第2話 お寺に住むお嬢様
「まったく、おじいさまも咲太も、こそこそひとさまの悪口など、心底みそこないましたわ。」
突然そのとき、食堂の入口の方から、女の子の声が聞こえてきた。このお寺には、俺の知る限り女の子は一人しかいないので、声の主が誰だかすぐにわかった。このお寺には、住職の孫娘であるあいつ以外、女は一人もいない。
「人のわるぐちを人前で堂々といえないほどに小心者のお二方には、あきれてものもいえませんの。」
住職の孫娘であるその少女の声が、40畳ほどの畳敷きの食堂に冷たく響いた。さっきまでお坊さんたちで賑わっていた食堂の空気が、一瞬にして凍りついた。
俺はその声の主を探すため、急いで後ろを振り返った。すると、食堂の扉の前に、紺色のセーラー服を着た小柄な少女が立っているのが見えた。膝上までの紺色のスカートに黒いタイツ姿のその女の子は、腕を組みながら仁王立ちの恰好でこちらを睨みつけている。
すると、その少女、つまり伊井野小春は、すごい速足で俺と住職の方に近づいてきた。足音がドンドンッと一歩一歩床に響き渡る。次第に足音が大きくなり、ますます近づいてくる。やばい、殺される。俺はその少女を見た瞬間、すぐに逃げるために振り向いて走り出そうとした。
しかし、俺に逃げる時間はもうなかった。俺は、食堂に入ってくるお坊さんに真っ先にご飯を渡すため、できるだけ入り口近くに立っていた。それが裏目に出たのだ。小春は俺の目の前まで来ると、おもむろに右足を振り上げた。その動きには躊躇いがない。信じられないほど素早い動きだ。やばいと思った瞬間には、もう遅かった。
次の瞬間、ドスッという骨が軋むような音とともに、突然の鋭い痛みが俺の横腹に走った。横腹からあばら骨のあたりまで、小春の右足が勢いよくねじ込まれてきた。やばい。素足から伝わる冷たい感触が、逆にその痛みを一層鋭く感じさせてくる。素足で蹴られたが、俺の横腹には今にも倒れ込んでしまいそうなほどの衝撃が走った。
激痛が横腹から全身を駆け抜け、俺は無意識に膝から崩れ落ちた。そのまま俺は床に倒れこむ。
「うっ…!」
苦しみながら声を漏らすも、小春は俺のそんな様子に目もくれないで、ただ住職だけをじっと睨んだ。どうやら、小春にとって俺はもう用済みになったらしい。
「小春も、そんなわしの冗談をまにうけんといてくれ……。たのむ…。」
住職は焦りながら、必死に小春をなだめようとする。というより、住職は必死に小春に許しを請いでいるように見えた。京都で鎌倉時代から800年以上続く由緒正しいお寺の住職(=84歳)が、目の前にいる小春(=14歳)に頭をぺこぺこと下げている。なかなかすごい光景だ。
小春は、慌てふためく住職の様子を横目に、さっき俺を蹴ったせいで折れ曲がったスカートの裾を丁寧に直している。どうやら、スカートの裾が折れ曲がっていたのが気に入らなかったらしく、「ふぅー。」と少しため息をついている。なんで人を蹴り倒すようなやばい奴が、スカートの裾が少し折り曲がってるぐらいで気にするのか俺には正直分からない。たぶん、小春みたいなお嬢様と、俺みたいな一般人では感覚がかけ離れているのだろう。それでも、人を急に蹴っていい理由にはならないが。
少しして、スカートの裾がきれいに整い満足したのか、小春は住職の方に向き直った。小春は、びくびくと怯えている住職を目の前にして、まるで住職を諭すかのような口調でゆっくりと話し始めた。
「わたしは何もおじいさまと咲太には怒っておりませんの。」
住職はその言葉を聞くと、少し驚いた様子で目の前の小春の顔色をうかがいながら尋ねた。
「でも、小春、怒ってないんだったら、どうして咲太君をあんな風に蹴ったんじゃ?」
住職の質問はもっともだ。正直言って、小春が俺と住職の会話を聞いていたなら、真っ先に俺じゃなくて住職を蹴っているはずだ。小春の悪口を言ったのは住職で、俺は何も言っていなかったのだから。
すると、小春は冷ややかな表情一つ変えずに、まるでそれが当たり前であるかのように言った。
「わたしは咲太が私の前でおどおどしているのがなんとなく癪に障っただけですの。たかが小言一つ言われたくらいで、私は怒ったりしませんので。」
住職は小春のその言葉を聞くと、見るからにホッとした様子で胸をなでおろした。
「小春、わしをびっくりさせんといてくれ。てっきり、この後わしも蹴られるもんだと思ってびくびくしてたわい。」
小春は、紺色のスカートに黒いタイツ姿のその女の子(=美少女)は、表情一つ変えずに腕を組んだまま仁王立ちの恰好で立っている。
「おじいさまったら、私がおじいさまを蹴るわけないでしょう。おじいさまは私の尊敬するお人ですもの。蹴るなんて野蛮な行為、おじいさまにはしませんので。」
小春は言いたいことを言えて満足したのか、まるで何事もなかったかのように、そのまま食堂のテーブルの方に歩いていってしまった。
「とりあえずよかったわい、わしが蹴られんですんだことがわかって。ほんまに、わしがひどい目に遭うかとおもったわい。」
そう言うと、住職もすたすたとテーブルの方に歩いていった。俺はてっきり、住職が小春に「人を蹴るのは良くないぞ。」みいに叱ってくれるもんだと思っていたが、どうやら住職にとって重要なのは自分の安全だけで、他のことにはあまり興味がなかったらしい。
本当に、このお寺に来てもう5か月になるが、改めて思う。住職とその孫である小春の二人は、なかなかに自己中で情緒不安定なやばい奴らだと。たぶんこいつら、お寺という一般社会から切り離された空間で、生まれた時から暮らしてきたせいで、一般感覚が欠如しているのだろう。
正直、お寺で暮らしている人たちが何考えてるのか、お寺暮らし歴5ヶ月の俺にはまだ分からない。
(追記) 最後まで読んで下さってありがとうございます。1,2話と前置きがダラダラと長くなってしまいすみません。3話からは、小春を中心とした普通のラブコメ系の話にします。
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