第七章
1 衣擦れの愛
文机の引きだしを開け、ノートを一番下に隠すように大切にしまう。小さな引き出しだけれどきちんと整頓されていた。
「きれいだね。私が昔使ってた学習机の引き出しに似てる」と私が笑うと、「何年前?」と言ってセジがふざけた。
「顕花サンちの引き出しん中も、パズルみたいに揃ってたもんね」
「……いつ見たの?」衒いのない物言いが憎めなかった。
「ま、冷蔵庫にはラップ入ってたけど」
引き出しの整理をするのが昔から好きだった。勉強机からペン入れトレイを取り出しては、ペンや定規、クリップをばらばらと広げ、中身を一度空にしてから、ティッシュで埃を拭き、詰め直す。
用意するのはいろんな箱。粗品のタオルが入っていた化粧箱やクッキー缶。素材も形も大きさも違う容器を組み合わせてパズルをした。そこは私が思い通りにできる小さな宇宙。空き箱を縦横無尽に並べ直して奥行きと幅がぴったり合ったとき堪らなく嬉しかった。
「これ、昔じっちゃんがお守りって、彫ってくれたやつ」
セジが引き出しの奥から、小さな木彫りのコロポックル人形をひとつ取り出すと、香炉の中にそっと入れた。
「これって、胸の?」
「そう。彫り師にはこんなかわいいの彫るの? 後悔しない? って最初止められたけどね」シャツの下から腕を差し込み、胸元に手を当てる。腹部が露わになって、彼の素肌が脳裡に蘇った。
「一週間……、お風呂とか、どうしてたの?」
「ああ、しばらく部屋にいなかったからさ。店長んとこ泊ってた」
「野木さん……? そうだったんだ」
「あれ? 紹介したっけ、よく覚えてんね、さっすが頭良(よ)っ。顕花サンちから帰る途中で、おれ職質されちゃってさ」
「え、どうして!?」
「国道沿いの公園にシャベル置きっぱだったの思い出したんだよ。しまった、やべえっ、早く返さないと管理人のおっちゃんが叱られるって。んで公園寄って、担いで歩いてたらパトカー停まった」
「あんな時間に……」
「まあね。だから友達の庭造るの手伝った帰りですとか言ってもスルーで交番直行。保護司の名刺出したら、うだうだ電話で喋ってたけど、とりあえず無罪放免? 迎えを寄越せってうるせえから野木サン呼んで。おれ髪べたべただったし、なにがあった、って聞くから隣の奴と揉めたっていったら『しばらくうちに泊まれ』って」
「それで、バイト休んでたの?」
「え? ああ、まあそんな感じ? 次の日保護司のおっちゃんと隣に頭下げに行ったり、逃げたっていう猫探したりでバタバタしてたし。7日に団地戻ってきたんだけど、週末はおれバイトだったからさ、オーちゃんに水と土あげて、帰ってきたら虫湧いてた……」
友梨奈に呼び出された次の日だ。あの後ふたりは話をしたのだろうかと思うと息が詰まるけれど、謝罪したと知りほっとする。
「ちゃんと話できたんだね……とりあえずよかった」
「ごめんね。隣のやつ引っ越すって言ってたし、もう大丈夫だよ」
セジは畳の上に寝そべったままカーテンに近づき、裾をつまんでパタパタとやりながら立ち上がり、嬉しそうに顔をうずめた。
「何年も洗ってないよ」呟くと、セジは首を振った。
「これってもしかして、顕花サンのお古? めっちゃいい匂いする。――ダチにパクられねえようにしないと……」
カーテンをマントのように身体に巻き付け、左右に揺らすとレールがぎしぎしと音を立てた。ベランダのオーガスタをガラス越しに見つめると、思い出したように口を開く。
「虫、あの人に聞こうぜ! ほらなんだっけ、東友でいろいろ教えてくれた造園職人さん、顕花サン、名刺もらってたでしょ?」
「でもそんなことで……」
「なんで? 名刺って、そういうことのためにくれるもんなんじゃないの? 顕花サンがいやなら、おれが言おっか?」
「いやってわけじゃ、ないけど……」
「うん? はっきりしねえな。なんでかこういうときは遠慮しいなんだね。そういうの、人見知りっていうの?」
写真を撮って箕面さんに送ると「トビムシです」と返事が来た。
『駆除を希望される方が多いですが実は益虫なんです。土の環境は良くなります。梅雨時のじめじめした頃に発生することが多いんだけど、室内だとあんまり関係ないですからね』
「そうなんですか。対策を調べていると、土を替えろっていう情報ばかりで……。鉢は替えたばかりだし、あまり頻繁には……」
『あ、それなんですが、もしかするとそれ、オーガスタじゃないかもしれません。葉の状態がストレチアっぽいんですよね。接写なのでわかりづらいですが。環境が良ければ蕾がつくかもしれないので、そしたらはっきりするんだけどな。いずれにせよ、お話聞く限り結構大きくなってるみたいなので、庭があれば地植えが楽だと思います。広々とさせてやれば、虫はゼロにはならないけど共存してくれますよ。でもあまり虫が多いようなら、薬を使うか、やはり総替えかなあ。実際に見てないので確かなことは申し上げられませんが、またいつでもご相談ください。この間の彼からでもいいし』
「え、あ、はい……」暗に示され、思わず怯む。
『彼、植木好きそうですよね。じゃ、また!』
通話を切ると、隣で聞いていたセジが目を丸くしていた。
「オーちゃん、もしかして極楽なんとかってやつなの?」
「そうみたい。蕾がつけばわかるらしいけど……」
「へえ! 花が咲くまでわかんないとか、宝くじみてえ! どっちでも当たりだけど!」と目を輝かせた。
「顕花サンちに庭作ろうぜ! それで全部解決だろ!?」
「それは……でも、周り全部コンクリートだよ」
「人の手で作れるもんは、人の手で壊せるだろ? 庭できたら、ソラの骨だって埋めれるじゃん。おれも死んだらそこ入る」
何気に言ったであろう彼のこの言葉は、なかなか取り出せない重りを伴って私の心に沈んだ。
ひとり帰路につく。なんとなくあの公園の前を通るのが怖くて、回り道をした。裏路地は走っている車の数より駐車場の方が多いくらいだ。バス停前にある葬儀会館前を通りすぎると、玄関脇に並んだ常滑焼の壺に入ったビオトープの中でメダカが泳いでいて目を惹きつけた。先週降った雨のせいか水位が高く、水面からちょろちょろと水が溢れ出ている。十分管理されているようではあるけれど、雨天でも外に置かれたままだから不安になる。零れた水が歩道の波型ブロックを湿らせ、それを踏んだ私は昔の記憶を思い出した。
水道の蛇口から、極少量の水を垂れるように流すとメーターが狂い水道代が安くなると父はずっと信じていた。私はよくお風呂の水を溢れさせた。実家にあった古いタイル張りのお風呂は、水を溜めてからガス炊きするタイプで、『水を出すときは限りなく細く』という言いつけに従えば、当然溜まるまでに何時間も要したし、音もしないから気づくのにも遅れた。浴槽の水張りは、丸い循環口が埋まる深さまで。幼い私の体でさえ首まで浸かるには不十分で、浅瀬のプールくらいしかなかった。私は風呂桶を浴槽の中に逆さに沈め、上がる水位の中でその上に座ったり、空気を漏れさせたりして楽しんだ。桶と私が共有した秘密の遊びはたくさんあった。
蛇口を止めることを忘れて水を溢れさせると、数日間お風呂は抜かれた。それでも、失敗当日のお風呂は特別だった。たっぷりと湯を湛えた湯船に体を沈めれば、湯は行き場を失い溢れだす。その一度しかない瞬間が堪らなく贅沢で、嬉しくて、気持ち良かった。
ビオトープのめだかは悠々と泳いでいる。そこが狭い世界だなんて気づいていないだろう。世界は広くなればなるほど探すことも整理することも難しくなる。小さな世界の方が喜びは見つけやすい。
「ねえ、ちょっといい?」自宅玄関の鍵を開け、中へ入ろうとすると後ろから声がした。振り返ると、三十代くらいの男が道端に立っている。人の気配には敏感なはずなのにまったく気づいてなかった。
「悪いけど、あとつけさせてもらったよ。俺も自分のこと守れるくらいには保険持っときたいからね。あんたあいつのお姉さんかなにか? 親、じゃないよね。名前も違うみたいだし、加藤さん」
郵便受けを確認して、わざとらしく名前を呼ぶ。私はポケットの中のスマホに思わず手を伸ばしかけた。返事ができずに固まっていると、「覚えてないか」と男が続きを言った。
「まあ仕方ないね、あの状況じゃ。おれ、団地の隣の部屋の者だけど、猫がどうなったか気になって。ちょっと教えてくださいよ」
あいつ、というのがセジのことなのは間違いないけど、この人が隣人? 記憶にあるのは床に倒れ込んで叫んでいた男の顔だけだ。別人が名乗りを上げる理由は浮かばないけど、同一人物だという確証がなかった。そもそもどうして私をつけたのか。
「……その節はご迷惑をおかけしました。謝罪に伺ったときいてますが。まだなにかありましたか」
「あら常識人なんだね、あいつと違って。中で話そうよ」
「それは……。すみません。長くなるなら話しながらで」玄関の鍵をかけ直し、敷地から出て歩いてきた方角と反対へ向かう。
「で、猫のこと聞いてる?」
「逃げてしまったという話は聞きました」
「あいつちょっとおかしいんじゃないの。大丈夫? おねえさん」
話が見えない。早く帰ってほしいけれど、気分を害すると逆上されるのではないかという怖さが付きまとった。
「私は血縁ではないですし……詳しいことは、ごめんなさい何も」
「そうなんだ、じゃあ恋人? やるねえ。それより猫見た?」
「見てません」
「あいつやばいよ、付き合わない方がいいよ」
「どういう意味ですか?」
「やっぱり気になる? ま、迷惑そうだし、家の場所はわかったから、今日は帰るわ。もう引っ越すけどまだ荷物あるしまた会うかもね。じゃ」男は名乗らず、にやっと笑って去っていった。
家に入ると、セジからメールが届いた。慌てて内容を確認する。
『土曜の午後に内職の花、取りに来るって連絡来たんだけど、おれバイトでいないんだ。留守番頼める? 立ち会うだけでいいから。カギは、ポストの裏に貼っとくからあけて入って』
さっき言えばよかったのに、と気が抜けたが、今決まったのかもしれない。電話で猫のことを訊ねる。男が来たことは伏せておいた。
『なんか病気だったんだって。薬飲ませるときに鳴いてたって。ホントかどうか怪しいけど、逃げちゃったのはホントだから、おれ必死に探したんだ。黒の仔猫見つけたけど、あいつが返せって――」
「返せ? ああ、渡したくなかったんだね……」
『でも見せたら「そいつ違う」っていわれた。また探さないと』
「黒猫違い? 写真とかだけじゃ間違えても仕方ないよ……」
『次見つけたらおれが貰う。あいつ、もう諦めたって言ってたし』
「団地は猫禁止でしょ?」
セジはそれには答えず黙っていた。会話を続ければ、彼がなんと言うか想像がついたので、それ以上は私も訊ねなかった。
危なっかしいところはあるけどセジに悪意は感じられない。隣の男は何を意味深にしていたんだろう。むしろ怪しいのはあっちだ。気にしないようにしようと思っても、嫌な気持ちが纏わりつく。
着替えようとすると珍しく汗ばんでいた。セジの熱い体温にあてられていたことを思いだし胸が縮む。砂時計を持って浴室に入り、出窓に置く。湯船の中で目を瞑り背中に触れた手の感覚を思い起こす。私の肌も手入れしていなくてカサついているけど、彼の手荒れは食器洗いのせいだ。クリームを塗る程度では効かない気がした。
十五分計が終わるまで待って浴槽からあがる。ふと見ると、浴槽の縁にヘアピンの錆跡がついていた。毎日殆ど家にいるのに気づいていなかった。どれだけ見えていないんだろうかと情けなくなる。
少しのぼせてしまった。脱衣所を素通りしてリビングへ移動し、体を拭きながらソファーに座る。同じタオルで砂時計についた水滴も拭いても、毛羽落ちした繊維がガラスに張り付いて残ってしまう。マイクロファイバーの布巾ならガラスや鏡は驚くほどきれいになるけれど、あの細かい肌理で擦ると指先までやられる。適当なところで諦め、かけ布を手繰り寄せてソファーに横たわった。閑けさが訪れると、それまで聞こえていなかった自然たちの音が聞こえてくる。
砂時計を包んでいた絹の枕カバーはどうしたのと訊ねると、
「あ、枕カバー? 昔友梨奈ちゃんがシルクはつるつるして嫌いだからってくれたんだけど、おれ朝起きたら枕どっかいってっし、意味ないんだよね。肌にいいらしいからさ。使ってよ」
と、セジは悪びれもなく答えた。友梨奈がいくら素っ気なく装っても、それは彼へのプレゼントだったはずだ。今ではその心理が随分と理解できる。手放したと知れば傷つく……。
「私に渡したことは伝えない方がいいと思う」絹の枕カバーはきっと使わないけれど、必要ないとも受け取れないとも言えなかった。
「ん、そう? わあった」セジは生返事で応えた。
絹の寝具はモノクロ映画のベッドシーンに出てくるイメージで昔はとても憧れた。サテンが〝偽物〟で、シルクが〝本物〟だと思っていたから。「冷えとりくつ下」が流行ったとき、あれも絹だった。絹と綿を交互に重ね履きする。足を温めると全身が整うといって朋たちもやっていた。一足分の値段で、安いカーテンが一組買えた。
絹の原料は、蚕が羽化するために作る繭。長い時間をかけて丸々と太り、ようやく白い繭を着込んだ蚕は、生きたまま釜で茹でられる。絹という繊細に輝く糸の原料を仇に遺して煮え死ぬ。キッザニアに製糸工場が仮にあったとして、蚕を殺す工業ですとは伝えないだろう。死にゆく蛾のことを、大人は子供たちにはっきりとは教えない。ぼんやりとしたヴェールで包んでいる。
八並伸之介君という男の子が、五歳の頃から野蚕を死なせないで糸をとる方法がないかをずっと考え続け、小学四年生でついにそれを見つけた。ウスタビガという野蚕の繭の上部に穴があることを見つけた彼は、幼虫を取り出した後、薬品水で繭を煮て、二メートルの糸をとることに成功したらしい。幼虫も無事、成虫に育ったという。『野蚕を死なせずに糸をとる方法』は、全国コンテストで文部科学大臣賞をもらったと、二月十九日付けの新聞に載っていた。
けれど、野蚕と蚕は別のものだ。蚕は、養殖のために作り上げられたそもそもが奇形。生き存らえても飛ぶことは叶わない生物なのだと、なにかで読んだ。野蚕のウスタビガを助ける方法がわかっても、養殖の蚕の運命は、依然として回り続ける歯車の中にある。
私たちは一体なにをしているんだろう。
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