【短編】大きくなったらお兄ちゃんと結婚する

夏目くちびる

第1話

 とある休日。



 実家に帰省すると、母親の急な用事ということで、母親の友人(俺も昔世話になった)の娘であるチカちゃんと彼女の家で留守番をすることになったのだが。しばらく、ソファに座って文庫本を捲っていた時、突如として俺の腕に抱きついたチカちゃんがこれまた突拍子もなく言った。



「チカね、大きくなったらお兄ちゃんと結婚するの」



 久しぶりに会ったと思ったら、何を言い出すのやら。しかし、小学三年生ということで、よくある幼女の、知ってる男と結婚したがる夢見がちなプリンセス願望チックなあれではないことを悟り、俺は本に栞を挟んで彼女の顔を見た。



 ませた子だ。



 なんとなく、実家の近所に住んでいる同年代の子供たちと比べて大人びているような気もする。私立の学校に通っているだけあり、下手をすれば俺よりも賢いかもしれないという懸念すらある。だから、俺は適当な言い訳をするのはよしておこうと考え、誠心誠意断ることとした。



「その気持ちは嬉しいしキミのことは大好きだけどね、チカちゃん。キミが大人になる頃には、俺はもうおっちゃんだ。死ぬほど相応しくないから、俺を選ぶのはやめときなさい」



 チカちゃんは、まるで俺がなんと言って躱すのかを知っていたかのように小憎たらしい笑みを浮かべると、ハワイ旅行にリーチがかかった早押しクイズの解答者のようにハキハキとした高い声で言った。



「じゃあ、今する」

「……ん? なにを?」

「結婚、今しようよ。チカね、お兄ちゃんのこと世界で一番愛してるもん。だから、今からチカとお兄ちゃんは夫婦なの。いいでしょ」



 どうやら、チカちゃんは結婚に関する法律を詳しく存じていないようだった。俺は、親切心から民法第739条と児童福祉法第34条について知っている限りの知識を懇切丁寧に説明した。



「婚姻届ならあるよ。昨日、お兄ちゃんが帰ってくるって聞いたから区役所で貰ってきた」



 なんと。



「というか、お兄ちゃん。チカにエッチなことしようとしてるの?」

「いや、そうじゃなくても世間様はそう思うワケなんですよ」

「んふふ、やらしい」



 どうして、小学三年生の女子に出玉に取られなければならないのか。そんな、あまりにも恋愛に不慣れな俺の人生を半ば逆恨み的に嫌悪しつつ、腕に抱きついたままニヤニヤとからかう彼女に、誓ってそんなことは考えていないと弁明した。



「え、お兄ちゃんは好きな女の人にエッチなことしようと思わないの?」

「思います」

「だったら、チカにエッチなことしようと思うのは当たり前なことだよ。チカも、好きな人にそう思われるのは嬉しいもん」

「前提が間違ってるんです」

「どういうこと? お兄ちゃんはロリコンじゃなくて、チカを見た目とか関係なく一人の女として掛け値なしに好きってこと?」



 なんなんだ、一体。



 この子の前世は、政治家や宗教家を言葉巧みに操って打ちのめした西暦以前のソフィストに違いない。一度は火炙りにされたというのに、転生してからも人を言いくるめようなんて困った奴だ。



 ただし、問題は俺の半分以下しか生きていない少女の詭弁を、一応はまともに育ってきたハズの俺がまったく論破できないことであった。



「……分かった。じゃあ、ママが帰ってきたら聞いてみ。それで『いいよ』って言われたら結婚しよう」



 俺の独力ではどうしようなさが半端ではなかった為、仕方なくチカちゃんのお母さんに助けを乞うことにした。これなら、下手な言い訳をして綻びを生み、生んだ先から弁証法的な敗北を喫する必要もなくなるだろう。



 愛なんてもモノは、決して理論では覆せないのだから。ならば、子供が決して口喧嘩に勝てない親という存在を召喚するのが最も合理的だ。俺は、己のあまりにも合理的な回答にすっかり満足すると、既に冷めてしまったスリランカ産のセイロンティーを一口すすった。



「ふ〜ん。お兄ちゃんって、自分の好きな女の一人も幸せに出来ないんだ」



 俺は、ガラにも無く心に深い傷を負った!



「そういうことじゃなくてね、チカちゃん。キミは頭がいいんだから、大人と子供が結婚出来ないってことくらい分かるでしょう。この世界にはね、法律よりも重用視されるべきである倫理というモノがあってね?」

「え〜。チカ、難しいことわかんな〜い」



 チカちゃんは、あまりにも作り物じみた気怠い甘い声を、俺の胸に額をグリグリと擦り付けながら放った。クリティカル過ぎる罵倒を受けたせいで俺も冷静じゃなかった。確かに、小学三年生に法律と倫理の話は難し過ぎたかもしれない。



 そう考えるしかないのが、実にもどかしい限りだが。


 

「そもそも、大きくなったらってなに? おっぱいが大きくなったら結婚してくれるの?」



 俺は、極限までデフォルメした成長という観点から、それなりに的を射た意見に少しだけ感心していた。もちろん、バストサイズは人それぞれだろうけども。



「はしたない事を言うんじゃありません。というか、キミが自分で大きくなったらって言ったんじゃないか」

「だって、普通に告白したらどうせお兄ちゃんは『チカが大きくなったらね』とか言ってたでしょ。この小説は短編なんだから、読者が分かってる脈略は省かないと冗長でしょ」



 ぐうの音も出ない正論であった。



「普通に考えれば、年齢を重ねたらって意味でしょう。具体的な数字を言うのであれば成人は18歳からなんだから、一応は、大きくなるというのは18歳になるという意味なんじゃないかな」

「18歳までなんて待てない。チカ、この気持ちをあと10年も抱えてたら死んじゃうよ」



 徹頭徹尾、嫌味と詭弁で俺をからかってくれるなら冗談だって分かって楽なのに、要所要所で幼いなりに真剣な顔して健気なことを言うからズルいのだ。



 それとも、これすら演技なのだろうか。だとすれば、保証しよう。この子は女優か占い師になるべきだ。どちらを選んでも、たった数年で死ぬまで食いっぱぐれない大金を荒稼ぎするに違いない。



「とにかく、今はチカちゃんと結婚は出来ない。大人と子供じゃダメなんだ。分かってくれ」

「出ました、大人特有の風呂敷を無理やり畳むやり方。絶対に自分が子供の時にやられて嫌だったハズなのに」

「ぐ……っ」

「ズルいよ。チカ、こんなにお兄ちゃんのことが好きなのに。お兄ちゃんが、こんなにチカを好きにさせたのに」



 この時、ひょっとして俺にはチカちゃんと結婚する以外に道がないのではないかと思ってしまった。まだまだ幼い彼女に、行き過ぎた理論武装を強いてしまったのは他でもない俺なんじゃないかと疑ったからだった。



「……なら、分かった。さっきまでのこと、全部忘れて最初からやり直そう」

「いいよ。でも、最初ってどこから?」



 そして、俺は彼女に愛の告白をすることとなったのだ。



「チカちゃん。キミが大きくなったら、俺と結婚してほしい」



 彼女は、急に光を当てられて瞳孔を大きく開いた猫のような顔で驚き、それから耳たぶまで顔を真っ赤にしてモジモジしながらボソボソと言った。



「……んふふ、お兄ちゃんの方がそれ言うんだ。そんなロマンス、聞いたこと無いよ」

「どうせ、俺は恋人を作る気もないから。きっと、キミが大人になっても俺は独身をやってるんだと思う。それなら、キミを迎えるくらいはどうってことない」

「愛してるから?」

「好きだから」



 そして、彼女は俺の腕を再び強く抱き、顔を隠すようにして笑った。



「仕方ないなぁ。じゃあ、チカがお兄ちゃんのこと貰ってあげる。感謝してよね」



 それからというもの、彼女はさっきまでの問答が嘘だったかのように年相応なゴシップトークを繰り広げた。



 数年だろうか。いや、もしかすると一週間後かもしれない。すべてが新鮮で、一日の時間が俺よりも長いチカちゃんは目まぐるしい日常の出来事にどんどんと興味を惹かれ、この日の話なんてあっという間に過去の話となるだろう。



 そうすれば、俺に感じた気持ちが間違っていたことに気が付き、彼女の方から約束を破ってくれるだろう。言いくるめようなんてのはスマートじゃない。こんな時に誰も傷付けない方法というのは、決まって男が道化を演じることなのだ。



 これでいい。



 そう確信すると、俺は今度こそ見出した合理性に深く満足し、彼女の頭を一度だけ撫でてから文庫本を開いた。



「……なんてことがあったなぁ」



 思わず呟いていた。



 二人で住むための新居へ引っ越すための荷造り中。あの日に読んでいた、今は埃をかぶった文庫本を手に取ったせいで、世間の誰にも言えないであろう十年前の恥ずかしい出来事を思い出してしまった。



 年齢差って、なんだろう。



 俺は、あいも変わらず俺を手玉に取り続ける彼女の後ろ姿を見てため息をついた。

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