第20話 来客

 図書室は本を読んだり調べ物をしたりする生徒で満席で、静かな空気が広がっていた。一見すると皆が黙々と自分の世界に入り浸っているように見えるが――。


(…なんか視線を感じる)


 悠が貸し出しカウンターに立つと、何となく生徒たちの視線が自分に集まっているのを感じる。本棚の間や席の隅から、何度もチラチラとこちらをうかがう生徒たちがいるのだ。


 ドストエフスキーや太宰治といった名前だけは有名な文豪の書籍や、宇宙、コンピューターの専門書が次々と貸し出しカウンターに運ばれてくる。


「これ、借りたいんですけど…」


「あ、はい。貸し出しカード、お願いします」


 悠が本を受け取りながら応対すると、生徒の一人が小さな声でお礼を言い、どこか名残惜しそうにカウンターを離れていく。そして席に戻ると、机に広げた本を開いたまま、またチラリと悠の様子を見やる。


(うーん、これ絶対私を見に来てるよな…)


 月に1回の図書委員の当番もこれで3回目だが、「暇で時間を持て余す」と他の図書委員は言っていたが初回からずっとこんな調子だ。


「6時になりましたので、閉めます」


 悠がそう声をかけると、図書室にいた生徒たちは名残惜しそうに本を片付け始めた。中にはあからさまにゆっくりと片付けて、悠がカウンターを離れる瞬間を見届けようとしている生徒までいる。


(なんで図書室でこんなに視線を浴びないといけないんだ…)


 苦笑しつつも、貸し出しカウンター周りを片付け、最後に施錠を確認する。鍵を職員室に戻せば、ようやく当番の仕事は終わりだ。


 悠が図書室を後にすると、廊下に出ていた数人の生徒が目を合わせてサッと散らばっていった。


(……やっぱり、見られてたよな)


 図書室の静寂とは裏腹に、悠の心の中だけは少し落ち着かないままだった。


 6時過ぎ、部活帰りの生徒に混じりながら校舎を後にする。学校から歩いて5分の自宅には直接向かわず、ちょっと寄り道してスーパーに入り週末分の買い出しをした。


 両手いっぱいの荷物を抱え、ようやくマンションのエントランスにたどり着くと、エレベーターのボタンを押して待つ間に思わず深いため息が漏れる。


(ああ、やっと一週間終わった…)


 再来週から期末テストが始まるため、悠は毎日夜遅くまで睡眠時間を削って勉強をしていた。普段は授業中に眠くならないように、と少しペースを落としているが、テスト前だけはそうもいかない。


 今夜は少し早く寝て、土日を勉強に集中するつもりだった。食料の買いだめも済ませ、準備は万端だ。


(赤点は何としても避けないと。黒川の部屋行きなんてごめんだ…)


 テストの度に思い出すのは、以前テストで赤点を取って黒川の部屋に呼び出されたあの日だ。

 一緒に呼び出された鈴木先生は、授業の教え方が悪いと黒川から叱責され涙を流していた。あの顔は今も忘れられない。自分のせいで先生が怒られるなんて、絶対にもう繰り返したくない。


 マンションの3階に到着し、鍵を取り出して玄関を開けた――その瞬間。


「……え?」


 悠は思わず足を止めた。玄関に、きちんと揃えられた茶色の革靴が置いてある。


(誰か、来てる? いや、待って、これ…)


 見覚えのある靴だ。恐る恐るリビングに向かうと、そこにはキッチンに立つ由紀の姿があった。由紀は制服ではなく、ふんわりとした白のブラウスに、黒のガウチョパンツを合わせている。足元は柔らかそうな室内スリッパ。いったん家に戻ってから、この部屋に来たようだ。


「おかえりなさい。お待ちしておりましたよ」


「……由紀!? なんでここに…?」


 エプロン姿の由紀が振り返り、上品にお玉を片手に微笑む。


「まあ、驚かれるのも無理はございませんわね。悠様、最近とてもお疲れのご様子でしたから、わたくしが参上いたしましたの」


「心配って…?」


「悠さん、最近お疲れの様子でしたので心配していました。失礼ですが、どうせお食事はカップラーメンかコンビニのお弁当で済ませていらっしゃるのでしょう?そんなことでは、お身体が持ちませんわ。勉強も大切ですが、まずは栄養でございますわよ」


 由紀はそう言って、鍋をかき混ぜながら満足げに鼻歌を歌っている。キッチンからはいい匂いが漂い、グツグツと煮える音が聞こえてくる。


「え、ちょっと待って、どうしてこの部屋に」


「黒川先生に相談したら、あっさり部屋の鍵貸してくれましたよ。お料理もうすぐ出来上がりますので、部屋着に着替えてきたらいかがですか?」


 悠は抵抗しようとしたものの、由紀の勢いに圧され、隣の部屋で着替えることになった。


 制服を脱ぎながら、ふと視線を天井に向ける。


(黒川……お前の仕業だろ)


 この状況を思いついた黒川が、今頃どこかでほくそ笑んでいる姿が目に浮かぶ。


 美女が自分のために手料理を作ってくれる。この状況は、男なら誰もが夢に見るシチュエーションだ。だが今の悠にとっては拷問のような時間だった。


 目の前にある魅力的な存在に、どうしようもなく心が惹かれてしまう。けれど、手を伸ばすことは許されない。その距離はあまりにも近く、手を伸ばせばすぐ届くのに、決して触れることはできない。


 由紀が作ってくれたのはカレーとコールスローサラダだった。一見すると平凡なメニューだが、カレーからは市販のルーではない本格的なスパイシーな香りが漂い、食欲をそそる。


 エプロンをつけたままの由紀が微笑みながら席につく。その姿にどこか家庭的な温かみを感じ、悠は少しだけ緊張を和らげた。


「いただきます」


 スプーンを口に運ぶと、深みのある味わいが広がった。スパイスが絶妙に調和し、ピリリとした刺激の中にも奥行きがある。コールスローの爽やかな酸味が、スパイスの余韻を心地よく中和してくれる。


「うん、これ、すごく美味しい! 由紀、料理も上手なんだね!」


 思わず笑顔になって褒めると、由紀は少し照れたように微笑み返した。


「お口に合ったようで、とても嬉しいですわ。初めて悠さんに召し上がっていただくので、少し気合を入れてみましたの」


 その言葉に、悠の胸がわずかに熱くなる。由紀のことを改めて意識し、思わずスプーンを握る手に力がこもった。


 夢中になって食べ進めるうちに、気づけば皿は空っぽになり、さらにお代わりまでしてしまった。


「こんなに美味しいもの、久しぶりに食べたよ。本当にありがとう、由紀」


「ふふ、光栄ですわ」


 食後、由紀は優雅に席を立ち、キッチンへと向かった。


「食後のお茶を淹れますね。少々お待ちくださいませ」


 静かな部屋に、お湯が沸く音が響く。薄暗い照明の中、由紀の横顔がどこか幻想的に見えた。カップにお茶を注ぐ彼女の動作は流れるように美しく、思わず見とれてしまう。


淹れたてのお茶を運んできた由紀は、向かい合って座っていた先ほどとは違い、悠のすぐ隣に腰を下ろした。大きくないローテーブルでは二人の肩が触れ合いそうなほどの近さだ。


 熱々のお茶をフーフーと冷ましながら口に運ぼうとした悠は、由紀のかすかな声にハッとした。


「悠さん、私……そんなに女性として魅力がありませんの?」


 由紀が、どこか潤んだ瞳で見上げてくる。その声は震えるほどに甘く、頬がわずかに紅潮している。


「えっ、そ、そんなことないよ!」


 慌てて答えた悠に、由紀は唇をかすかに噛みしめながら囁くように続けた。


「でしたら、どうして……こうして二人きりでいるのに、何もしてくださらないのです?」


 言葉が重ねられるごとに由紀の声はか細くなり、最後の一言は悠の耳元でささやくような音量だった。だが、その意図は明白だ。


 悠は息を呑み、視線を泳がせながら答えた。


「由紀が魅力的じゃないなんてこと、あるわけない。……今すぐ抱きしめたい衝動を抑えるのがどれだけ大変か、由紀にはわからないと思う」


 その言葉を聞いた瞬間、由紀は顔をさらに赤く染めた。そして一歩、いやほんの少しだけ身を寄せる。


「でしたら……どうして、我慢する必要があるのです?」


 その一言に、悠の胸は痛むほどに締め付けられた。誘惑に打ち勝つために、悠は深く息を吸い、視線を床に落としながら口を開く。


「由紀……もし俺が君に手を出したら、退学になるんだ。それだけじゃない。手付金としてもらった500万、返さないといけなくなる。お姉ちゃんも大学を辞めないといけなくなるし、退学になれば、家族が路頭に迷うことになるんだ」


 由紀の瞳が揺れた。そして、少し考えた後、ためらいがちな口調で答えた。


「500万ぐらい、お父様に言えばすぐに貸してくださいますわ」


 その一言に悠は一瞬息を呑んだ。だが、すぐに小さく苦笑し、首を振る。


「由紀、ありがとう。でも、そういう問題じゃないんだ。この学校では、俺だから君がこんなふうに接してくれてるのかもしれない。ここは男女交際禁止だし、他の男はいない。俺が特別に見えるだけなんだ」


「そんなこと……」


「由紀、もし俺たちが外の世界で出会ったとしたら、君みたいに魅力的な子は、きっと他の男に惹かれる可能性だってある。もし……君にフラれでもしたら、俺は高校中退で行くところもなくなる」


 悠の声にはかすかな哀しみが滲んでいた。その言葉に由紀は一瞬、息を呑む。そして、優しく微笑みながらそっと悠の手に触れた。


「悠さん、本当にお優しいのね。でも、私の気持ちは本物ですわ」


 その言葉に悠は思わず顔を上げ、由紀の真剣な瞳と目が合った。心の奥で揺れる感情を押し殺しながら、悠は由紀の手をそっと握り返しただけだった。


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