第8話 学校案内

 昼休み明けの4時間目から古文、化学、世界史とハイレベルな授業が3時間つづき、帰りのホームルームが始まるころには悠は疲労困憊だった。


 担任の先生として帰りのホームルームで再び教室に戻ってきた黒川は、疲れた俺を見てニヤリと笑った。その笑みはどこか意味ありげで、「計画通り」とでも言いたげに見える。


「それでは、明日からも頑張っていきましょう」


「起立!礼!ありがとうございました」


 生徒一同の揃った挨拶を見届けると、黒川は教室を後にした。部活のある子は仲間と連れだって教室を出ていき、残った生徒たちは放課後の予定を相談し始めている。


 疲れ切った悠はため息を漏らし、カバンに教科書を詰めながら帰る準備をし始めた。


(今日は本当に疲れたな。夕ご飯も作る気力ないし、冷蔵庫に納豆があったはずだから、それで済ませよう)


 そんなことを考えながらカバンのファスナーを閉めようとしたとき、由紀がこちらに歩み寄ってきた。彼女は軽やかな足取りで俺の隣に立ち、静かに話しかけてきた。


「瀬川さん、よろしければこの後、学校の中をご案内いたしましょうか?」


 その声は澄んでいて柔らかく、どこかお嬢様然とした品の良さが漂う。それに加えて、自然な微笑みが俺に向けられる。


「えっ、桐原さん。いや、そんな、悪いよ……ほら、桐原さんも忙しいでしょ?」


 突然の誘いに、俺は動揺を隠せず言い訳を口にする。目の前の彼女が放つ落ち着いた雰囲気に圧倒されつつ、なんとか断ろうとした。


「転校生が早く学校に馴染めるようお手伝いするのも、学級委員の務めですのよ。それに、学校内を知っておくのは生活する上で重要なことですわ」


 由紀は一歩も引かず、優雅な笑みを浮かべながらきっぱりと言った。その言葉には断る余地がなく、俺は観念して彼女に案内をお願いすることにした。


 まずは図書室から、と校舎の4階へ向かう。前を歩く由紀の艶やかな黒髪は、蛍光灯の下で柔らかく光を反射し、なめらかな絹のようだ。その黒髪に映える白い肌は透き通るようで、膝丈のスカートから伸びる細く整った脚に思わず目を奪われる。


「瀬川さん?」


 由紀の澄んだ声にハッと我に返る。目が合うと、彼女は微笑みながら首を少しかしげた。


「ここが図書室ですわ。そういえば瀬川さんは図書委員でしたね」


「あっ、……はい」


「図書委員は当番で、貸し出し係や蔵書整理などやっているみたいですよ。それでは、少し中を見てみましょうか?」


 由紀の誘いに頷き、彼女と一緒に図書室に入る。


 前の学校よりも倍以上の広さを誇る図書室では、生徒たちが静かに本を読んでいる。机に向かう姿勢もどこか整然としていて、この学校特有の品の良さを感じる。

 棚には夏目漱石や森鷗外といった古典文学から、天文学や生物学の専門書、さらには最新の情報技術に関する本まで幅広く揃っている。


「いかがです? 他の学校と比べて、なかなかの蔵書量でしょう?」


 由紀が優雅に歩み寄りながら言う。俺は頷きつつ、その広さと整った空間に圧倒されていた。


 続いて、同じ4階にある音楽室を案内してもらった。扉の向こうから、吹奏楽部が奏でる軽やかなメロディが流れてくる。


「うちの学校の吹奏楽部は、毎年全国大会に出場しているのですわ。とても誇らしいことでございます」


 由紀は柔らかく微笑みながら、誇らしげにそう語った。軽くスカートを揺らしながら振り返ると、「次は自習室をご案内いたしますわ」と涼やかな声で告げて、階段を降り始めた。


 3階の自習室を窓越しに覗いてみると、両サイドに並ぶ本棚に挟まれる形で長机が整然と並んでいる。生徒たちは静かに参考書やノートを広げ、真剣な表情で勉強していた。


 由紀は邪魔にならないように小声で説明を始めた。


「こちらの自習室には、各教科の参考書や問題集、さらには全国の大学の過去問まで取り揃えておりますのよ。それに、先生方も頻繁にいらしてくださるので、わからないことがあればすぐに質問ができますわ」


「すごいですね……こんな設備、前の学校にはありませんでした」


 前の学校になかったこの整った自習環境に驚き、期待に胸が高鳴った。これなら参考書代を節約できるかも、とささやかな安堵も覚えた。


 次は「パソコン室を見てみましょう」と、由紀は優雅にくるりと身を翻した。その瞬間、艶やかな黒髪が軽やかに舞った。


「こちらでは、志望校の情報を検索したり、オンライン動画で勉強法を学んだりできますの。ですが、閲覧ログはすべて保存されておりますので、学生らしからぬサイトへのアクセスは慎まれることをお勧めいたしますわ」


 由紀が微笑みながら告げると、俺は思わず首をすくめた。別にそんなサイトを見るつもりなんて毛頭ない。第一、この教室では他の生徒からモニターが丸見えだし、そんな勇気はない。


 由紀がふと俺の近くに寄り、小声で耳元に囁いた。


「そちらの方にご興味が終わりでしたら、私が特別にお相手して差し上げますわよ」


「そ、それは……」


 思わず言葉を詰まらせ、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

 心臓がバクバクと跳ね、声を返すのがやっとだった。そんな俺の様子を見て、由紀はくすりと笑いながら、「冗談ですわ」と涼やかに告げて歩き始めた。


「さて、次は中庭を少し見てみましょう。その後、用具入れをご案内いたしますわね」


 由紀の一歩後ろをついて歩きながら、俺は心を落ち着けようと深呼吸した。彼女の言動に翻弄されっぱなしだ。

 下履きに履き替え中庭に向かう途中、廊下から見える夕陽が校舎の壁を黄金色に染めていた。


「中庭にはテラス席もございますので、晴れた日にはここで休憩される生徒が多いですのよ」


 由紀の言葉通り、色とりどりの花に囲まれた中庭はどこか宮殿の庭園を彷彿とさせる美しさだった。たしかに、ここでお昼ご飯を食べるのは気持ちよさそうだ。


 彼女のあとに続き、中庭をゆっくりと縦断して校舎裏へと向かう。ひっそりと佇む用具入れの倉庫にたどり着くと、由紀が扉を軽く押しながら言った。


「こちらには掃除道具や体育で使う用具が収納されておりますの」


 放課後の静まり返った倉庫には他の生徒の姿はなく、俺と由紀だけがそこにいた。少し冷たい風が吹き抜ける中、急に彼女が俺の前に立ちはだかり、壁に片手をついて俺を追い込むような体勢になった。


「桐原さん!?」


 思わず数歩下がったものの、背中はすぐに壁にぶつかる。至近距離から見つめられ、鼓動が早まるのが止められなかった。


 これがいわゆる壁ドンってやつか。

 今視界にあるのは由紀の整った顔だけ。こんな至近距離で美人に見つめられると呼吸が詰まる。


「瀬川さん、少々失礼しますわね」


 由紀は右手を壁につけたまま、ためらう様子もなく左手をスカートの前に当ててきた。


「……やはり、本当に男の方だったのですね」


 そう言うと、由紀は手を離して距離を取った。俺はあまりの展開に呆然と立ち尽くす。そんな俺を見て、彼女は安堵したような笑みを浮かべ、落ち着いた声で言葉を続けた。


「瀬川さんがあまりに女の子らしいものですから、もしかして先生が悪戯で瀬川さんが本当は女子なのに男子だと偽っているのかと疑ってしまいましたの。でも……これで安心いたしましたわ」


 それだけ言うと彼女はくるりと体を反転させて、教室へ戻り始めた。悠はあわててその後を追った。

 

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