2 親アレルギー
荷物を受け取るため、団地に担当者が来たのは夕方だった。引き渡しを済ませ、軽く浴室の掃除をする。洗い場には公園から運んだ土がポリ袋に入ったまま置かれていたけれど中までは確認できなかった。何時に帰ってくるんだろう。食べて帰ってくるかもしれないけれど、なにか作っておこうか。迷った挙句、薬局でサンドイッチとおにぎりとお茶を買った。レジ横に炭酸入浴剤の個包装があったので、それも一個かごに入れた。緑のバブル、森林浴の香り。冷蔵庫の中は沢山詰まっていて少し臭った。次の機会があれば拭こう。
時計工場のチャイム音が聴こえる。部屋を出て施錠しようとしていると、背後から足音が響いた。振り返ると、友梨奈がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。息遣い荒く、顔を上気させている。
私が手に鍵を持っていることに気づくと眉根を寄せた。
「セジ、いますか?」
「バイトで帰りが遅いからって、荷物を頼まれて……」
「どういう意味です? あたし今、ブロンコの帰りなんですけど」
「え? ……その、お店に戻ってるとばかり……違うの?」
「あたしが訊いてるんですけど」
子連れの住人らしき人たちが廊下で立ち話を始めるのを見て、友梨奈が声を潜め壁際に寄った。結局、玄関の中に入り扉を閉める。
「セジは、嘘だけはつかないって思ってたのに」
ここへきた理由を訊ねると、友梨奈はスマホの画面を見せた。「『おとんから手紙来た』って、これが届いて。いつもこんなの送ってこないのに。だからまた親に会いに行ったんじゃないかって」
「これだけ? まだ決まったわけじゃ……。それにバイトは本当かもしれないし。他にもたくさんやってると言ってたから……」
早合点を案じる私の様子を感じ取ったのか、友梨奈は「はい……」と答えたあと話を変えた。「荷物ってなんですか?」
「あ、内職の材料、お風呂場にずっと置いてあったみたいで」
「まだそんなの溜め込んでたんだ」
「帰り待つ? 鍵どうしようか……」勝手に渡すのは躊躇われた。
「何時になるとか、そんなの聞いてないですよね。すみません」
「ううん……。それより、止めようと思ってきたの?」
子供を捨てておきながら連絡をしてくる親は少なくない。でもその毒を甘んじて受け、自ら傷つきに行くようなセジの態度を知ったときは私も動揺を隠せなかった。だから友梨奈の気持ちはわかる。
「あいつ、ねじ曲がってるでしょ? 親のこと大嫌いだって言ってるのに、死んでくんねえかなっていつも言ってんのに、へらへら会いに行くし、自分の名前憎んでるのにセジって呼ばせるし」
「名前が、嫌い……?」
「そうですよ、気づいてなかったんですね。彼ぽろぽろ出しますよ。嫌いで嫌いで仕方ないっていう素振り。青に纏わるもの全部」
「でも、じゃあどうして……」
「青磁っていう親の名前と、親の呪いをあいつは勝手に重ね合わせてその身で噛み締めさせてるんですよ。味のしないガムをいつまでも味わうみたいな回りくどいやり方で。えづきながら、呪われてる自分をわざわざ確認作業するみたいにして」
「そんな様子全然、だって青磁の香炉もかわいがって……それに――」友梨奈だって、彼に水色のストールをあげていた。香炉と同じ色だと、渡すときに伝えていたのを覚えている。
私が壁に目をやると、友梨奈は一瞬目を開き、悲し気に俯いた。
「それは……セジの親アレルギーをちょっとずつ直したくて……」
「アレルギーって……、免疫療法みたいに慣れさせようってこと」
彼女は下を向いたまま肯くと、拳をぐっと握った。「出会った頃は青い色見るだけで吐いてました。あれはアレルギーでしょ」
少しずつ慣らせばマシになる――免疫療法の考え方を人間関係に持ち込むのは違う気がした。アレルゲンの花粉や小麦から逃げることは難しくても、覚悟すれば人からならきっと離れられる。壁かけされたストールは大事な物だと感じるし、香炉にしたって憎しみの対象に重ねているとは思えない。でも私は昔の彼を知らない。青色を見るだけで吐いていたというなら、それは事実なのだろう。
「そういうのは、トラウマっていうんじゃないかな……」
食べ物や花粉とは話が違う。精神が無視するほど馴染ませるというやり方は「克服」じゃなくて洗脳や支配によるものだ。――素人が下手に手を出せる問題じゃない。私がそう付け足すと、友梨奈は、「がっかりした」と声を震わせた。
「トラウマなら逃げるしかないじゃん。アレルギーなら治るじゃん。頑張れば治るじゃん。うちのお兄、小麦アレルギーだったんだ。呼吸おかしくなるくらいひどかったし、五年くらいかかったけど治ったし! あいつのは、ただの親アレルギーだよ!」
私を睨む目元が潤み、乱暴な物言いの中にもどかしさが溢れた。
「親アレルギーが治ったら親が平気になるんでしょ。平気になっちゃだめじゃないの? 二度と関わらせないのが正解じゃないの?」
親なんて血が繋がっただけのただの他人。親元で暮らしてきた友梨奈にはきっとわからない。
「とめてもあいつ、会いに行く。そんで後で吐いてる。どうすればいいの。教えてよ!」と涙を散らせた。
助けたいという願いが叶わない私たちにできることはあるのだろうか。そのやり方さえ分からないままだ。座り込んで帰ろうとしないので、私も仕方なく隣に腰を下ろし日が暮れるに任せた。手にしたカバンを胸に抱き、彼女は殆ど黙っていたがたまに質問をした。
「駅の方にあった団地の跡地が大学になったの知ってますか?」
「ずっと無人で放置されてた棟だよね……」
数年前にようやく取り壊されて、大学の新キャンパスが建った。その影響で駅を利用する学生が増えて、人の流れが変わった。
「そうです。あそこの売店にあるパン屋さん、夕方までしか開いてないけど、くるみロールが美味しいですよ……」
特に意味のある会話ではなかったけれど、無言を貫かないことが彼女なりの誠意なのだと受け止めて返事をする。しばらくすると彼女は姿勢を崩して、膝を抱えた。「兄に……いつも言われるんです。だからおまえはダメなんだって。ごめんなさい」
「……お兄さんいるんだね」
「はい。顕花さんは兄妹とかは?」
「私は親とは離れてるから。妹がいたけど今は連絡とってないよ」
「そう、なんですね……」
友梨奈は目を合わせなかったけれど、訊ねたことを謝りはしなかった。理屈では説明できないけれど、その後、沈黙が心地好さを取り戻した。どうして彼女がセジに惹かれるのかわかった気がした。
そのうちに、摺り足の音が聞こえ、廊下から郵便受けをまさぐる気配があり彼の帰宅がわかった。友梨奈が鍵を開けに行くと、セジは大袈裟に驚いて、いつもの靴を脱いで入ってきた。
「びっくり。なにこれサプライズ? 今日なんか記念日だった?」
声は柔らかかったけれど、表情は硬かった。薬局で買ってきたらしい荷物を畳の上の置くと、あー疲れたといって胡坐で座る。
「あんなメールきたら来るよ……」
「え、おとんの話? あれは開けてもねえよ。今日はバイト」
「……大須の古着屋?」
「ちがーう、これこれ」
セジがオレンジ色の髪を摘んで振ると、その途端、友梨奈がかあっと顔を赤らめ、胸に抱いていたカバンをセジに投げつけた。
カバンから雑誌が零れ落ち、表紙が露わになる。いわゆるゲイ雑誌だ。見覚えのある文様を素肌に乗せた少年がそこに立っていた。
「すげえ、爆弾。友梨奈やるう……」セジが口笛を鳴らす。
「なんでこんな仕事っ……」
「こんな仕事? まあいいたいことわかるけど、おれ金ほしいし」
「しかもRIOってなに!?︎ 理央は大事な名前だから、家族にしか呼ばせないんだっていってたじゃん! なにが、『じっちゃとばっちゃだけが呼んでくれたおれの幼名』よ……」
「そうそう。よく覚えてんね? でもそれは本当だよ?」言いながら雑誌を拾い、カバンに入れて友梨奈に手渡した。
「ごめん、友梨奈ちゃん、今日はもうこれ持って帰ろうね?」
「はあ!? なんであたしだけっ」
「んー? だって勝手に来たのは友梨奈ちゃんだよ。はいはい帰って帰って、これ持ってさようならばいばーい」
セジは半ば強引に友梨奈を外へ連れ出し、鍵をかけた。友梨奈はしばらくノブを触って音を立てたが、それ以上騒ぐことはなかった。扉越しに友梨奈が立ち去るのを見届けてからセジが部屋に戻る。私はどうすればいいのかわからず、ずっと黙っていた。
「ごめんね、付き合っていてくれたんだろ? あいつ、ああ見えて熱いからさ。顕花サンもちょっと顔色悪い」私の頬を摘んで持ち上げる。「ほら、また嚙み締めてる。おうち帰ってお風呂入ったらさ、つばめ貼っときなよ。留守番ありがとね、助かった」
さてと、と話を切り上げ、薬局の袋を持って台所へ向かおうとするセジの背中に向かって私は言った。「――さっきの本当なの?」確認してなんの意味があるのだろう。そこに否定はない。でも訊かずにいられなかった。セジは自嘲的に笑った。
「おれ、そっち系撮ると見映え良いらしくってさ。法令線も消してくれるし。墨は消されねえけど、あ、むしろ歓迎されてっカモ?」
ぞわっと嫌な気分に襲われた。セジの躰の文様をすべて見たわけじゃないけれど、その皮膚を、肢体を、脳裡に描いてしまう。
「あれ? 軽蔑してる?」
「ごめん、……違うよ」言ってから、咄嗟に謝った自分を呪った。そうだ違うはずだ。これは軽蔑なんかじゃない。でもだとしたらこの気持ち悪さはなんだろう。私は何がいやなの? どうしてこんなに嫌な気配がまとわりつくのだろう。これは憐み? 同情?
「いいよん、そういう目つきは慣れてるから。実際撮影用の絡みもあるし。ビデオはやってないけどね。でも髪染めろとか、ちょっと唇切って血を出せとかさ、言うことハイハイ聞いてると三万くらいもらえんだよ。でけえだろ? 化粧もされっから意外にバレねえし。ま、おれの墨知ってるやつには一発でバレるんだけどさ。それで古いダチに一回迫られたことあったわ。マジキショイ」
「やめてよ」
セジは話を止めなかった。「ホルマリンプールに検体沈めるバイトとかもやったことあるけど、あれ飯食えなくなるんだもん。これ金いっぱいくれるし、めっちゃラッキーって思ってたんだけどな」
「ねえ、やめてってば」
「なんでそんな顔すんの? ねえ、その顔ってどういう意味なの」
彼に見つめられ、背筋が硬直する思いだった。「やめなよ」
「やめてほしい?」
「……言える立場じゃないけど……、やめた方がいい、と思う」
真剣な視線から目を逸らすように彼の鳩尾を見つめて言うと、セジはあっけなく「わかった」と応えた。
「そっかあ。でも困ったなあ、またなんか探さなきゃ」
驚いて私は顔をあげた。「いいの?」
「ま、正直ちょっと危ない目にもあったから、もういっかな」
エサを求めて大通りを必死に走り抜けようとする仔猫の側を、容赦なく行き過ぎる車の群れが頭に浮かんだ。高速の流れの中、臆せずに停まる一台の車は、猫を拾い上げようとする。その人は毒入りの餌をくれるのだろうか。「危ない目って?」
「聞かない方がいいと思うよ。今日は帰りな。遅くまでごめんね」
どうしてこの子は、こんなに大人びた表情ができるのだろう。その理由は確かに存在する。彼と私は似ているようで似ていない。
私は食事に困ったことはなかったし、学校へも行った。腐った水と罵られ、存在を否定され、切り離された彼の境遇は、理解しようとしてもしきれない。想像だけで、戦争の悲惨さを体験することができないのと同じに。胸に錆びたスコップが突き刺され、がりがりと抉り出されるように痛い。でも私はその場所に立ったことさえない。なのに、苦しいと感じてしまう私自身の図々しさに腹が立つ。
「なんで泣くの?」優しい声。すべてをとっくに諦めている声だ。
「私は、諦めてない。だから……」私は泣いていた。
セジは諦めている、だからこんな顔をするんだ。それが悔しくて堪らなかった。私自身がもがいて苦しんでいることすら欺瞞に思えた。私はまだ助かろうとしている。そんな価値などないくせに。
「そだね、わかるよ。でもだからずっと苦しかったんでしょ?」
そういって、セジは私の肩にそっと頭を置いた。
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