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 エデルは履いていたレースアップブーツを脱ぐと、木べらで靴底のどろを落とした。

 それから指先にやわらかい布を巻きつけ、革の汚れをぬぐってゆく。

 トランクからろうと油で作った手製のクリームを取り出し、たんねんんだ。

 円をえがくように丁寧に、祖父の作ってくれたブーツをいたわるように指を動かす。

 眠る前に靴の手入れをすることはもはやしゆうかんしていた。こうしていると気持ちが静かにいでゆき、明日どうすればいいのかをじっくり考えることができる。昼間はどんなに取り乱していても、そう、一日の終わりを迎えるしきさえしっかりしていれば、たちまちいい考えが……。


「だめだ、どうしたらいいんだろう……」


 エデルは手を止めて、途方に暮れたようにつぶやいた。

 カンディナールの安宿の一角。エデルの本日のどこは、薄い壁越しに隣客のいびきが聞こえてくる。

 赤い靴をアランに奪われ、エデルは彼の使用人にあれよあれよという間に屋敷の外に出されてしまったのだ。

 十万オングが入ったふうとうは受け取らなかった。それを手にしてしまえば、母の遺品を売ったことになる。

 壁の厚い高級宿に半年はたいざいできる大金であったが、母の靴とは比べものにならない。

 アランは、あの靴を『魔術師の靴』だと言った。願いと引き換えに人を不幸におとしいれる靴なのだと。

 母は赤い靴に何か願いをこめていたのだろうか。それで命を代償にささげた?

 それとも、あの靴はまったく別の何かを母にもたらし、彼女を死にいたらしめたのだろうか。

 母の死に関する手がかりを得るためにはるばる旅をしてきたというのに、まさか手がかりそのものが奪われてしまうとは──。


(このままフロンデには帰れない)


 それに、どのみち帰っても彼女の居場所は失われようとしている。

 き祖父とともに暮らしていたてんけん住宅はすでにぬしから退きを命じられていた。祖父の営んでいた靴のしゆうぜんいでどうにか食べて行こうとしていたエデルは、とうに迷うことになった。

 ──あの町のことはあまり好きになれなかったから、これでよかったのかもしれないけれど──。

 エデルに残されたものは、祖父から受け継いだ靴作りの技術と、わずかばかりの現金、使い古した生活ひつじゆひんのみである。


(なんとかもう一度アランさまに会わないと。事情を説明して、靴を返してもらって……)


 しかし、エデルは彼の大切な靴箱を壊してしまっている。

 あのかたくなな様子からさつするに、そうかんたんに赤い靴をへんきやくしてもらえるとは思えない。

 いっそのこと警察に相談するのはどうだろう。

 一瞬そのような考えがよぎったが、エデルはすぐに思い直した。

 靴職人にとって、この業界の代表格と言ってもいいシンデレラ伯爵家をてきに回すということは、食いを得る場所を失うことにあたいする。少なくともこのカンディナールでは彼ともめた職人として名を知られることになるだろう。祖父の店はひと月後にさらになってしまうのだから、就職先のせんたくせばめるのはけんめいとは言えない。

 靴の街カンディナールは国中からきやくがやってくる。母の靴を取り戻したのちにどこかのこうぼうに置いてもらえれば、生活の心配はしなくて済むのだ。

 ──警察は、少なくとも最後の手段にしよう……。

 それに、アランと真っ向からたいすることになれば、自分の気弱な心臓はもたないに違いない。

 エデルはぶるりと背を震わせ、アランの顔を思いかべた。

 もう一度たずねたとしても、きっと冷たくあしらわれてしまうだろう。


(それでも、やらないよりはまし……きっと)


 明日もう一度、彼のもとへ行ってみよう。

 エデルは靴にブラシをかけ終えると、そっとろうそくを吹き消した。


 靴店ガラスドームは、カンディナールでもくつの歴史を持つ老舗しにせだ。

 シンデレラ伯爵家の経営するその店には、老若男女さまざまな人物が足しげく通っている。

 客人たちは『最高の一足』を手にするため、ああでもないこうでもないと職人と共に思案しているのである。

 顧客は上流階級から労働者階級にいたるまで身分を選ぶことはないが、とうかいシーズン前はゆうそうの利用客が多くなるようだ。

 エデルはものかげからじっと店の様子をうかがっていた。

 一度屋敷をたずねたのだが、ディセント家の使用人たちは隙がなく、エデルはとりつく島もなく門前払いされてしまったのだ。


(とりあえずアランさまがお店にいればと思って来てみたけれど……改めて見ると、すごいお店だなぁ)


 エデルが目を奪われたのは、店舗の外装である。

 正面玄関のアーチには薔薇とつぐみをかたどった彫刻。ショーウィンドウには小ぶりのドロップガラスシャンデリアが男性用の革靴や女性用のとうぐつを照らしていた。敷き詰められた装飾品は、色彩をアーモンドグリーンで統一している。薔薇の造花も敷物のレースもにぶみのある緑色にめ、落ち着いた印象を持たせることで商品の魅力を引き立てている。

 中央に飾られたターコイズグリーンの舞踏靴は、せんたんのとがったニードルポイントのつま先が特徴的であった。装飾として、側面にいばらをあしらったしつこくのレースパネルがついている。かかとのリボンはミルクがかったグリーンで、少女らしさと大人のいろが器用に共存するデザインだ。

(靴に感心している場合じゃないって分かってるけど……、う、動けない)

 エデルはそうっと扉の前に立つくつきような男性に目をやる。

 靴店ガラスドームにはドアマンがいた。それも、昨日きのう訪れたときよりもがんそうなおもちの男が。

 しりみをしてこうして物陰から靴店を見つめている間に、すでに三組の客を見送ってしまった……。


(よ、よし。今度こそ行く!)


 エデルがいさんで通りへ踏み出したと同時に、乱暴に靴店の扉が開いた。

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