2 腐れという呪い
洗面台で口を漱がせると、セジは咳き込んで胃液を吐いた。
「国道沿いにドラッグストアあったよね、ちょっと行ってくる」
セジに毛布を被せて外へ出る。歩いて数分の場所に深夜0時まで営業している大手のアネモネ薬局があった。正面入口に現金輸送の白いバンが停まっていて、警棒を握った体格の良いガードマンが二人、仁王立ちでびったりとはりつき、バックドアを護っている。それがさながら寸分の隙もなく閉じられたカーテンのようで、もし積荷を奪おうとすれば私はあの警棒で殴られるだろうと、現実には起こらない事を想像しながら通り過ぎる。
黒いキャップに黒いジャンパー、桜色のシフォンスカートをひらめかせた若い女性が、脇目もふらずコスメ陳列へ向かうのを横目にしながら、奥の食品コーナーへ向かう。ドラッグストアとは言っても、カット野菜やお菓子、レトルト食品がコンビニ並みに揃っていて、医薬品コーナーの方が小さいくらいだ。
水を飲んでも吐いてしまうときは、人肌に温めたイオン飲料を口に含ませてゆっくり飲むと良いと、入院中に早川さんが教えてくれた。たぶん脱水している。ポカリの2リットルボトルと、1リットル用粉末の5袋入りをかごに入れてから、レトルト品を物色した。
お粥は食べられるだろうか。一緒に食事をしたとき、苦手な食べ物について話した気がするのに忘れている。玉葱は大丈夫だったっけ。豆乳は飲んだことがないと確か言っていた。
ミネストローネに、レトルトの梅粥……。トマトジュースは嫌がるかもしれないと思いながらも、紙パックをひとつ選ぶ。クラムチャウダー缶が目に留まった。私の好きなキャンベルの赤缶。アサリは肝臓の解毒に効くから、二日酔いとかにも良いはず。希釈用に冷蔵コーナーから牛乳を一本取ったが濃厚しかなかった。下痢をするかもと思い、豆乳も入れる。日用品コーナーでカーテンのことを思いだしフックを探す。十本入りをふたつ入れて会計を済ませた。
外へ出ると白いバンはいなくなっていた。エコバッグがずっしりと重い。こんなに買い込んだのは久しぶりだ。重みで伸びる肘を全身で支えながら団地へ向かう。クラムチャウダーじゃなくてアサリの味噌汁を買えばよかった。それも赤出汁の。軽く後悔するけどもう遅い。一瞬歩みが緩みかけたけれど、そのまま部屋へ戻った。
早くも暮れ始める夕陽の中、セジはおとなしく眠っていた。毛布の中で竦めた首筋に手を当てるとひんやりとして、熱がある様子はなかった。身体が冷えている。湯を沸かし蒸気を巡らす。彼が眠っている間にカーテンをつけた。布が擦る音は予想以上に耳に障る。起こしてしまうだろうかと心配したが、目覚める気配はなかった。
まがりなりにも遮光一級の生地で閉ざされた和室は、驚くほど暗さと静けさを取り戻した。馴染みのある匂いと細い筋のような光を漏らすカーテンの内側で、私はぼうっと室内を眺めた。
この部屋へ来たのは三度目だけれど……。来るたびに物が増えたり配置が変わっている。書店で会ったときに友梨奈が着ていたバイカラーのスカジャンが壁にかかっていた。
夜半を過ぎてもセジは眠り込んでいた。隣室の男性のことが気にかかっていたが、壁伝いに音はせず、不在のように思えた。帰るタイミングを逃した私はカーテンの端を少し開け、月明かりで視界を保つ。誰もいない公園に咲いた桜の樹々の隙間から、ぽつんと燈る街灯がふたつ目の月のように夜空に浮かんでいる。大雑把に片づけはしたものの、部屋に残った煙の臭いと埃っぽさが、喉に張り付いた。この空間を浸蝕し続ける不可視の汚れを洗いざらい拭き取ってしまいたくて、所在なく唇を弄ってしまう左手首をきつく掴んだ。
明け方になってようやく目を覚ましたセジに、温めたポカリを飲ませ、彼の喉仏が大きく上下するのを見ながら、いったいなにから話せばいいのか考えあぐねていると、彼が先に口を開いた。
「顕花サン、ごめん!」正座した膝に拳を置き、腿と胸を付ける。
「許してくれると思えねえけど何回でもいう。本当にごめん……」
なにを謝られているのか、色々なことがありすぎてもはやよくわからなかった。気持ち悪くない? と訊くとセジは首を振った。
「とりあえずなにか食べたら。クラムチャウダー飲める?」
「……飲んだことない」
「そっか。ミネストローネは?」
「それってトマトのやつだよね? ……おれセロリ苦手」
「セロリか、入ってるかわかんないけど。じゃあ、お粥かな……」
「さっきのクラムなんとかってのは?」
「クリームシチューみたいなスープ」
学校給食にもあるような気がするから、メニューの名前を覚えていないだけかもしれない。あったとしても牛乳ベースだろう。
「おれ、それ飲んでみたい」彼のお腹が音を立てた。
「牛乳が特濃しかなかった。平気? 豆乳も一応買ってきたけど」
「混ぜるってこと? 顕花サンはいつもどうしてるの?」
豆乳で伸ばすと程良くこってりして私は好きだ。ダイスカットされたジャガイモと、アサリ。木さじで熱々をすするとほっとする。
「私は豆乳が好きだけど……。飲んだことないって言ってたよね」
「ないけど。顕花サンが好きなやつがいい」
アサリも豆乳も癖がある。火にかけると途端に立ち昇る濃厚な香りに不安になりつつも、セジに渡す。「なにこれ!? うめえ!」
「そんなに一気に食べて……大丈夫? また吐かない? いつもはもう少し、パセリとか……なにかハーブ足すんだけど」
「うめえ、うめえ……」鍋で温めただけのクラムチャウダーを、セジは夢中で口に運んだ。正座したお尻を跳ねさせるほど喜んだ。
「やっべ、おれ。これ超好き。大好き」
「大袈裟だよ……」
彼に、母親の手料理の記憶はあるんだろうか。タコさんウィンナーや、海苔で形作ったアニメのキャラクター。運動会のお弁当や、誕生日のケーキ、そんな思い出を重ねないまま、きっとこの歳まで生きた。祖父母の元でのことはわからないけれど、親の手が加えられた料理には接していないはずだ。彼に旗を立てたオムライスを作ってあげたい。ふとそんな考えに操られそうになり目を伏せる。
セジは、少し錆びたカレー用の大きなスプーンで、大口を開けてペロリと一缶分を平らげると、ぷはあ、と床に転がった。
「あー、うまかった。顕花サン、他なに作れんの」
顔色が戻っている。それを見て安堵すると同時に、確認したくない現実も戻ってきた。荒れた部屋、吐いた痕、酩酊していたセジ。
「……こういうことよくあるの?」誰かが来ていたのは確かだけど、お酒はなかった。嘔吐の原因はわからない。浴室のオーガスタを見て、メールは嘘じゃなかったんだと思索する自分が虚しい。
ぼんやりと文机の香炉を見ていると、セジが言った。
「見た……? よね……」
「――水、あげすぎちゃったの?」
遠回しに肯定すると、セジはわかりやすく意気を挫かせた。
「あれ何の虫……? コバエ? どうしたらいいかわかる?」
「羽虫かトビムシかな……ごめん、私も詳しくなくて」
「最初は箸で摘んで外に出してたんだけど、水で溢れさせようとしたら、中からうじゃうじゃ出てきて」
網戸につくコバエや、室内のどこかで孵化してしまったゴキブリと同じように、一度湧いてしまうと根絶させるのは難しい。
「とりあえずベランダに……風に当てようか……」
受け皿を外して外へ出す。専用の薬なら植物には害を与えない様調整されていると思うけど、土も腐りかけているように見えた。
「どうすりゃいいのかな、これ。顕花サンちって庭ある?」
「……ごめん、うちにはない。あの子のところは?」
「友梨奈? あいつんちは庭はあるだろうけど……。おれ、こいつと離れたくない。もし枯れるにしたって、そんときはキャベツ太郎ごはんにまぜて最後まで食う」冗談めかしたが、本気なのだろう。
放っておいても良くならないことは明らかだ。そうなってほしくはないけど、ダメになりそうだという予感はどうしても消えない。
「おれのせいかな」突然セジが言った。「……おれ呪われてんだ。母親がおれに呪いかけたの」
「どういう意味?」
セジが文机の引き出しを開け、底からかなり古そうな一冊のノートを取り出し、中を開いた。一面にカタカナの単語や文章らしきものが並んでいたけれど、その文字は拙く、内容はわからなかった。
「これ、ばっちゃんたちの言葉。忘れないように、ずっと書いてきた。寝物語で聞かされてたやつもある。でもこっちは……」
何ページか繰ると、手をとめ、ひとつの言葉の上に指を置いた。
「おかんの呪い。呪いの言葉」
そこには、〝トカップチ〟と書かれていた。「どういう意味?」
「さあ?」セジは口の端を歪め、汚い物にでも触るようにそのページの片隅を指で摘まむと、立ち上がって台所へ向かった。ガスコンロの前で直立し、カチャカチャと火花を散らせる。
「なにするの? だめだよっ」咄嗟に止める私を、彼の右腕が制した。「やめてっ、危ないってば!」
一頁を雑に破くとコンロの上へかざす。火は一瞬で燃え移り、メラメラとめくり上げるように紙を黒墨にした。炎が燃え広がって手中に保てなくなると、流しの中へ放り込む。水気のないステンレス槽の中で、白い紙はあっけなく墨に呑まれた。セジは冷淡にそれが燃え尽きるのを確認すると、今度はノートごとコンロに近づけた。
「大事にしてたんでしょ!? そんなことしても何にもならない! それ燃やすなら、私も空の骨捨てるから!」
なぜ引き合いに出したのか――とにかく私は叫んだ。すると、それまで制止をものともしてなかったセジが急に脱力した。
「それはだめでしょ。ずるいな、そんなこと思ってもないくせに」
どさりと座りこむ。丸い背中に骨が浮かんでいる。後ろから抱きしめたいと強く思ったが、それこそずるい気がした。コンロの火を消し、彼の手からノートを取る。見下ろすと髪の隙間からのぞく白いうなじが頼りなく、項垂れた子供そのものだった。静かだった冷蔵庫のコンプレッサーが動作を始め、ブーンと耳障りな音をさせると、セジは壁を叩き、弱々しい悪態をついた。「いてえ……」
「呪いの言葉って、どういう意味? 本当は知ってるんでしょ」
セジはそれには答えず、黙って立ち上がり、和室に戻って掃き出し窓を開けた。オーガスタを股の間に引き寄せて、蹲踞で座る。
「なんでもオミトオシなんだね」土の表面で見え隠れしている虫を一匹指の腹で掬うと、それを潰し、トカップチの意味を言った。
「〝水は枯れろ、魚は腐れ〟って意味。ずっとおかんにそう呼ばれてた。――こいつ、腐っちゃったんでしょ。おれのせいだね」
「そんなわけない……」
「前さ、切り花好きじゃないって話したの覚えてる? 花屋で花買うと薬くれんじゃん。あれ入れるとマジで枯れねえの。でもさ、なんかあれ、すっげえ怖くって。だけど、腐んねえ体ってどんなだろうって、たまにすげえ羨ましくなるんだ。のわりに、いつ死んでもいい、生きてるおれキショイって思うこともあるし。こういうのって何、分裂症っていうの? やっぱどっかおれ、おかしいのかな」
それこそが呪いだ。セジの母親がかけた呪いは今も生きている。
「腐れって言われたって、腐らない子は腐らないよ」
腐らないでっていくら願ったって、腐っちゃう子は腐っちゃうんだよ――そう思いながら、私は逆を言った。それでも、そこに籠る願いは等しい。人種差別、戦争、民族浄化、虐待、この世から消え去ってほしいすべてをいくら消えてと願っても消えないのと同じに。
「おれはとっくの昔に腐ってっからね」
「そんなことない……」私はセジの言葉を否定したけれど、そこに根拠なんてない。自ら腐りたいなんて願う生物は、人間以外にはどこにもいない。昔はそう思っていた。でも、生き続ける活力を失って、枯れていく植物がいても不思議じゃない、そうとも思えた。
飼い主が死んだ後、何も食べなくなり後を追うように衰弱して死んでしまうペットや、飼育下でストレスを抱えて自傷行為をしてしまう動物園などの生き物はとても多いと聞いたことがある。
生き物の本能は、生きて子孫を残すことだ。羊は、群れが襲われたとき、群れの中で一番強い者が残って盾となり、その間に仲間を逃がそうとすることがある。以前動物学にまつわる本の書評を書いたときに知った。それは、ある意味で献身的自殺と言えるとそこには書かれていたけれど、自分が生き残ろうとすることも本能なら、なにかを守るために自死を厭わない、それも本能だ。きっとそれは、熟考の末に引き起こされる現象ではないと思うからだ。
生きる本能を否定され、誰かに死ねと言われ続ければ、それが現実となる手段を選択してしまう。それが事実としてあるのだとしたら、腐れと言われれば腐る人間がいることは真実に思えた。
その考えに至ってしまう私自身が、私は呪わしい。否定したいのに、否定できない自分。それは、きっとセジも同じなのだろう。
「そんなこと、ないよ……」もう一度、私は言った。
どうしても伝えなければいけない気がした。セジは、私が口にした短い「否定」を、さらに否定することはなかった。そこには、そうであってほしくないという儚い願いが含まれていた。
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