第5話 始業式

 翌朝、スマホのアラームが軽快な音を立てて鳴り響いた。悠はフリルだらけのルームワンピースを揺らしながら、ぼんやりとした意識のまま洗面台へ向かう。


 鏡の前で顔を洗い、化粧水と乳液を慎重に塗る。この作業にも少しずつ慣れてきたものの、やはり水で洗って終わりの男のころに比べると面倒くささを感じる。鏡の中の自分と目が合うと、緊張感でこわばった表情が返ってきた。


「今日から学校か……」


 思わず独り言が漏れる。学校で上手くやっていけるのか、通学中男とバレずにすむのか――胸の奥から不安が湧き上がる。だが、今さら逃げられない。


「第一印象が大事だよな……」


 悠は軽く頬を叩き、気合を入れる。肌は毎日のスキンケアのおかげで透明感が出てきているし、寝癖もない。これなら大丈夫だと自分に言い聞かせた。


 ヨーグルトと食パンという簡単な朝食を済ませ、制服に着替える。スカーフを結び直す指先は少し震えていた。ふと視線を下げると、

 自分の膝を隠すスカートの裾が目に入る。どう見ても女の子らしいシルエットだ。違和感を覚えながらも、それが「普通」に見えなければならないというプレッシャーがのしかかる。


 玄関を開けた瞬間、澄み切った青空が広がっていた。春の冷たい空気が頬に触れる。


「……よし、行くか。」


 マンションの外に出ると、すぐに学校へと続く緩やかな坂道に差し掛かった。通学時間帯ということもあり、制服姿の女子生徒たちがちらほらと歩いている。みんな友達と談笑しながら歩いており、一人で緊張に飲まれた悠の姿に気づく者はいない。


「今のところ大丈夫……バレてない、よな?」


 周囲をちらりと観察しながら、悠は内心安堵する。少なくとも通学中に男と気づかれることはなさそうだ。この調子で学校でもうまく溶け込めればいい――そう自分に言い聞かせ、足を一歩一歩前に進める。


 学校に入ると、言われていた通り校長室へと向かった。緊張した足取りでドアをノックすると、中から落ち着いた声が返ってきた。


「どうぞ。」


 扉を開けると、そこにはグレーのスーツに身を包んだ黒川がデスクに向かって座っていた。手元の書類に目を落としていたが、悠が入ると顔を上げて微笑む。


「瀬川さん、おはよう。昨晩はあまり眠れなかったみたいね。」


 監視カメラで眠れない様子を見ていたようだ。悪趣味に辟易する様子を悟られないように下を向いた。


「もうすぐ始業式が始まるわ。オンラインで配信するから、そこのソファに座って見ていてちょうだい。」


 その言葉に従い、悠は部屋の隅にあるソファに腰を下ろした。黒川は立ち上がると、デスクの上のカメラに向き直り、軽くスーツの襟を整えた。その動作には無駄がなく、どこか威厳すら感じさせる。


 カメラがオンになると、黒川は凛とした表情で語り始めた。

 声には柔らかながら力強さがあり、「失敗を恐れず、仲間と支え合いながら自分の可能性を広げてほしい」と端的に語りかける。その言葉には教育者としての深い思いと威厳が込められており、おもわず聞き入ってしまった。


 立ち上がった黒川が悠に声をかけた。


「さあ、教室に行くわよ」


 黒川と一緒に校長室を出て教室へと向かう。廊下には光沢のある床が続き、ヒールのカツカツとした音が響く。悠はその音に少し緊張しつつ、並んで歩く黒川に尋ねた。


「普通、こういうのって担任の先生が連れていくんじゃないですか?」


 黒川は軽く肩をすくめ、足を止めることなく答える。


「担任は私よ」


 その言葉に驚いて足を止めそうになった悠が慌てて追いつく。


「校長先生なのに担任何ですか?」


 振り返った黒川の顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。


「当たり前よ。こんなに楽しいショーを間近で見られるんだから。それに英語の授業も担当するから、毎日会えるわよ」


 その不敵な笑みを目の当たりにし、悠はなんとも言えない不安を抱えたまま黒川の後ろをついていった。


「ここよ」


 黒川が立ち止まった教室のドアには「2年S組」と書かれている。その文字を見た悠は首をかしげた。


「……S組?普通、1組とかA組とかじゃないんですか?」


 黒川は少し得意げな表情で振り返る。


「S組は特別クラスのことよ。成績が優秀なのはもちろん、部活や生徒会など課外活動にも熱心で、学校の模範となるような品行方正な生徒たちを集めているの。先に入って説明するから、呼ばれたら来てね」


 黒川先生がそう言い残し、先に教室へと入っていった。


 悠は廊下で一人残され、深呼吸をする。教室からは、黒川先生の「おはようございます」という挨拶に、全員がハキハキと揃った声で返事するのが聞こえてきた。


(すごい……声の張りまで品がいい。やっぱり特別クラスって感じだ)


 自分がこのクラスでやっていけるのか、悠は不安を抱きつつ耳を澄ませる。黒川先生が事務的な連絡事項を終えたのか、突然声のトーンを上げた。


「それでは、お待ちかねの転校生を紹介します。瀬川さん、入ってきて!」


 呼ばれた瞬間、悠の心臓はドキッと跳ねた。小さく息を吐き、教室の引き戸を開けた。


(大丈夫、やれる……はず)


 意を決してドアを開けた瞬間、30人近い女子たちの視線が一斉にこちらに向いた。教室の中はすでに整列したかのように背筋の伸びた美少女たちばかりだ。


(やばい……全員めちゃくちゃかわいいじゃないか……!)


 みんな上品な佇まいで、笑顔すら余裕が感じられる。黒川先生が「それでは、瀬川さん、自己紹介をお願い」と促した。


「あ……は、初めまして! 瀬川悠です……」


 視線が痛い。いや、視線というより、無数の宝石のような瞳が一斉に自分を見つめている感覚に、悠は完全に飲まれていた。緊張で体がこわばり、名前を言うのが精いっぱいだ。


 沈黙が教室に降りる。


(やっぱり……よそ者って警戒されてるのかな?)


 そんな不安が頭をよぎりかけたその時――。


「かわいい……」


 誰かがポツリと呟いた。


 その瞬間、まるでダムが決壊したかのように、教室中が一気にざわめき始めた。


「え、嘘でしょ、男子なのにあんなにかわいいの!?」

「信じられない……あれで本当に男子?」

「S組で良かった!」


 黄色い歓声があちこちから飛び交い、教室の雰囲気が一変した。あまりの騒がしさに、黒川先生が「はい、皆さん静かに」と軽く手を叩き、クラスを落ち着かせる。


「それでは、瀬川さんはそこの席に座ってください」


 彼女の視線の先には、教壇のすぐ前にあるひとつだけ空いた席があった。


(真ん中の最前列……! プレッシャーすごいな)


 悠は緊張しながら指示された席に歩いていくと、隣の席の女子が上品な微笑みを浮かべた。


「ごきげんよう、瀬川さん。これから隣同士になりますわね。どうぞよろしくお願いいたします」


 澄んだ声と上品な物腰に、悠は思わず見惚れた。肩までの艶やかな黒髪と清楚な雰囲気、そしてまるで人形のように整った顔立ちが印象的だ。制服姿もきちんとした佇まいにふさわしく、自然と目を引く美しさだった。


「……よろしくお願いします」


 ぎこちなく返事をする悠に、彼女はふわりと微笑んだ。


「あっ失礼、こちらの自己紹介はまだでしたね。私は桐原由紀と申しますの。よろしくお願いいたします」


「あっ、こちらこそ」


 悠はぎこちなく返事をしながら、なんとか彼女の微笑みに耐えた。こんなに美しい子と隣同士になるなんて、人生で初めての経験だ。胸の高鳴りを抑えきれず、内心で動揺していた。


(やばい……どうしよう。こんな子が隣だなんて、落ち着いて授業を受けられる気がしない……)


 しかし、すぐに思い出した。ここは厳格な校則で知られる聖心女学院。「男女交際禁止」というルールが悠を縛っている。恋愛は絶対にご法度なのだ。


(いやいや、逆にこれだけの美女ぞろいだと、俺みたいなのは恋愛対象外だろう。むしろ安心して過ごせるかも……?)


 淡い期待が胸に芽生える。クラスの女子たちはみんな洗練されていて、悠には手が届かない世界にいるように思えた。自分の存在なんて、彼女たちの華やかな生活の中ではただの添え物でしかないだろう――そう思いかけていた。


 だが、その考えが甘すぎるものであったことを悟るのに、悠はそう長くはかからなかった。

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