3 イランカラプテのノート
セジがこちらに手を伸ばし、私の手首を取って切ない顔をした。
「なんでつばめ外しちゃったの? やっぱおれのせい? 謝っても許してもらえるなんて思ってないけど、あんときおれ……」
さっきの謝罪はオーガスタのことだとばかり思っていた……。
「仕方ないよ……。あんなの見たら、誰だって――」
「違うって、そうじゃない。顕花サンはきれいだよ」
「いいよ、そんなこといわなくても」
「もっかい見る。もう大丈夫だから」
「なに言って……、そういう問題じゃないでしょ」
「見たい」
「また同じこと繰り返す気?」
「今度は逃げない」
「やだよ、私が見たくない。お風呂場の鏡だってもうずっと……」
「ならちょうどいいじゃん。代わりにおれが見る」
「ねえ、話通じてる? 人の体を何だと思ってるの?」
「おれバカだからさあ」
私たちは絶対に重ならない。離れているとそう思うのに、傍にいるとどうしようもなく気持ちが緩んでしまう。どんな緊迫した状況でも、なぜか彼の冗談なら受けいれてしまう。「またそれ?」
「あ、笑った?」
「笑ってない」
「見とこうよ。お得だよ。おれっちの裸」
「求めてない」
「すんげ会話センスあるう。あれ、こんなやり取り前もしたっけ」
「やっぱりバカなの?」
「ほらあ」どちらともなく笑いが漏れる。
無作法な相づちに、くだらないやり取り。こんな関係がずっと続けばどんなに楽しいだろう。とても不思議な時間だった。
「ねえ、顕花サン、あんとき風呂で見たおれの墨、覚えてる?」
「全然覚えてないよ……。それどころじゃなかった」
この世の終わりかと思うほど動揺してた気がするのに、随分と色褪せた記憶に思えた。ふたりの時空が歪んでいるかと疑うほどに。
そんなことを考えていると、セジが唐突に脱ぎ始めた。
「お詫び。おれが代わりに見せる。そんでチャラね」
全裸になると毛布の上に横たわり、身体を固くした。
「顕花サンの好きなようにしてよ、なんでもいいよ」目を閉じる。
蟻の脚が這った睫毛、首筋のつばめ。いつも気にしている法令線、瘡蓋だらけの脚……。そのどれもが愛しく感じた。触れなくても熱が立ち昇ってくるほど、セジの躰は熱かった。
「身体、熱いよ。やっぱり熱あるんじゃない?」
「平気だよ、逆だよ、顕花サンが冷たい。寒いんでしょ」
私の手首を掴むとその内側に唇を這わして、そのまま手繰り寄せる。私は彼の隣に伏せた。セジは私の肩におでこをくっつけるようにして、俯いたまま顔を近づけて言った。「ねえ、上、向いて?」
「このまま……がいい……」
黙ったままセジが肯いて、私の体の下に毛布を寄せた。
「ぎゅってしていい? それ以上はなんもしない」
衣擦れの音が忙しかった。布越しだとしても、誰かに抱きすくめられる感覚はとても懐かしく、自然と感情が溢れてくる。
「あったかい……」
セジの心音は整っていた。命の音がきっちり高鳴っている。熱い波動が私に空気を送り込み、こぽりと沸き立つ、そんな気持ちになった。滝つぼに沈む木の葉が水面下で美しくももがくように、私は揺らぐに任せて言葉を漏らす。懐かしい昔話のようなものを勝手に一人語りするのを、セジは一滴も零さないように聞いてくれた。
「背中、昔は白かったんだ。……手と、背中だけは褒められたんだけどいつも空を抱っこしてたから……爪で、あちこち傷だらけ……」
その言葉を合図とするように、セジは私の背中に腕をそっといれて触れた。手荒れでガサガサの手だ、全然気持ちよくはない。
毛布で隠しながら、セジが私の背中に顔をうずめる。
「傷なんてないよ、今でも真っ白だよ。めっちゃキレイだって。なに不安になっちゃってんの、オバサン」
セジは最後にほんの少しだけ茶化して、昂まりをなにか別のものでごまかすように背中から私を抱きしめた。背筋の真ん中に顔を一度うずめてから、右の肩先に唇をそっと触れさせ、それから力加減を確かめるように次第に私を掴む腕に力を籠めていった。
「おれやべえ、ごめん、もうわけがわかんなくなってきた。変なことしたらほんとごめん、ぶん殴っていいから」
ぶつぶつと反芻しながら、セジは私を抱きしめた。私は自分が抱き枕になってしまったような心緒で、毛布に顔を押し付けていた。
体重をかけないよう、セジは必死に自分の体を浮かせていたけれど、私の手首を握る腕力が異常だった。意識が向かないのか、痣ができるんじゃないかと思うほど痛かった。でも構わなかった。
私は人じゃない。ただの毛布。セジの腿で挟まれて、ひどい寝汗を吸いとるくらいの存在でいい。だから遠慮しないで痛くしてもいい。どうせもうこの体がこれ以上傷つくことなんてないんだから。
「なんかいって、声聞かせてよ、ねえ顕花サン……頼むって」
私は一言も声を漏らさなかった。セジに対する意地悪なんだって自分で気づいていたけど、それは自分に対する冒涜でもあって、体の反応を絶対に認めないという強固な嘲りでもあった。
結局、セジはひとりで達したが、私はまったくといっていいほど反応を示さなかった。当然ながらセジはひどく拗ねた。
「ありえねえ! ひでえ最低、鬼畜! あくま! このババア!」
「すごいね、よく次から次へとすらすら出てくる。それで、オバサンからついにババアに格が上がったわけだ?」
「ひどい。弄ぶってこういうことだろ。おれ初めてだったのに」
「それはまだ失われてないでしょ。だってしてないし」
「――ありえねえ……。そりゃなくない? おれ泣いちゃうよ?」
うつ伏せていたとはいえ、セジのタトゥーは私の脳に刻まれた。
「ノート、破っちゃったな……」
「一ページだけだし……。呪いの言葉なら、きっと燃えて良かったんだよ。大事なところは残ってるんだよね?」
「うん、多分。――なあ、だいぶ前に名前教えてっておれが聞いたとき、顕花サン、黒魔術にでも使うの? ってためらってたじゃん」
「あれは、冗談で……」
「うん、でもおれ、あんときに思い出したんだよ。ばっちゃんが毎晩、布団の中でいっぱい教えてくれてたなって。呪いじゃない、まじないの言葉。足寄にいるときに、わっかんねえ言葉ばっか周りが使うから、いっこいっこ覚えようっておれ頑張ってたんだ。こっちきてからもずーっと思い出しながらノート書いてた」
表情明るく、セジがノートを私に向ける。どこで区切るのか判別がつかないほど、カナ文字がぎゅっと詰まっていた。
「なんか問題出してよ。おれ、目瞑ってっから」
言われたとおりに、私は目についたものを読み上げる。
「〝イナンクルアンノー〟」
「〝幸せになろうぜ!〟 あー、あったあった。懐かしいな!」
「〝スワッアトスレ〟」
「それ、失くしものを見つけるおまじないだよ!〝失せもの、出ろ!〟夜に水を汲む時に神サマを呼ぶまじないとか、地震や荒波を鎮めるまじないとか、とにかくいっぱいあったな」
大自然の中で生活を営む民族は、伝統的に、濃密な呪術的世界に生きるという。占いをし、予言をし、おまじないをして、自らや大切な人を危険から遠ざけようと願う。
「〝ウケウェホムシュ〟」
「〝悪魔よ、去れ!〟これすげえんだぜ、口から霧吹くらしい!」
「ハリーポッターの世界だね。日常でこんなの使わないでしょ?」
「どうかな? そんなんは勝手に身に染みるもんだから、いちいち書かんでいいってばっちゃんも言ってたけど。でも、おれ、ちゃんとぜんぶ覚えておきたかったんだ」
セジは懐かしそうにそういうと、胡坐に座り直して、いつか映画のワンシーンをやったときのように、大きな手振りで話し始めた。
「『マㇰネシリアン?』セコㇿ イタカナクス、『タアン…… テウン コㇱマッ ネワアナㇷ゚、エネ エウン ワッカタ クㇱラン アコラㇰ、ワッカセヒネアフニネアヌテㇰコㇿ ライ ワ トゥㇽセ ワ、エネ アエウキマテッカ シリ エネ アニ ネ』」
アイヌ語だろう。「それも足寄の言葉?」と訊ねると、セジは黙って肯き、手振りを続けながら、その訳を交互に語った。
「『どうしたんだい?』と私が言うと、『ここのお嫁さんなのですが、水汲みに行ったあと、それを背負って家に入ると、水桶を床に置いた瞬間死んで倒れてしまって、こうして慌てているのです』」
『ネイワエㇰ ペアネヤッカ(私がどこから来た者だとしても)、ポタラアン チキ ウェンルウェアン(魔払いしていいですか)?』
『ピㇼカ ピㇼカ(構わない、やつてくれ)』
そこまで話して、セジは両腕を下ろした。「とにかく長えの。夜んなると聞かせてくれた。この死んだ女は尻に大ネズミが刺さってて、呪い師の男がそれを抜いて生き返らせんの。なんだそれって感じだろ? 楽しくてさあ、続きを聞かせろっていつもねだってた」
「最後はどうなるの?」
「それが覚えてないんだよね。おれ、板みたいのに乗って揺られてて、その時に見てた天井の記憶と、ばっちゃのくるくる鳴る喉の音はめっちゃ覚えてんだけど。でも、なんかグリム童話みてえなのが多かったかな? ネズミが酒を造って烏が死んじゃう話とか。オイナ(神謡)とかユカㇻ(叙事詩)って言ってた気がする」
伝承や神話語りのようなものだと思うが、タイトルは分からないと言った。子守唄にするには物騒だけれど怖い話は子供は好きだ。
天井の記憶、とセジが言うのを聞いてどきりとした。
「まじないっていうから、呪いの言葉なのかと思った。魔法の呪文って感じなんだね。『ピリカ』って、もしかしてあのピリカ?」
「うん。いいよ、とか、うれしい、とかなんかそんな意味。ばっちゃんの口癖だった」私の両頬を両手で包み、顔を近づける。
「ピㇼカ ピㇼカ。イランカラプテ……」
目を細めて懐かしそうに笑ったが、すぐにその手を離した。
「寝落ちそうになるとそう唄って、おでこにキスしてくれた」
きっと祝福の仕草。言葉の意味は分からなくても、そこにはセジがその手に掴んでいた愛と祝福が確かにあったとわかる。
「意味知りたい?」それを言わせるのは不粋に思えた。大切にしまっておきたい想い出の蓋を開けさせる行為のように感じられた。
「――いい、聞かなくても、多分わかる」
「そ?」セジは満足そうに笑った。流しの中で墨になった破かれたノートの切れ端が、嘘のようにすっかり落ち着いていた。
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