第2章 恋する乙女、雨を待つ靴店

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 エデル・アンダーソン。十六歳。女性。技術面……そこけ・こうかわ作成ともに問題なし。男性ぐつ女性靴関係なく器用につくろうことが可能。ただし平均より時間を要する。

 セスの試験評価表にゆうの文字をいただいたエデルは、見事大型靴店ガラスドームの新米職人としての身分を手に入れた。


(お、思ってもみないことになってしまった……どうしよう、お店の中でばつあらそいに巻き込まれたりとか……新人のせんれいという名のいじめとか……松ヤニをぶっかけられたり、った靴糸をはしから切られたり、道具をこわされたりするんじゃ……! お、お母さんも初舞台の前にはしようを切られたりしよう道具かくされたりしたことあるって言ってたし……)


 普通の職人ならば晴れがましい気分でたどる初出勤の道のりも、エデルはまるでしよけいだいに向かうけいしゆうのような足取りで、悪い想像ばかりをかきたてては頭痛を起こしていた。

 何かあるたびに最悪のてんかいを考えてしまうエデルのあくへきは、本日も健在である。

 松ヤニをかけられたら、着替えを急いで買いに行かなくてはならないが、近くに洋服店がなかった場合についてあれこれ考えているうちに、エデルはいつの間にか職場に到着していた。


「えっと、裏口から、裏口から……」


 ここまでくれば腹をくくるしかない。

 何より、ここには母のひんがある。置いてげるわけにはいかない。

 かくを決めて従業員用のとびらを開けると、すでにセスをはじめとする数人の男性たちが制服姿で並び立っていた。セスがエデルに気がついて、ぶんぶんと手をふる。


「あ、エデル。ごめんね、朝礼があるの伝え忘れてた! もう始まる!」

「えっえっえ」


 もたもたしているエデルの手を引いて、セスはこうぼうの中央に進み出た。


「ちゅうもーく!」

(しないでお願い──! まだ心の準備が)


 こうの目線にさらされて、エデルの心臓はドッドッと音を立てている。


「こちらは、今日からいつしよはたらくことになったエデル・アンダーソンさんです。はい、みんなしようかいの時間はひとり一分ね! では新人さんからどうぞ」


 エデルは目を泳がせながら、どうにか自分の置かれているじようきようを理解しようとつとめた。


(じ、自己紹介って、何を言えば)


 昔、町の学校でそんな経験もしたような気がするが……あらためて職場の自己紹介で何を言えばいいのかを考えると、まるで自分というものがすべて抜け落ちてしまったかのように、何も言葉が見つからないのである。


(ちゃんと昨日きのうの夜に、考えておけばよかった。自己紹介、あるに決まっているのに……)


 セスがみかねて、助け船を出した。


「エデル。ねんれいと得意なものと、そうだな、職人としてのもくひようを言ってみようか。これ全員ね! せんぱいたちも年齢と役割と目標!」


 店側の扉が開いて、手袋をはめながらアランが入ってきた。

 どうやらオーナーも朝礼には参加するらしい。彼の温度のないあおむらさきひとみで見られると、ますます言葉が出づらくなってしまう。

 早くも手のひらにじっとりと汗をかいており、エデルはぎゅっと目をつむってから、口をぱくぱくし始めた。


「エ、エデル……アンダーソン、です。十六歳です。得意なものというか、できることは、靴を作ることしかありません……」


 この時点でエデルはさらに取りみだしていた。


(そもそも……ここにいるのは靴を作れる人ばかりじゃない……それを得意とかできるとか言って実際私のうでが全然たいしたことなかったらみなさんの反感を買うのでは……)

「あ、やっぱり得意なものは……えっと、ゆかいたすきに入ったくぎを取り除くこと、です」


 しどろもどろになりながらそう答えると、どこからか温かい笑い声がれた。

 場のふんがなごみ、エデルはほっとむねでおろす。


「職人としての目標は?」


 アランは手帳に目を落としながら、エデルに続きをうながした。


「……もく、ひょう」

「うちは職人の独立をかんげいしている。ここで長らくはたらいてくれるにこしたことはないが、現状で満足するようでは腕がにぶる。なので定期的に職人たちに目指す場所を確認している。自分の店を持つでもいいし、さくを目指す、王族にし上げられる、デザインのみをきたえる……人それぞれだ。できるだけその目標に近づけられるように、役割を振り分けている。配属の参考にするから好きに言ってみろ」


 かつて、いっとう大切な、ゆずれない目標がエデルにもあった。

 彼女が職人を目指した理由である。

 その夢のためなら、同じ作業の繰り返しも、どんどんかたかつこうに荒れてゆく手のいたみも、苦にならないほどにひたむきになれた。

 絶対的な光が胸をつらぬき、エデルをみちびいてきた。

 けれど光は細くかすみ、今はくらやみの中をあてもなく歩いている気がする。


「……すみません。今は、何も……」


 アランはかたまゆをつりあげた。


(きっと、あきれられたな……でも……)


 エデルがスカートのポケットをくしゃりとにぎつぶすと、セスはまぁまぁと声をあげた。


「いきなりこんなところで目標とか言ってもきんちようするでしょ。またおいおい聞かせてよ。さぁ、じゃあ次は先輩たちの自己紹介ね! 今日は全員いないんだけど、まぁそろっている方かな」


 エデルは改めて顔ぶれを確認する。

 目の前には、白いシャツにエプロンをつけている男性たちがいる。セスも同じ身なりをしていることから、彼らが靴を縫う職人であることは間違いないだろう。

 セスがエプロンの色分けを説明する。正規職人はチョコレート色、見習いはい青だ。

 エデルが見るに青いエプロンの数が上回って見えた。職人不足と言っていたが、彼らの成長を待つ間の一時的なもののようだ。


「はい、では年長者から」


 セスの言葉に、正規職人のエプロンをつけた年かさの男性が前へ進み出た。ゆるくらした髪をひとつに結んで、しようひげがえている。一見だらしのない格好に見えるのだが、りよぶかいグレーの瞳と、シャツの上からでも分かる引きしまった体をしていて、セスとは別の意味でご婦人に好かれそうないでたちの男だった。


「ジジ・カウディです。としはさて、いくつに見えるでしょう」


 エデルはじっとジジをかんさつする。アランやセスよりも年上であるのは分かるが、かといって彼らの親世代には見えない。

「役割はサンプル作りと甲革師だけれど、必要があれば底も縫ってる。目標は……もうさんざん工房は渡り歩いたので、引退するまでここで試作師を続けたい」

 今はエデルのに代わり、この人が店の試作品を作っているのだ。

 ということは、ショーウィンドウにかざられていた靴もすべて彼が手がけたものであり、エデルは彼のお手本に従い靴を作ることとなる。


「そして世の女性たちを幸せにするのが、私の最大の目標だ。もちろん、かわいらしいライバルにも負けるつもりはないので、そこのところはどうぞよろしく」


 彼が片目をつむってそう言うと、エデルはたじたじになってしまった。

 まさか店一番の職人と、張り合おうだなんて思っていない。

 ジジが一歩退くと同時に、彼のかたわらにいた少年が進み出た。


「ディック・カウディです。エデルと同じ十六歳。さっきのジジはおれのです」


 よくよく見れば、こげ茶の髪もグレーの瞳もふたりして同じような色合いをしている。けだるげなジジとは違い、ディックはいかにも活動的な少年という印象だったので、気がつかなかった。


「似てないけど似ているって、よく言われる」


 ジジが笑って付け加えた。ディックはふん、と鼻を鳴らして、


「おれは底付け師やってます。とりあえず目標は甲革も作れるようになって、ひとりで全行程できるようになることかな」


 彼もしっかり腰に茶のエプロンを巻いている。


(底付けと甲革作りが分かれている……)


 エデルのもんさつしたように、セスが言った。


「そう。うちは分業なんだよね。この方がこうりつがいいから」


 底付けとはその名の通り靴底を作る工程のことをいい、甲革作りは靴の表部分……靴底の上にかぶせる部分を作る工程のことをいう。デザインはほぼ甲革に反映されるので、靴の顔とも呼ばれている。


「新人にはしゆぎようもかねてたいてい底を作らせているけど、エデルはどちらもできるから、好きな方をえらんでいいよ」

「ええー! じゃあおれ、また底縫いやんの? 新しい子が入ったから上も縫わせてもらえると思ったのに!」


 ディックが不満そうな声をあげたが、アランがぴしゃりといさめた。


「そういう台詞せりふは俺をなつとくさせる甲革を五十点持ってきてから言え」


 ちぇっ、と声をらすと、ディックはすごすご下がった。

 見習いたちが次々と自己紹介を終えると、セスの番がやってきた。


「はい、最後はぼくだね。セスです。基本的にはデザインと、甲革を縫います。あとアランさんと一緒にこのお店のとりまとめもしています。目標は僕より年上のご婦人の靴専門店をオープンさせることです」

(なぜ……年上の女性限定なのだろう……)


 全員がセスから目をらし、誰も彼の目標にれなかった。

 自己紹介が終わりに近づいたころから、エデルもそれぞれの役割を頭に入れることができていた。店内せいそうや受付業務などの雑事は見習いたちが順に行い、正規職人は靴作りに集中しているようだ。


(お、思ったよりもみんな優しそうだし……大丈夫そうな職場なのかな)


 自己紹介を終え、ほっと息をつくのもつかの間、セスが出し抜けに大声をあげた。


「はい、従業員こころせい───しよう────!!」

「はいっ」


 職人たちが背を正す。

 エデルが目を白黒させているうちに、みなが腹の底から声をあげた。


「ひとつ、道にまよえばせんだつの背中を!」

「ふたつ、道をはずせば大声でさけべ!」

「みっつ、道の向こうからむかえを待て!」

(……!? 山登りのおきて……?)


 セスは笑顔でげる。


「あ、うち意外と体育会系なんでよろしく。声小さい子は先輩たちの道具みがきね」


 エデルはおびえた瞳にセスをうつしながら、ゆっくりとうなずいた。

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