3 セルキオ川の小舟
数日後、オーガスタを再度植替えたとセジからメールがあった。
『今度は大丈夫みたい! 絶対復活させる!』
元々状態の悪い植物を救うのは容易じゃない。セジは頑張っていたけれど、私も小人パキラを最後に処分品の鉢を買うのをやめていたし、もうダメになっても仕方がないと思っていた。今手元にある物に手をかけてあげなきゃと感じていたから。
その後、セジはしばらく忙しいと言って、連絡が減った。進級のための補習を受けていて、ブロンコのシフトは当面入らないともメールに書かれていた。学費の工面がついたということだろう。
ひとりの日常が戻る。コーヒーを淹れ、植物を日光浴させ、ピリカを往復する。砂時計は浴室に置き、色つきの砂が落ちるのを眺めながら湯船に浸かった。落ち切るまで湯に浸かるとまだ少しふらついたけれど気分は良く、残っていたつばめのシールを久しぶりに貼った。鏡を見ると歯茎の腫れがいつの間にか消えていた。治療をやり直さなくてよかった。つばめの上からハンドクリームを塗り、残りを脚にも塗る。リンパ浮腫はケアが大切なのを知っているのに、まったくと言っていいほど手入れをしてこなかった。リハビリ師が教えてくれたマッサージを再開するのもいいなと思った。
セジに抱きすくめられた感傷は、確かに私を癒したけれど、これ以上望んではいけないと強く感じてもいた。なによりセジはまだ十代だったし、来月から三年目になる専門学校もバイトばかりでちゃんと卒業できるかどうかわからなかったけれど、それでもこれからちゃんと年相応の女の子と恋愛して暮らしていくはずだ。
相手は友梨奈かもしれないし、違うかもしれない。いずれにせよ、そう遠くない未来、私たちは自然に離れていき、こんな関わりがあったことさえそのうち忘れてしまう。そう思うとなぜか私の気持ちは凪になり、手首のつばめが愛しくて堪らなくなった。
引き出しの整理をしていると、手術のときに看護師に渡された説明書きが出てきた。性生活について書かれた三枚の資料だ。柴田先生から直接その話が出たことはないけれど、婦人科の範疇として避けては通れない話題だし、患者側から質問もしづらいだろうから、FAQ方式でまとめられたそのプリントは親切な存在で、看護師さんたちが手作りしたとひと目でわかる温かいテキストだった。でも当時、私はこれを碌に読まなかった。もう二度と私には関係のない話だと思っていたからで、今でもそれは変わらない。いくら貴重な資料でも、見ないのなら残していても仕方がない。捨ててしまおうか――そう思い、頁を開く。項目は三つ。一つ目は、退院後の日常生活について。内容は一般的なことで完全な前置き。食事や、傷の管理について、お風呂や外出のこと――それらが列挙されていた。二つ目に現れた「今後の性生活について」に、私は目を落とす。
『手術によるおなかの傷は退院時には随分きれいになっています。卵巣や子宮を摘出しても、膣は残っており柔軟性もあります。性交によって破れたり出血したりすることはなく、性生活に殆ど支障はありません。しかし、性生活には精神的な要素が大きく影響します。手術後に引け目や恐怖感を覚えたり、消極的になったり、満足度が低下したりすることがあります。性交の際、最も感じる部分は子宮や卵巣ではなく、膣の下三分の一とクリトリスにあるといわれています。精神的な面で満足度が損なわれている場合は、パートナーと話し合い、今後の性生活を充実させていってください』
支障がないという言葉が絵空事に思えて、私を冷静にさせた。
本当にそうなのだろうか。膣は伸縮性を取り戻す? 半分切られて短くなり、放射線があたって劣化したゴムホースのようになっていたとしても? 中労病院の若い女性主治医は、放射線治療をすると「内臓がぼろぼろになるから」と何度も繰り返していた。
初めて自慰をしたのは中学生のときだ。友達に貰った猫の肉球の形をした肩叩きバイブレーターを足の間に当てたのが最初だ。もちろんただの興味本位。摩擦で痒くなるだけで何とも思わなかった。
多くの文学作品や絵画に、オーガズムを暗喩した作品が存在すると知ったのは記事を書く仕事をするようになってからだ。性的描写のあまりの多さに、面映さよりも驚きが勝るほどだった。
過緊張からの解放。快楽の頂点。それがオーガズム。愛による死、とも。濁流の決壊。放流。穿った見方をすれば絵画や神話、文学には、愛憎や肉愛が必ずといっていいほどどこかに含まれる。
セルキオ川は曲がりくねりつ進む 大理石の両岸をかき分け
リパフラッタにて、恐ろしい深淵を貫いて
恋人たちが愛する死を死んだ波は進む
求めるものの中に生きながら
この痙攣が未だ過ぎ去らぬかのように
ぐらつく山々はしがみつくが、澄んだ流れは熱狂に満ちて
平野へと自らを注ぎ込む……
会社に属していた頃、仕事や人間関係の緊張から、私は達しないと眠りにつくことができなかった。いけば眠れる――それは最も体に負担のない安眠剤のようなものだったけれど、病がわかって以降、石鹸で洗う以外には手で触れることもなくなった。行き止まりの穴が残ってはいる。けれど、手術後に指を入れてみたこともないし、昔は生理の終わりがけによく使った洗浄用のスポイトも捨てた。もう誰かと抱き合うことはない。それを残念だとは思わないけれど、頭を空っぽにして緊張をほぐす手段を失ったことは残念だった。
退院後、膀胱がんを克服した男性キャスターが著名人と対談する動画を見た。手術によって勃起機能を失ったが性欲は残っており、なんとかして快感を取り戻せないかと懸命に試したそうだ。決して勃つことはないが執拗に刺激を与え続けると、だらりと射精し、さらに快楽もあったと話していた。彼の主治医によれば、射精神経は残っているので理論上は可能だが、これまで聞いたことはなかったし、可能だとは考えていなかったと真摯に答えてくれたという。
これを知り救われた気がした。浮腫んで醜い恥骨の周辺を見ないようにしてそっとバイブレーターを当てると、覚えのある感覚が蜃気楼のように見えた。しかしすぐに引き攣るように痛み、耐えきれずに手を離す。拒否するように私の中が痙攣する。痛みで狼狽し涙が滲んだ。小さな悲鳴が駐車場だらけの住宅地にあえなく消えた。
男性キャスターのような強固な意志は私にない。生殖機能を失ったと同時に乾きを埋める手段も失ったのだと思い知った夜だった。
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