2 泉下の客
ピリカで買い物をしてから、宮の渡しまで足を伸ばすのが日課になっていた。桜は川沿いの風に晒されても散ることなく、誰にも見咎められずに咲いていた。樹の下で土を踏み締めて空を仰ぐ。堀川までもが眩(まばゆ)く感じられるのはなぜだろう。ひそやかに健気に生きているからこそ、この場所が美しいと感じるのだろうか。
あれ以降、私は外を歩くたび、他所の庭先に目が留まるようになっていた。玄関先、表札の下、軒下――小さな土世界にも樹や草花はたくさんいた。割れたお皿やタイルを組み合わせて造られた陶器や、壊れたジョウロの中に土植された豆苗。意識を向ければ、町中に息づく共生植物は少なくない。ぐるりと一周して帰宅すると、コンクリート一色の駐車場と玄関先がいかにも寂しかった。終の棲家とまでは思えなくても、当面は引越す予定もない。退去の如何が俎上に上るのはきっとセジの方が先だ。実際にどうするかはまた考えればいい。そう思い箕面さんに相談のメールを入れた。番地を含む凡(おおよ)その住所を伝え、玄関前の写真を送るとすぐに返事が返ってきた。
『玄関ポーチもよいですが、建物に沿って奥行二〇センチくらいの植栽スペースを設けるだけでも十分庭になります。表が良ければ、少し離れて門灯やポスト周りにだけ配置することもありますし」
少し時間があるので、直接見て話を聞きたいと言ってくれる。
『フェンスの場所とか、電気系統の確認もあるので拝見した方が早いんですよ。なにかしら想定外のことが起こったりするので』
少しして、箕面さんが白いトラックに乗ってやってきた。
「いやあ、一方通行が多くて迷っちゃいました!」
「お忙しいのにすみません……」
「いえいえ! ちょうど近くにいたもので。レギネは順調ですか」
「はい、急に育ち始めて……大きくなったみたいです。虫が湧いたりもしたから、地植えもいいかもと教えていただいたと聞いて」
「なるほど、それが主目的なのかな」
「床下収納の植え込みは……さすがになんとかしないとって」
「いやあ、彼すごいですよ。賃貸だから問題だけど、あれはプランターコテージみたいで、実際ありだと思うんです。賃貸だけどね」
談笑しながら外観から分かる範囲で、砂利や石材、玄関先タイルなどの仕上げ材を一通り確認すると、箕面さんはニット帽と手袋を脱いでポケットにしまった。「やっぱり拝見してよかった。建物の手前と奥とでかなりの高低差があるんですね。水害対策かな」
「あ、そうです、そうでした……。すっかり忘れていました。この一帯は昔、伊勢湾台風で沈んだエリアだそうで……」
「もっと早く気づくべきでした。ここ海抜0メートル地点ですね」
「庭、無理なんでしょうか」
「できますよ。ちょっと工夫は必要ですが。駐車場が要らないってことでしたら、木材やレンガで小径を作って脇に植栽すると、全体がアプローチになって隠れ家レストラン並みにカッコよくもできちゃいますけど、そこまでは考えてないですよね?」
裏へ回ると、箕面さんの目が嬉しそうに光った。
「あ、いいなここ。ちょうど裏の戸建ての駐車場間口が広いから日が射すんですね。幅も十分あるし南西の日差しでとても暖かそうだ。夏は適度に日陰もできて人目も気にしなくていいし」
中へ誘い、コーヒーを出すべきか迷っていると、次の約束の時間が迫っているといって和かに去っていった。
「え、ほんと!? イチさん来たの!」
いつのまにか下の名前で呼んでいる。誰にでも懐く犬みたいで、いつか誰かに連れ去られるんじゃないかと本当に心配になるけれど、「あの人なら平気だろ?」とセジは嬉しそうだった。
「もしやるならおれ手伝うよ! 空も埋める?」
「それはまだ考えてない。ずっとここに住むかわからないし……」
この家へ越したとき、私はいずれ訪れる空の供養の際には遺灰を敷地のどこかに埋めるつもりでいた。けれどいざその日を迎えてみるとできなかった。私が去った後、ここはどうなるのか。売却されて誰かが住むにしたって家屋はいずれ壊される。コインパークや賃貸マンションが建つかもしれない。ショベルカーの三角バケットが、土を瓦礫、コンクリートを敢えなく掘り起こす未来が見える。
荼毘に付されるとき、私を弔う人はいるのだろうか。家庭や親族を持ち、日々生活している友人である朋たちに私の亡骸まで托すのは無理がある。縁もゆかりもない役所の人? 自身で生前整理をして手配しておくのが一番なのかもしれない。燃やして、粉にして、海に撒いたり土に埋める。可能な風葬の種類や申し込みの方法をずっと調べようと思っているのに、気後れがして手付かずのままだ。
「完全な自然に戻すにはどうしたらいいと思う?」
「ああ、それおれもよく考えたな。土に埋めるっても、犬に掘り起こされるような場所しかないしね。海も川もきれいじゃないし」
宮の渡しの桜は美しいと思った。あの場所から見る堀川も。でもあそこに流したとして、この気持ちが収まるとは思えなかった。
「卒業したらどうするの」
「……まだわかんねえ」
爪の間を、土で黒くした姿はセジに似合う。造園職人にならないかと箕面さんが誘ってくれるなら、本気で考えても良い気がした。
「あ、しまった! わかんねえって言っちゃった。『わからない』は顕花サンの先輩特許だったのに!」
「突然なにかと思った……それをいうなら専売特許だよ」
「日本語むずっ! あーあ、生きんのめんどくせえなあ」
珍しく、セジが本気のわからないを口にして、その日は過ぎた。
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