第17話 サクリファイス
体育館にはボールが床を弾く音と、スニーカーがコートをこする音が交錯している。練習中の空気は緊張感に満ち、選手たちの声が飛び交う中、沢田沙希はゴール下でボールを受け取った。
すぐに3年の先輩がマークにつく。彼女は体格も経験も上回る手強い相手だったが、沙希の表情に迷いはない。
ボールを構えたままジャンプシュートのフェイクを入れると、先輩の重心が一瞬浮いた。その隙を逃さず、素早く右手に持ち替えてドリブルで切り込み、華麗に抜き去る。
ゴール下へ躍り込むと、レイアップシュートを放った。ボールはリングに触れることなくネットを揺らし、体育館内に鮮やかな音が響いた。
「ナイスプレー、沙希!」
キャプテンが声を張り上げ、チームメイトの拍手が広がる。沙希の動きに対応しきれなかった部員には、キャプテンが「もっとプレッシャーをかけていこう」とアドバイスを送る。
「10分休憩!」
顧問の先生の声が響き渡り、練習は一旦小休止となった。沙希はベンチへ向かい、タオルで汗を拭いながらボトルの水を一気に流し込む。息を整えていると、同じ2年生の部員たちが次々と彼女の周りに集まってきた。
「沙希、さっきのプレー、めっちゃかっこよかったよ!」
「ほんと、あのフェイクのタイミング完璧だったよね!」
「さすがスタメン入りしただけある!」
口々に称賛の言葉を投げかける同期たちに、沙希は少し照れたように笑った。
「ありがとう。でも、まだまだ先輩たちには敵わないから、もっと頑張らないと」
謙虚にそう言いながらも、心の中では少しだけ誇らしい気持ちがあった。ゴールデンウィークの練習試合で、2年生で唯一スタメン入りを果たしたこと。それが同期たちのモチベーションを高め、彼女自身にも確かな自信をもたらしていることを実感していた。
「沙希がいるから私たちもやる気出るよ!一緒に頑張ろう!」
「うん、次の試合でも頼りにしてるから!」
励ましの言葉に、沙希は「もちろん!」と笑顔で応じた。その瞬間、汗だくの体育館がほんの少し明るく感じられた気がした。
休憩後、オフェンス練習が再開された。メンバーは入れ替わり、沙希は2年生唯一のレギュラーとしてコートに立つ。緊張感が漂う中、ボールを受けた沙希は素早くパスを放つと、空いたスペースを狙い、コート左側へ走り込んだ。次のプレーでパスを受け取り3Pシュートを狙う流れだった。
しかし、次に出されたパスは明らかに大きすぎ、沙希の1メートル前を通り過ぎていく。勢いよく転がるボールに、沙希は慌てて追おうとしたが間に合わなかった。
「沢田ー、今の追いつけないの?全力で走ったの?」
パスを出した先輩が、悪びれることなく嫌味たっぷりの声を投げかけてくる。その表情には反省の色など一切見えず、逆に沙希を責めるような態度だった。
悔しさをこらえ、沙希は「すみません」と小さく答えた。チームの雰囲気を乱したくない気持ちが、それ以上の言葉を飲み込ませた。
その後の練習でも先輩たちの露骨な嫌がらせは続く。沙希がドリブルで切り込むと、反則ギリギリのタックルで止められる。リバウンドを取りに跳んだ際には、誰かにシャツを掴まれた感触があった。それでも笛は鳴らない。
「ほら、レギュラーなんだから、しっかりしてよ?」
「試合になればこれぐらい普通なんだからね」
先輩たちは口元に薄笑いを浮かべながら、明らかに沙希を見下したように言い放った。悔しさと怒りで胸が締め付けられるような思いだったが、沙希はぐっと耐えた。
あと1か月。6月の大会が終われば、3年生は引退する。それまで耐えればいい。そう自分に言い聞かせ、練習に集中しようと気持ちを切り替える。
練習が終わり、みんなが引き上げた後、沙希は同期たちとモップをかけながらコートを清掃していた。その時、同期の友加里がそっと近づいてきた。
「沙希、大丈夫?なんか先輩たち、今日ひどかったよね」
心配そうな友加里の声に、沙希は一瞬泣きそうになったが、すぐに笑顔を作った。
「うん、大丈夫。気にしてないから。それに、もうすぐ大会だし、私ももっと頑張らないとね」
友加里は沙希の強がりを察したのか、小さくため息をついてから笑顔を返した。
「もし何かあったらすぐ言ってね」
「ありがとう」
「多分、沙希のことが羨ましいんだよ。沙希、今日学食で瀬川さんと仲良くランチしてたでしょ、多分それ先輩たちに見られたかもよ」
友加里の言葉に、沙希は手を止めて振り返った。
「悠ちゃんとのランチが原因?」
「直接聞いたわけじゃないけど、今日の学食、結構目立ってたよ。沙希と瀬川さんが仲良くしてるの、みんな見てたし、先輩たちも何か話してたしね」
沙希は昼休みのことを思い出す。おにぎりだけ持ってきた悠を誘って、学食で肉うどんを奢った。二人だけの時間は楽しく、周囲の視線にも気づいていたが、それがこんな形で影響するとは思っていなかった。
「でも、それでイジメられるのは納得いかないな……」
「それだけ沙希が目立ってるってことだよ。レギュラーだし、頭もいいし、それに瀬川さんとも仲良いんだから、先輩たちが気にするのもわかるけどね」
友加里の軽い口調に、沙希はため息をついた。
「あと一か月の我慢か……」
モップを片付けながら、沙希はふと顔を上げた。胸の奥に渦巻いていたもやもやが、あるひらめきと共に少しずつ形を変えていく。
「これなら、みんなが少しは丸く収まるかもね」
そう呟くと、沙希の表情にはほんのりとした笑みが浮かんでいた。そのアイデアは、先輩たちにとっても悪くないはずだし、沙希自身にとっても少し嬉しい計画だった。
◇ ◇ ◇
翌日、お昼休み。沙希は遠慮する悠を半ば強引に学食へと連れ出した。
悠が奢ってあげた唐揚げ定食を美味しそうに頬張る姿を眺めながら、沙希は机越しに両手を合わせて言った。
「悠ちゃん、お願い。一緒に部活に来て、マネージャーやってくれないかな?今日だけでいいから!」
「えっ、マネージャー?」
悠は箸を止め、驚いたように目を丸くした。
「でも、バスケのこと全然わからないし……」
悠が困ったように手を振ると、沙希は身を乗り出して頼み込んだ。
「大丈夫だって!やることなんて簡単だよ。ビデオ回したり、休憩中にドリンク配ったりするくらいだから。ね?」
「そ、それだけなら……」
おごってもらった手前、悠は断りづらそうに視線をそらしながら渋々頷いた。
放課後、体操服に着替えた悠と共に体育館に向かった。扉を開けた瞬間、待ち構えていた部員たちが次々と悠に注目し始めた。
「瀬川くん、本当に来たんだ!」
「うわー!なんか新鮮!」
一気に集まってきた部員たちが悠を取り囲む。その様子に悠は少し居心地悪そうに立ち尽くしている。
キャプテンが輪の中から進み出て、緊張した面持ちの悠に声をかけた。
「瀬川さんね。今日はありがとう。助かるよ!」
「あ、はい……。役に立てるかわかりませんけど、頑張ります」
悠が控えめに返事をすると、周りの部員たちはにこやかに笑い、すっかり打ち解けた雰囲気になっていく。
沙希にも「ありがとう」と感謝の視線が向けられ、彼女は得意げな気持ちを隠しきれなかった。
「悠ちゃん、体育館暑いでしょ。これ、タオル使って」
部員の一人が手渡したタオルを悠が首に巻くと、これで悠ちゃんの匂い付きタオルが手に入と沙希は内心でほくそ笑んだ。
その後、悠を意識してか、部員たちはいつもより気合の入った練習を始めた。パス回しやシュート練習のスピードも格段に上がり、誰もが全力だった。
悠もビデオを回したり、シュート成功率をメモしたりと甲斐甲斐しく動き回り、場の空気をさらに盛り上げていた。
練習が終わり、先輩たちが退室すると、体育館には部員たちの遠慮のない笑い声が響いた。
「今日、みんなやけに張り切ってたよね」
「友加里、コートダッシュの時、めっちゃ速かったし!」
「杏奈だっていつもサボってるくせに、今日だけ全力だし!」
ワイワイと片付けをしながら、部員たちは盛り上がっていた。その横で沙希はモップをかける悠に声をかけた。
「悠ちゃん、悪いけど、このボールを体育倉庫に持って行ってもらえない?」
「うん、いいよ」
悠はボールの入った籠を押しながら体育倉庫へと向かった。彼の背中が扉の向こうに消えた瞬間、「ごめん」と誰にも聞こえない声でつぶやいた。
しかし、倉庫の扉が閉まって間もなく、悠の「キャー!」という叫び声が響いた。
モップを持っていた部員たちは、一瞬驚いたものの、すぐに何事もなかったように片付けを続けた。
しばらくして倉庫の扉が開き、先輩たちが次々と出てきた。みんな晴れ晴れとした表情で、練習後の疲れを感じさせないほど爽やかだった。
キャプテンが沙希に近づき、軽く肩を叩いた。
「沢田、今日はありがとな」
他の先輩も「サンキュー」「また頼むよ」と沙紀に晴れやかな笑顔で声をかけ、手を振りながら体育館を後にした。その様子に沙希は安心したが、同時に胸の奥に小さな罪悪感が生まれた。
先輩たちがいなくなったのを見届けると、沙希は倉庫へと駆け込んだ。
薄暗い倉庫の中、悠はマットの上に座り込んでいた。髪は乱れ、体操服も微妙に歪んでいる。目に涙を浮かべた悠が顔を上げると、沙希を見つけて呟いた。
「沙希ちゃん……」
「悠ちゃん!」
沙希は駆け寄り、その肩を優しく抱きしめた。悠の小さな嗚咽が耳元で響き、沙希は背中をそっと撫でた。
(計画通りだね)
沙希の口元にほんのり笑みが浮かんだ。
悠を部活に連れてきたことで、先輩たちの機嫌を取れたし、匂い付きタオルも手に入れた。さらに、助けに来たフリで悠の信頼も得られる。こんなに完璧な展開があるなんて、自分の手腕に感心するしかなかった。
それでも、涙を拭う悠を見つめる沙希の表情には、少しだけ影が差していた。
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