手探りで手頃な石を拾い上げた。気休め程度だが、これで何とかするしかない。
群れのボスらしき狼と、目が合う。その時、違和感に気づいた。
(……本当に、狼なのか?)
それらはファウスティの知るものよりも一回り、いや、二回りほど大きい。
そして、牙。あんな大きく鋭い牙を持つ狼は、彼の記憶にはなかった。
周りの狼たちも、同様の特徴を持っている。ファウスティは額に汗を滲ませた。
(……ドメーニカだけは、何としてでも——)
群れのボスらしき狼が、こちらに向かい駆け出してきた。それを合図に、一斉に動き出す狼たち。
ファウスティは立ち上がり、身構え、そして——吠えた。
「——ドメーニカは、俺が『守る』!」
狼が迫り来る。冷静に観察するファウスティ。やがて数匹の狼が、二人に向かって飛び掛かり——。
「……え?」
信じられない。ファウスティは茫然とする。
その牙と爪を立て飛び掛かってきた狼たちは、ファウスティの目前で何かにぶつかり、身を翻して後ずさったのだ。
唸り声を上げながらファウスティを睨む狼たち。何匹かは後ろ足で立ち上がり、爪を立てて何かをガリガリと引っ掻いている。
そう。まるで『見えない壁』がそこにあるかのように——。
二人を中心に半径五メートルほど。それ以上、狼たちは近づけないでいた。
ファウスティは警戒を緩めずに考える。
(……分からない……何もかもが……)
見知らぬ草原、見知らぬ狼、不思議な見えない壁。
とりあえずの危機は脱したようだが——安心は出来ない。
今、ファウスティたちを守っている『何か』も、いつまで持つか分からないのだから。
執拗に見えない壁を引っ掻き続ける狼。険しい表情でそれを眺めるファウスティ。
その時、少女の声が響いた。
「——ファウスに近づかないでっ!」
直後、ファウスティたちを囲むように炎が渦巻いた。
炎が、まるで意思を持ったかのように狼たちを食い破ってゆく。
やがて——炎がおさまると、狼たちは黒い粒子状のものとなり、風に流され溶けていった。
「……ドメーニカ!」
我に返ったファウスティは、少女の名を叫ぶ。
その少女は、震える身体でファウスティを見つめていた。
「……ファウス……何が、起こったの……?」
頭を押さえ、怯えた瞳を逸らす少女。ファウスティは周囲を見渡し、かぶりを振った。
「……分からない。分からないんだ、何もかも……」
ファウスティは考える。先ほどの狼、そしてその消え方。それはまるで、この世のものとは思えなかった。
(……俺たちは死んで、地獄に落ちてしまったのか?)
いや、それはない。
何故なら血に塗れたファウスティはともかく、目の前の純真無垢な少女が地獄に落ちるなんて、あり得ないのだから。
「……ドメーニカ、とりあえず移動しよう。立てるか?」
「……うん」
ドメーニカは立ち上がり、いつものようにファウスティの左側に回ろうとする。
その時、ファウスティは自らの身に起きている異変を自覚した。
「……治っている……」
「……えっ?」
不思議そうな顔を浮かべ聞き返す少女に、ファウスティは茫然とした表情を浮かべて告げた。
「足が、治っているんだ。ドメーニカ……」
「……ホント?」
言葉も発せられずに、困惑した表情を突き合わせる二人。
——分からない。ここはやはり、死後の世界なのか?
ファウスティは息を吐いた。
「ああ……とりあえず歩こう。疲れたら言ってくれ。君を背負っても、大丈夫そうだ」
「……うん」
ドメーニカは変わらず、ファウスティの左側を支えて歩き出す。
——彼らはまだ、気づかない。ファウスティは『守る』力、ドメーニカは『滅び』の力を手にしていることに。
こうして『穴』に飲み込まれ転移した二人は、トロアの地を歩き始めるのだった——。
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