堤の高さ

戸沢 一平

第1話 一

 格子戸から西日が差し込む中、ドン、ドン、ドンと、下城の触れ太鼓の乾いた音が響いた。


 その音が鳴り止むと同時に、大目付仲里俊太郎(なかざととしたろう)が立ち上がった。お役方に一礼してスタスタと出口に向かった。判で押したような毎日の寸分違わぬ光景である。


 その仲里が、私の前を通り過ぎたところで足を止め、体勢はそのままで首だけ振り向いた。


「おい、惣兵衛(そうべえ)、そういえば、例の検死はどうなっている」

「はい、明日が洪庵(こうあん)先生にお願いしている期限でございます。明日、先生のところに行き、結果を聞いて参ります」


 先日、普請役の荒木洋之助(あらきようのすけ)が事故で死亡した。


 葉山藩では、いま大規模な工事を行なっている。治水用の堤の建設である。荒木は普請役として堤の検査を行なっている最中に、何らかの理由で川に転落したと思われた。


 川に浮いている状態で発見されたので溺死と見られたが、藩の公式記録に死因が記載されるため、藩のお抱え医師にその特定を依頼していた。


 仲里は私に向けていた顔を出口の方向に向けた。

「そうか。それでは、明日でこの件は我らの手を離れるな」


 検死は目付役のお役目であり、私がその担当である。

「はい。目付役としては、これで終了します。その後は、普請役と庶務役が葬儀などの段取りを行うでしょう」


 これから予定されている葬儀を担当するのは、荒木の所属する普請役と藩の全般を管轄する庶務役となる。


「うむ、惣兵衛、ご苦労であった」

 仲里が短く頷き、御用部屋を出て行った。


 仲里の姿が消えると、お役方が一斉に動き出した。緊張から解放されたゆったりした雰囲気で、雑談や帰り支度の音がザワザワと場を包んで行った。


 私も机の上を整理し立ち上がった。既に、気分は唯一の生き甲斐である晩酌へ飛んでいる。


「惣兵衛、今夜は過ぎるなよ」


 見ると、目付役次席の三浦由三郎(みうらゆさぶろう)がニヤリとしながら前を通り過ぎた。仲里の前では常に難しい顔をして従順な姿勢でいるが、居なくなった途端に態度が豹変する現金なところがある。役人としての処世術の見本のような男だ。


 私はお役方の間では酒飲みで通っている。彼らから陰では「惣兵衛」ではなく「飲ん兵衛」などと言われている事も知っている。


 事実なので特に反発はしない。


 日本でも有数の急流で知られる最上川は、数年毎に氾濫を繰り返していた。


 その最上川が、藩にとって重要である肥沃な田畑地帯に隣接して流れていることから、その治水が、この葉山藩の大きな懸案であった。


 先代の藩主である白鳥長幸(しろとりながゆき)がこの難題に挑んだ。川と田畑地帯の間に堤を作ったのだ。だが、藩士や百姓だけによる、言わば素人による工事は、決壊と補修の繰り返しで、充分な成果をあげるまでには至らなかった。


 長幸の後を継いだ嫡男である長政(ながまさ)は、その反省から、恒久的な堤の建設に着手する。近隣の諸藩の実情を視察し、検討を重ねた結果、土木工事を手掛ける事業者に請け負わせることが最良の方法であるとの結論となった。大きな財政的出費を伴うことで懸念する声もあったが、長政が決断した。


 請け負ったのは近江屋である。近年、諸藩において多くの土木工事全般を手掛けており、その実績が評価された。


 過去の川の氾濫状況を勘案した結果、高さが八尺、長さが十二丁の堤を作るという大規模な工事となった。総額で、千三百五十両という膨大な金額となる。工期も足掛け三年という長丁場である。


 その工事が間も無く完了する、という時に、この事故が起こった。


 工事の検査役となって、堤が仕切書(契約書)通りに作られているかの検査を行なっていた荒木が、水死体となって発見されたのだ。


 状況からすると、堤の出来上がり具合を検分している最中に、何らかの理由で川に転落したのではないか、と思われた。疑問の余地は無かった。

 ただ、藩の公式記録に記載されるため、医者による検死という手続きは省略出来ない。形式的とはいえ、それが役人の仕事なのだ。


 明日、洪庵先生から正式に溺死という言葉をもらい、荒木の死体を引き取って戻り、仲里に報告してこの仕事が終了する。


 城を出て家までの道すがら、やはり思うのは晩酌の事だ。


 五年前に妻を亡くしやもめ暮らしが続いている。食事や身の回りは、父の代からの住み込みの下女トメに世話をしてもらっている。だが、そのトメもかなりの高齢となり、暇を申し出ていた。


 確か、今日で最後のはずだ。


 後は姪っ子を寄越すと言っていたが、それまでは一人でやらなければならない。飯ぐらいは炊ける自信はある。


 家に着くと、やはりトメの姿は無かった。食事の支度は出来ていた。

 徳利を持って来て晩酌を開始した。


 トメは、居るのか居ないのか分からないほどの存在感で、見かけても居眠りばかりしている老女だったが、やはり、姿が見えないのは寂しい。


 トメの料理は例外なく塩辛い。おかげで酒がすすむ。


 今夜も深酒になりそうだ。

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