第9話 先生
転校二日目の朝。澄み切った青空だった昨日とは打って変わり、空は厚い雲に覆われていた。
初日の疲れがまだ抜けきらない中、今日こそ平穏な一日であってほしいと願いながら玄関を出た。
ちょうどその時、隣の202号室からも女性がドアを開けて出てきた。彼女はハーフアップにまとめた髪を揺らしながら、ベージュのジャケットとサーモンピンクのレースのロングタイトスカートを身にまとい、大人っぽい落ち着いた雰囲気を漂わせている。
(隣の人か……女性専用マンションだから、気をつけないと)
同居者に男子だとバレるわけにはいかない。悠は足音や歩き方を慎重にし、仕草にまで女子っぽさを意識した。
エレベーターに乗り込むと、隣人も同じように乗ってきた。静まり返った狭い空間で、悠は隣人が「閉」のボタンを押す様子を横目で見た。その手元から、ふと彼女がこちらを意識しているのを感じる。
(え……見られてる? もしかして何かおかしい?)
彼女の視線が一瞬だけ悠に向いた。その横顔が目に入る。鋭いあごのライン、高く整った鼻筋、そしてどこか男前な印象を与える美しい顔立ち——。
(美人だけど……なんだろう、この違和感?)
互いに視線を交わすことなく、エレベーターの中には微妙な緊張感が漂った。
エレベーターが一階に着き扉が開くと、カツカツとヒール音を立てて駆け足で去って行った。
◇ ◇ ◇
1時間目の英語、黒川に当てられた悠は英文を読んだが、ぎこちないカタカナ発音にクラス中の失笑を買い、黒川からも「もっと練習しないと、スピーキングの合格点はあげられないわよ」と言われた。
そして授業が終わるや否や、アリーナが優の近くにやってきて英語の発音を教えてくれた。
「まず、『L』は舌をTeethの後ろにTouchして、こんな感じ。LoveとかLikeの音ね。わかる?で、『R』は舌をどこにもTouchしないで、こう。RunとかRightの音。LとR、違いが聞こえるでしょ?」
アリーナは自分の舌の動きを見せながら、ゆっくりと発音した。その丁寧さに加えて、妙に色っぽい舌づかいに悠は戸惑いを隠せない。
「えっと……」
悠はうなずきながら視線を教科書に落とした。
「じゃ、Repeat after meね。‘I really like learning English.’」
アリーナは満面の笑みを浮かべながら、優しく語りかけた。悠は教えてもらった下の動きを意識しながら英文を読み上げる。
「アイ…リェアリー…ノー、リリー…ライク…リェーニング、イングリッシュ?」
「Oh no, 瀬川さん、それはRじゃなくてLになってる!舌のPositionが違うのよ!」
アリーナが腕を悠の首に絡ませ、顔を近づけてくる。キラキラと輝く瞳で見つめられると、心臓がドクンと跳ねるのがわかる。彼女から漂う甘い香りに、一瞬、意識がそちらに持っていかれそうになるが、クラス中の女子たちの視線が突き刺さるようで、どうにか耐える。
(近い、近すぎる!なんでこんなに堂々と迫ってくるんだよ!)
助けを求めるように視線を彷徨わせていると、低い声とともに教室のドアが開いた。
「では、次の授業を始めますよ」
アリーナは「See you later」とだけ言い残し、悠の首から腕を外して自分の席へと戻っていった。悠はほっと息をつきつつ顔を上げたが、次の瞬間、その視線は教壇に立つ人物に釘付けになった。
――あのハーフアップの髪、フェミニンな服装、間違いない。朝、エレベーターで出会ったあの女性だ。
頭が真っ白になる中、先生は教壇の前で自己紹介を始めた。
「今日からこのクラスで数学を担当します、鈴木です。よろしくお願いします」
美しい見た目に似つかわしくない低めの声。違和感が胸をよぎったそのとき、生徒の一人が悪ノリしたように声を上げた。
「先生、下の名前は?」
鈴木先生の表情がわずかにこわばったが、すぐに小さな声で答える。
「鈴木……龍之介です」
龍之介――その名前を聞いた瞬間、悠の中で全てが繋がった。
(男……だったのか!)
驚きに目を見開く悠。しかし周りのクラスメイトはいたって落ち着いている。むしろ「またか」と言わんばかりの空気すら漂っている。
2年生である彼女たちには、鈴木先生が男ということは既に知られた事実のようだ。
困惑する悠をよそに、鈴木先生は淡々と授業を始める。
数学の授業内容は高度で、必死に板書を写しながら理解しようとするものの、頭の片隅には別の疑問がずっとこびりついていた。
(なんで鈴木先生が女装してるんだ?まさか俺と同じ理由で……黒川先生が関係してるのか?)
数学の数式よりも、鈴木先生の謎が悠の頭を支配していた。
◇ ◇ ◇
その日の放課後、悠は昨日教えてもらった自習室へと向かった。
各教科から山のように宿題が出され、どれも難しい問題ばかり。悠は自習室に置いてある参考書や問題集を頼りにすることにした。
まずは数学から手をつけようと、「わかりやすいベクトル入門」という参考書を手に取り課題のプリントに取り組む。
問題と似たような例題を参考書から探して解法を真似るものの、肝心な部分でつまづいてしまい、思うように進まない。
(なんでここで座標を代入するんだっけ……?全然わかんねぇ)
問題に頭を抱えていると、背後から柔らかい低めの声が響いた。
「その問題、原点からの位置ベクトルで考えると計算が簡単になりますよ」
振り返ると、そこには鈴木先生が立っていた。
言われた通りに解き直してみると、今まで苦戦していたのが嘘のように問題が解ける。
「なるほど……原点から考えるとこうなるのか……」
思わずつぶやく悠を見て、鈴木先生は軽く頷いた。
「瀬川さん、少し時間ある?ちょっと話さない?」
突然の誘いに驚きつつも、悠はうなずいた。先生に連れられ、中庭のテラス席へと向かう。
先生が奢ってくれたココアの甘い香りが鼻をくすぐる。湯気を立てるカップを見ながら、鈴木先生がミルクティーを一口飲んで口を開いた。
「瀬川さんも……校長先生に何か言われてここに来たんでしょ?」
「え、まぁ……。でも『も』ってことは、先生もですか?」
鈴木先生は苦笑しながら、周りを気にして小さな声で話し始めた。
「実はね、大学時代にサークルのノリで女装して、学祭のミスコンに出場したんだよ。そしたらファイナリストにまで残っちゃって……その時の写真を校長先生がどこからか見つけたらしくてさ。ある日、突然この学校で働かないかってオファーが届いたんだ。」
「へぇ……」
「給料は他の学校よりいいし、社員寮もついてるって言われて、大学の学費も補助してくれるって聞いて、つい内定を承諾したんだ。でも、働く条件が女装だったって知ったのは、その後の話。」
悠は思わず目を丸くする。
「え、そんなの聞かされてなかったんですか?」
「もちろん言われてないよ!契約書の細かいところに書いてあったらしいけど、気づかなかった」
先生はミルクティーをもう一口飲むと、さらに声を潜めて続けた。
「生徒に手を出したら即クビだって、初日に釘を刺されたよ。でも、そんなルールを知ってる生徒が逆に誘惑してくることもあって、ほんと、心が試される毎日だよ。5年働いたら違約金なしで辞められるって言われたけど、まだ2年目なんだよね……正直、あと4年耐えられる自信がないよ。」
鈴木先生の嘆きに、悠は思わず憐みの視線を向けた。
(俺の場合は1年だけど、先生は5年も……。これ、地獄だよな……)
目の前の先生の真剣な表情を見て、悠は改めて自分が置かれた状況の重さを思い知ったのだった。
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