第16話 休日
カーテン越しに優しい朝日が差し込んでくる。今日はいい天気のようだ。
鈴木龍之介は目を覚ますと洗面所へと向かった。顔を洗い、化粧水を肌に塗りながら、昨晩の出来事を思い返していた。
――担当したクラスの中間テストの低い平均点について、校長先生から厳しく叱責された。
同じように呼び出され叱責されることはこれまでもあり、それ自体は珍しいことではなかったが、今回は生徒である瀬川悠が目の前にいる中での叱責だった。
教え子の前で怒られるという屈辱と恥ずかしさ、そして己の至らなさに、涙を堪えるのが精一杯だった。
1時間にわたる説教が終わり、鈴木と悠は肩を落としながら部屋を出た。
鈴木は、沈黙が気まずく感じられるエレベーターの前で、ふと瀬川に声をかけた。
「瀬川さん、疲れたよね。良かったらうちに寄らない?コーヒーぐらい淹れるよ」
悠は目を丸くして鈴木を見たが、すぐに言葉は出てこなかった。
エレベーターが5階に到着してドアが開くと、二人は中に乗り込んだ。
鈴木が3階のボタンを押したそのとき、悠は遠慮がちに、でも聞き取れるほどの小さな声で答えた。
「あ…じゃあ、少しだけ、お邪魔します」
鈴木は軽く頷くと、「ありがとう」と呟き、エレベーター内にほのかな安堵の空気が漂った。
一緒に部屋に入ると、インスタントコーヒーを淹れ、冷蔵庫からビールを取り出した。
ローテーブルに「お疲れ様」と言いながらコーヒーを置き、ビールのプルトップを開けた。悠は軽く一礼してからコーヒーに口をつけた。
「ありがとうございます、いただきます」
コーヒーを一口飲むと、少しホッとしたのか、悠の視線は部屋のあちこちに移った。
壁の一角にある小さなカメラを見つけると、眉をひそめる。
「やっぱりこの部屋にも監視カメラがあるんですね」
悠が天井の右隅にあるカメラに視線を向けると、鈴木先生は苦笑いを浮かべながら頷いた。
「ああ、そうだよ。校長の趣味だろうけど、きっと今頃この映像を見てニヤニヤしてるんじゃないかな」
鈴木先生が軽く愚痴をこぼすと、悠もつられるように苦笑した。緊張が解けたのか、悠もぽつぽつと自分の不満を話し始めた。
最初は黒川への愚痴だった会話は、次第に女装の話題へと移っていった。
「やっぱり女の子の服って、着てみると可愛いですよね。最初はすごく嫌だったんですけど、最近は少しずつ楽しくなってきた気がします」
悠が照れくさそうに言うと、鈴木先生は目を輝かせて大きく頷いた。
「それ、すごくわかる!私も最初は嫌々だったけど、今じゃ休日に自分で服を見に行くくらいだよ。毎日メイクするのは面倒だけど、やっぱりそれで可愛くなれると嬉しいんだよね」
「私、メイクにはちょっと興味あるんですけど、上手くできるか不安で」
悠の言葉に、「それなら任せて」と自信たっぷりに答えた。
「だったら、今度教えてあげるよ。基本的なところなら、すぐに覚えられるし楽しいよ」
「え~、でもメイク用品って高いイメージあるんですけど……」
「それはデパートのコスメを基準に考えるからだよ。ドラッグストアや100均でも十分揃うし、初心者にはそれで十分だよ」
悠はメイクできるのを楽しみにしているようで、顔には笑顔に戻っていた。そんなやり取りに、部屋の中には穏やかな空気が漂っていた。
いろいろあったが、今日は待ちに待った休日だ。
嫌なことはひとまず忘れて、今日は楽しく過ごそう。
顔を洗い終えた鈴木は、クローゼットを開け、中からお気に入りのワンピースを取り出した。それは淡いピンクの生地に大きなリボンが胸元を飾り、袖口と裾にはふわふわのフリルと繊細なレースがふんだんにあしらわれた、まさに「姫系」と呼ぶにふさわしいデザインだ。シルエットはふんわり広がるプリンセスラインで、着るだけで夢の世界にいるような気分になれる一着だった。
2カ月前、ネットで偶然見つけ、心を奪われて思わず購入してしまったものだ。
もちろん、学校にこれを着ていくわけにはいかないし、周囲の視線が気になってしまい休みの日でも外には着ていけない。
休みの日にこのワンピースに着替え、女の子として過ごすのがの楽しみだった。
ピンクのネグリジェを脱ぎ、慎重にワンピースへと着替えていく。フリルやリボンを丁寧に整えながら、ふと昨晩の出来事を思い出した。黒川に怒られるのはもちろん辛い。それでも、校長から強制的に女装をさせられるこの環境が、全く嫌かと言えば、そうでもなかった。
むしろ――鈴木は鏡越しにワンピース姿の自分を眺めながら思った――この状況だからこそ、堂々と女装して生活できる「理由」ができたのだ。
校長に強いられているという建前があるからこそ、罪悪感なく思う存分楽しむことができる。
もちろん、鈴木自身はトランスジェンダーではない。しかし、女性らしい可愛い服を着ることには昔から興味があった。学生時代に女装を覚えて自宅で楽しんでいたが、やはり社会の目が気になって、深く踏み込むことはできなかった。
「でも、今なら大丈夫だ」
鈴木は微笑み、スカートの裾を軽くふわりと揺らしてみる。
女装には特別な魅力がある。ただ服を着替えるだけで、自分が少し別の人間になったような気分になれる。特にメイクをした時の高揚感は格別だ。鏡に映る華やかな自分に、思わず背筋が伸びる。その瞬間、普段の疲れや悩みが少しだけ薄れていく。
「よし、今日を楽しもう」
今日は少し特別な朝食を楽しむつもりだった。いつものトーストと牛乳ではなく、カフェ風のちょっとリッチなメニューに挑戦する。
冷蔵庫を開け、昨晩から仕込んでおいたタッパーを取り出す。中には砂糖を溶かした牛乳にたっぷりと漬け込んだ食パンがふわふわになっていて、見るだけで美味しそうだった。
「いい感じに浸みてるね」
そう呟きながら、ボウルで溶いた卵をパンの上から丁寧に回しかける。この一手間で、パンに卵液がしっかり絡み、焼き上がりが格別になるらしい。
フライパンにバターを溶かし、じゅっと音を立てながらパンを焼いていく。程よい焼き色がつくと、部屋中に甘い香りが広がり、気分がさらに上がる。
「うん、完璧!」
フレンチトーストを皿に移し、隣には小さなグラスに盛り付けたヨーグルトと冷たいカフェオレを添える。さらに彩りを足すために、冷凍のブルーベリーを少しだけヨーグルトにトッピングしてみた。
「まるでカフェのモーニングみたい」
満足げにテーブルに朝食を並べ、クッションの上に座った。ふわふわのフレンチトーストをフォークで一口切り、口に運ぶと優しい甘さが広がる。
ふと天井にある監視カメラを見上げる。今頃、校長はこの様子をカメラ越しに見ているだろう。
この学校に誘ってくれた校長に、ちょっぴり感謝しながらカフェオレのカップを手に取った。
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