眠らぬ躯(ねむらぬむくろ)

荒木アキラ

眠らぬ躯

夏が終わらない年だった。

田畑では稲架(とうか)の向こうに

あちらこちらで最後の野焼きが行われ、

朝というのに日差しに汗が滲むような季節。

カラカラに干上がった蝉の死骸が、

枯れ葉のように路(みち)を転がって行く季節。

そして未だ繁茂(はんも)する欅(けやき)の大樹(たいじゅ)には、

先の死骸がまだ幼虫であった夏を思わせる抜け殻がひとつ。

その周りを無数の赤とんぼの群れが、生温い風の中を

薄気味悪くいつまでも同じ様子で浮かんでいた。

この一連の風景を、縁側から眼差しだけで無関心に眺めやる女がいた。

女は黒曜石(こくようせき)の瞳に、短く断ち切った黒髪、

長めの黒いブラウスをゆるやかに纏い、ただ、

足元に揺れているレースのスカートだけ真っ白かった。

その姿はどこか捉えどころがなく、

全体的に幽玄な雰囲気を醸(かも)している。

「死んじゃいな死んじゃいな、だめよ、死んじゃいや死んじゃいや。」

紅を塗るわけでもないのに妙に婀娜(あだ)っぽい唇からは、

そんな不謹慎な言葉遊びがはらはらとシャボンのように流れていった。


「いけませんね、今日で一月半。」

ふいに奥座敷から重々しい声がする。

白衣を着て寝床のそばにかしこまる四十絡みの男の医師は、

細いガラスの体温計を手にしている。

「わたし、死ぬかしら」

不躾なほど真正面から女は問うてみた。

が、その口調は歌うように朗らかで、

一瞬なにを聞かれたか測りかねた医師はうっとりと女を振り返る。

往診に訪れるのは、この二月(ふたつき)のうち四度目だが、

いつ訪れても発熱を疑うほど渇いた身体、

不気味なほどの冷静さ、焦燥をみじんも見せないこの患者が、

じつは医師の目下の興味対象だった。

「昨夜は何度でした?」

「さんじゅうはち」

「それはもう微熱ではありませんね。

一度大きな病院で見てもらった方が…」

縁側に立つ女に見下ろされていると、

医師は逆光の中に

金色(こんじき)に輝く阿弥陀さまが立つ妄想に囚われた。

そのため、いつもなら床の中に伏せる病人を

下に見ながら言い聞かすはずの言葉が次第に力なく立ち消え、

威厳もなにもあったものじゃない。

まぶしさのため、医師の目が塞がっているうちに、

女はようやくゆっくりと鴨居をくぐって、

奥座敷の自分の身体の形を為(な)したままの布団まで戻ってきた。

「あと、そう寝起きを繰り返すのもよくないですね。

どうして大人しく床についていないのです。」

現実の女の形を取り戻した患者には、

先程とは打って変わってぴしりと厳しく言えるのに。

自分は仕事と私情を混同しているのか。

医師は自分自身に疑心を抱きながら、女の脈をとった。



女は脈を取られるのが嫌いだった。

それは女性特有の恥じらいから

身体を診(み)られるのを嫌がるわけではない。

ただ、脈を取られると、青い血管が赤く現実味を帯びて、

そこに血のめぐる管(くだ)を思い、

ともするとそれは肉を突き破りひとつの器官として蠢(うごめ)き出し、

自分の意思ではどうしようもない

血の迸(ほとばし)りへ向かう妄想を掻き立てた。

その意思の通じぬ器官を思うと、女はくらくらと目の前が暗くなり、

いまにも倒れそうになるから、脈をとる間じゅう思考を堰(せ)き止め、

意識を別のなにかに縛り付ける必要を感じるのだ。

「赤とんぼ」

「の、赤は、あれはわたしたちと同じく赤い血をもつのでしょうか。」

女は白いなよやかな腕から明らかにそっぽを向いて、

微妙にずれた話をしている。

その様子があまりに幼く、先程の神々しいまでの美しさと

不釣り合いだったものだから、今度はあまりに可愛すぎた。

医師は、真面目に脈をとりながら笑ってはいけないと己を抑える。

が、その口の端はやんわり緩むことを禁じ得ない。



「赤とんぼが赤いのは、茜空のせいではないですか」

そうなにげなく返答したのが、妙に少女好みな詩的麗句だったので、

医師は急に恥ずかしくなり、それ以後黙々と診察を続けた。

ややあって、医師は女がニヤニヤこちらを見ていることに気づいた。

「…可愛い」

とだけ言い捨てて、診察の終わった女は裸の肌に

またてろてろと黒光るブラウスを羽織って立ち上がった。

「伏してなさいと何度も申しているでしょう。悪化しますよ。」

むきになればなるほど、医師は惨めな気分がした。

こんなことなら、

「そうですよ、赤とんぼを指でひねると、赤い血が飛び散るのですよ」

とでも嘯(うそぶ)いて脅かしてやればよかった。

そんなことを悶々と考えながら、帰り支度を始める。

「先生」

また縁側から声がして振りあおぐと、

女はうららかな陽光の中に半ば姿を溶かしながら、

さっき留めたはずのブラウスのボタンを、ひとつ、はずす仕草をした。

医師は固唾を飲んだ。



「熱が」

「下がらないの」

言いながら揺れて、ふっくらと白い手で手招きする。

夢の記憶のように、はっきりとしない朧げな肢体は、

レースのカーテンが風に舞うたびに見えては隠れ、

翳っては光りを繰り返す。

触れてみたい。

いや、抱いてみたい。

その滑らかな皮膚や毛髪、手や足のような断片と戯れるでは飽き足らず、

女の臓腑がきちんと収まっている体躯(たいく)を、医師は欲してやまなかった。

彼女自身見ることも触ることも、自在に操ることも叶わぬ内的器官を、

柔らかな肉越しに抱きすくめたい。

それが、解剖学を修めた医者特有の欲望だとは、彼は思わなかった。

男ならだれしも、女の本体を、

その不可思議な正体を捕らえたいと努めるものではないだろうか。

ただ自在に上下する胸郭すらも、ありったけの力で抑え付け、

息もままならない姿にしてやりたい。

暗い欲望が熱く彼を征服した。



医師はひとりの男に立ち返り、

目の前にある誘惑に流されてみようと思い至る。

「死んじゃいや死んじゃいや、うそよ、死んじゃいな死んじゃいな」

ただ、耳の奥にそんな残酷な言葉遊びを聞きながら、

男は女を追いかけて陽だまりへと踏み出す。

「いやかい」

掠れた声で女に尋ねると、

「死ぬまで待って、死ぬまで舞って…」

ちぐはぐな答えが嬌声にまぎれて返ってくる。

熱のためか、見慣れぬ真っ白なスカートのせいか、

女の足取りが男には皆目読めなかった。

正に倒れるそのときまで、無心に可憐に舞っている蝶のようだ。

やっとのことで腕をとったときには、ふたりとも相当息が上がっていた。

女が正面にまわり、

つるっとした額を男のざらざらした顎につけてささやく。

「死んじゃった…」

それを合図に男は渇望した女の胴体を、こわれんばかりに抱きすくめた。

男の厚い胸に、女の小さな心臓が激しく脈打つのがわかる。細い肋骨の内を、縦横無尽に奔る動脈の狂騒を両の手に感じる。

それが、病のためであれ、激しい逃亡劇のためであれ、

男には一緒のことだった。

その理由を自分の魅力のためと夢見るには、

歳をとりすぎていたのだ。

この女の玉のような厚み、丸み、弾力、内的器官を身体に感じるだけで、

満足するべきだ。

この胴体、細くこじんまりした体躯を切り株状に割ってみて、

上から覗いてみたいなどと、変態めいた妄想があたまをもたげたが、

男の肩にくったりもたれかかる女の首の重みから、

これがただの熱を持つ躯(むくろ)でないことを思い出す。

そういえば、この女、どんな顔をしていたっけ。



男はようやく腕をほどき、両の手で女のつむりを包もうとする。

が、女は男の首にしがみついて、その顔を見せようとはしなかった。

しばらく男女は戯れ合うかのように揉め、

はじめは互いに遊びだったものが、

次第に真剣味を帯びて女の手に力が入り、

それにぎょっとした男の手が少しだけ強かったものだから、

それが女には決定的に気に入らなかった。

「帰ってください」

最後は消えいるように女が言ってから、その身体はさっと後ろを向いた。

「夜には熱が三十九度をまわるでしょうよ。」

女は自分で自分を抱きしめながら、はすに構えて男を目の端に見やる。

その横顔の、なんと見事に恨めしく艶めいていたこと。

見てはならぬ領域を越えてしまったと悟るほどに、

女はえも言われぬ愛い表情をしていた。

夜には。熱が。まわるでしょうよ。

その節のひとつひとつが淫靡で妖艶で、なにかを示唆するに十分だった。

男は女が限界を超えて変化(へんげ)するのを見るためだけに、

夜半、人目を忍んでこの縁側に来ようと誓う。

火照りの頂(いただき)を迎えて身悶える女が、

縁側の月明かりにようやく這い出た姿は、

夢幻(むげん)のように美しいだろう。



「死んじゃいな死んじゃいな」

耳元でそっと、女の口真似をしてやろうとすら男は思った。

女はきっと、歓びに絶えかね身を捩(よじ)り、

なよやかな腕で柱に取り縋(すが)って、

「ちがう、死んじゃいや死んじゃいや。」

熱い吐息だけ、音にはならない声を熱気に潤む唇に発するだろう。

そうして、女が燦爛(さんらん)たる最期を遂げるあいだ、

男はその体(からだ)とも躯(むくろ)とも言えない

曖昧な美を抱きしめながら、

それがゆっくりと事切れる音を聞くのだ。

くびり殺す。

男の夢が叶うとき、この二月(ふたつき)が

走馬灯のように女の脳裏に蘇り、

リフレインする言葉が今は果てた蝉の声に重って夜の静寂(しじま)に流れ出す。

そしてその言葉の意味も消え失せるほどの長い長い刻(とき)を経て、

鬱蒼と茂る庭の松の間から剣(つるぎ)のような朝日が一筋、

実体のある影を畳の上に落とすだろう。

そこには、眠らぬ躯(むくろ)が縁側の柱を背に座している。

それが生きているか死んでいるかは、

灼熱の闇を愛したことのあるものだけが知るところである。


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眠らぬ躯(ねむらぬむくろ) 荒木アキラ @masakasoreha

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