第2話 二

 胸の不快な痛みで目が覚めた。


 やがて、臓器が口から飛び出してくるかと思うほどの絞り出すような苦しさが襲った。同時に酸っぱいものが込み上げて来た。おまけに頭を漬物石で何度も叩かれているようだ。更には、無理やり大量の糊を食べさせられたように口が固まり、目を開けさせないように誰かが手で押さえつけているように瞼が動かない。


 今朝も、体は例外なく酒を飲み過ぎた時の状態になっている。


 このような苦痛を味わうことが分かっているのに何故毎晩酒を飲むのか、という間抜けな問いかけをする奴がいたら教えてやろう。


 この後に飲む一杯の水の美味さを一度でも味わったら誰でも病み付きになる。


「水だ、おいっ、トメ、水をくれ」


 コッコッコッと庭で鳥が鳴いている。あとは静寂だ。


「ああ、そうか、トメは居ないのか・・」

 トメに暇を出したことを思い出した。


 布団から抜け出して足をさすった。砂袋を背負っているように体が重く立ち上がるのも躊躇する。自分で水を飲みに行かなければならないという難題が今日から発生した。


「やはり、もう酒は止めよう・・」


 そう心にもない呟きをしたとき、コトリと物音がして襖がスーッと空いた。


 眼を向けると、若い女が手に湯飲みを持って立っている。小柄で細身の体に紺色の絣の着物をまとい、硬い表情でうつむきながら上目遣いに私を見ている。


 初めて見る顔だ。

「だ、誰だ・・」


 私がもつれた手ではだけた着物を直し終わらないうちに、女がスタスタと近付いて来て、枕元に近い畳の上に水の入った湯飲みを無雑作にトンと置き、又スタスタと部屋を出てパタンと襖を閉めた。


 部屋の中を見回した。


 間違いなく自分の家である。幻影にしてはハッキリとしていた。幽霊にしては出てくる時刻が違う。


 女が置いていった湯飲みを手に取った。見たところ普通の水が入っている。


 水を欲している体の要求には勝てない。恐る恐る口をつけた。冷たくて美味い。一気に飲み干した。頭がやや軽くなり、気分が落ち着いて来た。もう一杯欲しくなった。


 私はゆっくりと立ち上がり、襖に近づいてそっと手をかけ、耳をすましながら恐る恐る襖を開けた。


 台所の隅にその女が座っている。


「他人の家で何をしている」

 女は無言のまま緊張した面持ちで私を見ている。


「どこの者だ」

 女はなおも無言でオドオドしたように体を揺すった。私は手に持った湯のみを女に向けて差し出した。


「その・・とりあえず、もう一杯水をくれ」


 女がサッと近付いて私の手から湯飲みを奪い取り、スタスタと台所の水瓶のところに行き水を入れ、間を置かずにスタスタと近づいて来て無造作に湯飲みを差し出した。


「ああ、すまぬ・・」


 私が湯飲みを受け取ると、女はサッと元の位置に座った。そのままの姿勢で私に不安そうな眼を向けた。私は湯飲みに口を付けながら周囲を見回した。


 玄関、土間、囲炉裏、居間そして台所、そこで眼が止まった。台所には膳が用意されていた。櫃には飯が入っているのか仄かに湯気が立っている。鍋からも湯気が出ている。二種類の漬物も用意されていた。私は女に目を向けた。


「お前が支度したのか」

 女が短く頷いた。


「でも、なぜ・・」

 そう言いかけて、トメが言っていたことを思い出した。


「・・オラ歳ださげ暇もらいますが、そのうちに、オラの代わりに姪っ子を寄越しますさけ・・」


「お前、トメの姪っ子か」


 女が短く頷いた。謎が解けた。


 それと同時に肩の力が抜けていった。湯のみの水を飲み干した。気が緩んだのか大きなあくびが出た。はだけた胸を右手でかきながら、ゆっくりと囲炉裏に近づきいつもの定位置に座った。


 途端に女がサッと立ち上がり台所から膳を運んで来て、私の前にドサっと置いた。そうかと思うと、汁物やら漬物を次から次へと運んできた。

「おい、こら、ちょっと待て。何をそうバタバタと慌てているのだ。急がずとも良い。城に上がる時刻までにはまだ余裕がある。ゆっくりで良い。飯ぐらいゆっくり食いたい。落ち着け」


 女は短く頷いたが、右手にしゃもじを持って、膳の上の飯碗をジッと見ている。飯を盛る気満々の面構えだ。その期待に応えない訳にはいかない気持ちになった。飯碗をとって女に渡した。女はあっという間にお櫃から飯碗に飯をよそい私に向かって突き出した。


 この何かに取り憑かれたように急いでいる女に対抗した訳ではないが、私はことさらにゆっくりと頷いてそれを受け取った。女は相変わらず緊張した顔付きで不安そうな眼を私に向けている。


 今後は、この極度に緊張した居心地の悪さの中で飯を食うのか。居るか居ないのかわからない程に存在感の無かったトメが恋しい。


 ため息が出た。


 食事を終えて白湯をもらった。楊枝を咥えて咳払いをした。

「なあ、初対面だし気を使うだろうが、まあ楽にしろ。この家のことはトメから聞いているのか」


 女は首を横に振った。

「そうか。特にどうという事はない。俺はいつも巳の刻に登城し、羊の刻には家に帰る。食べるものに注文はないが、酒だけは切らさないでくれ。医者の洪庵先生からは控えるように言われているが、なかなかそうもいかない。誰が何と言おうが酒があっての人生だからな。この世に酒が無かったとしたら俺は生きてはいけない。と、まあ、そういう訳だ。俺は、葉山藩目付役の高橋惣兵衛という者だ。それで、お前さんは」


 女がジッと私を見た。

「ヨネ・・」

 一言そういってうつむいた。


「おヨネか、うん、いい名だ。・・それで歳はいくつだ」


 ヨネが顔を上げた。

「じゅ、じゅ、十五・・」


「そうか、十五か。それは、まあ、その・・・」


 しばらくヨネと無言で見つめ合った。


「俺は四十三だ・・」


 コッコッコッと庭で鳥が鳴いている。

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