夜に溶ける

神楽耶 夏輝

第1話 あとがきを追記しました

 雨上がりのアスファルトから立ち上る匂い。

 ネオン街の喧騒。

 裏通りの細い路地。

 遅れてやって来た私の青春という章には、いつも彼が、甘く優しく笑っている。



 長雨がようやく上がり、各局のニュースは夏の本番を知らせた。

 当時26歳だった私、秋山美乃梨は、昼はお弁当屋のキッチンで働き、夜はスナックでバイトという過酷な毎日を送っていた。

 とにかく、お金が必要だったのだ。

 ギリギリの生活、というほど困窮していたわけではなかったが、何かに取りつかれたように働く事で、心の隙間を埋めよとしていたのかも知れない。


 一人暮らしをしていたアパートは、繁華街まで徒歩でおよそ15分。

 そんな暮らしは、若い頃遊び足りなかった私にとって、毎日が新鮮で刺激的。

 夜の賑わいに身をゆだね、スナック勤めの帰りによく立ち寄るカフェバーがあった。

 ポップでラフ。耳に流れるBGMはおしゃれで、25時を回った店内は心地いい喧騒で溢れていた。

 私はまるで深海を漂う魚のように、体力の限界まで心地いい喧騒に浸るのが日課だった。


 そこで働くバーテンダーの多くは大学生のアルバイトだ。

 その中でもひときわ私の好みにドストライクの可愛い男の子がいた。沖縄出身で、背が高く、あどけない顔に独特の訛りが魅力的だった。

「〇〇ねぇちゃん」と呼ぶのが沖縄独特の風習らしく、常連の私を「美乃梨ねぇちゃん」と呼び、慕ってくれていた。


「美乃梨ねぇちゃん、俺、二十歳になったんだ」

「そっかー! おめでとう!」

「もう、堂々と酒飲めるよ」

「そっか、じゃあ飲め飲め! 好きな物飲みな。奢るよ」

「わぁい!」

 そう言って、バドワイザーの缶をぶつけ合った。


「美乃梨ねぇちゃん、今度一緒に飲みに行こうよ。ご馳走する」

「本当? お祝いだから私がご馳走するよ」

「ううん。俺に奢らせて。いつも来てくれるから。美乃梨ねぇちゃんを連れて行きたい店があるんだ」


 ここはカフェバーであって、ホストクラブではない。

 なので、指名なんてシステムもなければ、彼はこのバーのオーナーでもないわけで。

 接待したところでなんの見返りもない一客に過ぎない私に対して、負担が大きいのでは? と思ったが、奢りたい年ごろなのだろう。素直にかれの好意に甘える事にした。


「ありがとう。楽しみにしてる」


 ◆◆◆


 雨上がりの繁華街は、濡れたアスファルトにネオンが反射してキラキラと輝いていた。

 彼が「連れて行きたい」と言っていたバーは、高級感漂うビルの最上階にある大人の雰囲気を有したバーだった。

 コンテストで優勝したという女性のバーテンが、品よくシェイカーを振っている。


「こんばんはー」

 慣れた様子で中に入る彼。

「あれ? 真城君?」

 女性バーテンが彼の名を呼んだ。

 彼は少し照れ臭そうに頭を下げながら、カウンターの椅子を引いてくれた。

「美乃梨ねぇちゃん、ここにどうぞ」

「ありがとう」


「もしかして、彼女?」

 バーテンさんが目を丸くする。

 彼は答えない。肯定も否定もしない。いたずらっ子のような含みを持たせて

「そう見える?」

 とだけ言って、隣に腰掛けた。

 その横で私は慌てて両手を顔の前で振った。

「違う違う。私はただのお客です。彼が働いてるバーの」

 私が彼女だなんて、申し訳なさ過ぎて……。


 彼は少し不服そうに「もうー」と小さく吐き出して「取り合えずジーマください」と言った。


 間違いとはいえ、「彼女」なんて響き、何年ぶりだろう?

 なんだか胸の奥がくすぐったくて、ドキドキして、夢ごこちとはこの事だ、と思った。

 今となってはもう、何を話したかのかさえ覚えていない。

 ただ、隣を向けばK-Popアイドルにも負けないほどのイケメンが私を見ている。

 優しく微笑んでいる顔だけは、ずっと脳内に居座って消える事はない。


 一杯が軽く1000円を超えるカクテルを無造作に注文する彼。

 勧められるまま、口当たりのいいアルコールを体内に収めて、ふと気が付くとすっかり夜は更けていた。


「ラストオーダーです」

 そう言われて、立ち上がると思いのほか酔いは回っていて足元はおぼつかない。

「おっと、大丈夫?」

 彼が私の肩を支えて立ち上がらせた。

「ありがとう。あれ? そんなに酔ってないはずなんだけどな」

 6つも年下の男の子の前で酔っぱらうなんてみっともない。

 気力だけで立ち上がり「ごちそうさまでした。とってもおいしかった」と笑顔を作った。


 バーを出て、エレベーターに乗る。

 1階のボタンを押して、ドアに向いたまま彼はこう言った。


「俺、美乃梨ねぇちゃんのこと好きだよ」

「私も、真城君が好きよ」


 チュッ。


 突然の出来事だった。

 おでこにふんわりと優しい唇の感触が落ちてきた。

 恥ずかしさより、嬉しさが勝っていた。

 真城君に、おでこにキスされたー!

 酔いも手伝い、夢の世界へと引きずり込まれた。

 先にエレベーターを降りた彼はふと立ち止まり、後ろ手をこちらに差し向ける。

 私は、迷わずその手を取った。


 ぎゅっと握れば、ぎゅーっと握り返す。

 大きくて優しくて温かい手に包まれて、タクシーに乗った。

 彼の肩に頭を預けたまま、外のネオンが融けていくのを、ぼんやりと眺めていた。


「うちに来る?」彼が訊いた。


 一瞬ためらったが、うなずいた。

 断ってしまえば、もう二度とこんな夢のような夜は訪れないかもしれない。

 子供の頃からいい事なんて一つもなかった。

 これぐらい、いいよね?

 一夜だけ。

 今夜だけ、真城君の彼女でいたい。


「はい、着きましたよ」


 タクシーの後部座席が開いた。


 彼はスマートに会計を済ませて、私の手を取った。

 まるでお姫様みたいに丁寧に扱ってくれる彼に、もうすっかり骨抜きにされていて。

 これから、何がはじまるのかも、もちろんわかっている。


 じゃりっと埃っぽいアスファルトを踏んだ瞬間。


「ごめん、真城君。ごめん」


「え?」


「ごめんね、私、やっぱり帰らなきゃ」


「どうして?」


「ごめんなさい」


 彼は、優しく微笑んでこう言った。


「わかった。送って行くよ」


「ううん。もう休んで、眠そうな目してる」


「全然眠くないよ。危ないから送って行く」


 今にもついてきそうな彼の両肩を押した。


「大丈夫。一人で帰れるから、おやすみ。今日は本当に楽しかった、ありがとう」


 そう言って、背を向けた。


「美乃梨ねぇちゃん。俺、本当に好きだよ」


 その言葉を聞きながら、雨上がりの歩道を駆けだす。


「ごめんね」と何度も心の中で繰り返しながら――。


 ◆◆◆


 次の日。

 ピンポーンとアパートのインターフォンが鳴った。

「はーい」

 二日酔いと寝不足の体は、羽が生えたみたいに軽やかだった。

 玄関を開けると

「ママー」

 麦わら帽子に戦隊物のキャラクターが描かれたTシャツを着ている小学校1年生の息子が、太陽にも負けない笑顔で立っていた。

「悠斗!」

 ぎゅっと抱きしめる。

「会いたかった?」

 と訊く悠斗。

「死ぬほど会いたかったよ」

「ユウトも、死ぬほどママに会いたかった」


「明日のお昼ごろ迎えに来るから」

 事務的にそう告げたのは3年前に離婚した元夫。

 経済的な理由で、引き取る事ができなかった、たった一人の世界で一番大切な私の宝物。


 悠斗のためなら、過酷な仕事もへっちゃらだし、神様からのご褒美みたいな恋だって諦められる。


 悠斗の柔らかい頬に頬ずりして、人生最後の恋を手放した。


 完


 ・・・・・・・・・・・・・


 あとがき

 本編にはねじ込めなかったんですが、美乃梨さんは離婚歴がある事、息子がいる事を真城君にどうしても伝える事ができなかったそうです。

 彼には普通の女性と思われたままでいたかったんだそうです。

 女心って、複雑ですね。

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