第三十話 「颯太で決まりだよ、一回戦のセカンドは」

 七月六日の金曜日、午前十一時五十九分。


 時計に視線を向けた颯太は一つ息をつき、腰を上げる。



「来週、台府銀行さんの選手と練習か……」



 颯太は七月十四日と十五日、そして開幕二日前の十八日に台府銀行硬式野球部の選手との練習に臨む。練習場所は、台府市内に構える台府銀行野球場だ。


 時計の針が正午を指すと同時に、颯太の視線はエレベーターホールへと向く。



「まずは、受け入れてもらうことから……」



 自身に言い聞かせるように小声で言葉を発し、エレベーターホールへ歩みを進めた。



 

「高校、大学の有名選手が集まってくるチームだからな」



 社員食堂のテーブルで悟は颯太にそう話すと、腕を組む。


 颯太は箸を置くと腕を組み、天井の蛍光灯へ視線を移す。


 颯太自身、名の知れた選手ではない。



「俺、浮いちゃうかも」



 視線を悟へ移した颯太はそう話すと、苦笑いを浮かべる。


 

「そんなことないって。皆、颯太のプレーに注目してくれるよ」



 悟は笑顔で颯太に言葉を掛ける。


 颯太は悟の言葉が耳に届いた瞬間、苦笑いの「苦」の文字が消え去った笑みを浮かべる。



「ありがとう、気を遣ってくれて」



 悟は颯太の言葉を聞き、笑顔のままで首を小さく横へ振る。


 悟の言葉は本心だ。



 颯太は数秒間、悟の目をじっと見つめた後、視線を窓へと移す。窓の外では、小鳥が気持ちよさそうに青空の下を泳いでいる。


 しばらくし、小鳥は颯太達の元へ向かうように飛行する。そして窓の数メートル手前まで迫ると、軌道を上空へと変える。


 小鳥の姿が見えなくなると、無意識のうちに硬くなっていた颯太の表情は徐々に、笑みへ戻っていく。


 颯太はゆっくりと目を閉じると、僅かに顔を俯ける。そして、悟が掛けてくれた言葉を頭の中で再生させる。


 音声が終了すると颯太はゆっくりと目を開け、顔を上げる。


 颯太の目の間の前には、変わることなく笑顔で見つめる悟の姿が映る。



「注目されても、監督に『使いたい』と思われないと意味がない。まずは、来週からの練習で、アピールする。そして、受け入れてもらう」



 颯太が笑顔でそう話すと、悟は腕組みを解く。



「試合に出場し、チームの優勝に貢献することが、俺の最大の使命だと思ってるから」



 颯太が言葉を続けてからすぐ、千恵が同じテーブルに着く。


 

「バッティングでも、守備でもなんでもいい。俺の持っているものが役に立つのならば、俺は持っているものをすべて出し切る。ただそれだけだよ」



 颯太はにやりと口元を緩めると、箸を持つ。


 悟は颯太の言葉を聞き、目を閉じ、小さく頷く。


 それからすぐ、颯太の元に幸道が笑顔で歩み寄る。


 颯太は幸道の姿が目に映った瞬間、腰を上げる。



「来週から台府銀行さんと練習するんだって?」


「うん。頑張ってくるよ!」


「頑張れよ。何があっても、俺達は颯太の味方だからな」


「『何か』って……まあ、でも、ありがとう。心強いよ、その言葉が」



 颯太と幸道は笑顔で言葉を交わす。


 ゆっくりと目を開けた悟の視線の先には、笑顔で言葉を交わす颯太と幸道の姿が映る。


 

「セカンドは、颯太で決まりだろ。一回戦は」


「何を根拠に……」



 颯太が呆れたような声で幸道の言葉にこたえると同時に、悟は囁くように言葉を発する。



「颯太で決まりだよ、一回戦のセカンドは……勝ち進んでも、セカンドは颯太だ」



 悟の言葉を聞き逃さなかった千恵は共感するように小さく頷き、視線を颯太へ向ける。


 千恵の目には、幸道の言葉に呆れたような笑みを浮かべる颯太の表情が映る。


 千恵はやさしい笑みを浮かべ、颯太を見つめる。



「もしかしたら颯太、プロのスカウトからも注目されちゃうかもな」


「気が早い。というか、俺がプロのスカウトの目に留まるわけないじゃん」



 颯太は幸道の言葉に間髪を入れずにこたえる。


 それからすぐ、悟と千恵は互いの視線を合わせる。


 

「いや、あるかもしれないじゃんか」



 幸道が颯太の言葉にこたえると、悟と千恵は視線を合わせたまま、小さく頷く。


 

「俺はこの会社に残るぞ。発案したい商品がたくさんあるから」



 颯太の言葉で、幸道はゆっくりとした動作で腕を組む。



「まあでも、その方がいいな、俺としては。颯太がいなくなると、寂しくなるから。一緒に、この会社を更に大きくしていこうぜ」


「うん!」



 幸道は颯太の左肩に手を置くと、受取口へと歩く。


 颯太は幸道がメニューを注文する声を聞き、椅子に腰掛ける。そして箸を持つと、千恵の寂しさに近いものが詰まった声が耳に届く。


 

「仮に、颯太がプロ野球選手になったらすごく嬉しい半面、寂しくなる。私も、残ってほしい……」



 颯太はゆっくりと視線を千恵へと向け、一度箸を置く。


 

「どうしたの? 千恵ちゃん」



 颯太は心配そうな表情を浮かべ、千恵を見つめる。


 千恵の表情は徐々に寂しさのようなものに包まれていく。


 しばらくして千恵は口を開き、言葉を発しようとした。


 すると、颯太は寂しさのようなものを切り裂くような笑みを浮かべ、こう言葉を発する。



「俺はこの会社のグッズ開発部に在籍する社員で、隹海クラブ所属の野球青年」



 颯太が言葉を発してからすぐ、千恵はゆっくりと口を閉じる。



「俺は俺だよ、千恵ちゃん」



 颯太は言葉を繋げると、やさしい笑みを見せる。


 すると、千恵の表情から寂しさのようなものが徐々に消え去っていく。


 やがて千恵は笑顔を浮かべる。



「まずは、隹海クラブの選手として、来週からの台府銀行さんとの練習に臨む。それだけだよ」



 颯太は再び箸を持つと、更に言葉を繋げる。



「『セカンドは京極だ』と台府銀行の監督さんに言っていただけるように、そして優勝できるように頑張るよ!」



 颯太の言葉と同時に、小鳥が再び窓の外に姿を現す。そして、颯太の言葉を天に届けるように澄み切った青空に向け、勢いよく羽ばたいていった。

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