第六章

1 ふたつの雫

 友梨奈に呼び出された後で、私は粟立っていた自分の気持ちが急速に沈殿し始めたのを感じていた。まだ満開を迎えてもいないのに、春一番の強風に煽られて敢えなく落ちた桜の花びらがアスファルトに張り付いている。傷んだ花弁は黒く透過していき、死に絶えて千切れた蝶の翅を思わせる。それか葉脈だけを残して葉肉を失った枯れ葉。どちらも踏みつければ、千切れて地面の窪みに沈む。

 そんな三月十一日、セジから一通メッセージが届いた。スマホ画面上部に、時間にして一秒、プッシュ通知が現れて、彼の名の残像を残して消えていく。その一瞬で心臓が早鐘を打った。目を背けるように顔をあげれば、洗車をするパパの隣にしゃがみこみ、落ちた花弁をグラスに拾う女の子がいた。グラスいっぱいに拾ったピンクの花弁はまだ新鮮でふわりとし、遠目にもとても可愛らしかった。

「みてみて、こんぺいとう!」無邪気に一枚摘んで口に放り込む。

 そんな我が子の姿を笑顔で窘める父親。穏やかな〝日常〟を過ごす彼らの横を通り過ぎながら、私は徐々に凪を取り戻す。

『ごめん。オーちゃんダメになっちゃうかも』

 メールにはそれしか書かれていなかった。私は事実、浮足立っていたはずだ。自分自身を諫めるように黒褐色の地面を踏みしめる。

 鉢替えもして、ほんの十日ほど前にコーヒー滓の改良土を足したばかり。友梨奈の家から貰ったという鉢は、少し大きすぎるような気はしたけれど、発育に悪影響を与えるとは思えなかった。

 絵文字はついていない。気落ちした様子でこう書きさえすれば、反応するだろうと目論んだのではないかとさえ勘ぐってしまう。心配じゃないといえば嘘になる。枯れてしまわないか、どういう状態なのか、今でも不安は搔き立てられる。オーガスタを持ち出すのは狡い。これは踏み絵だ。でもこの行く末に目を閉ざさなければ、いつまでも随眠から抜け出せない気がして、私は画面を閉じた。


 確定申告のために税務署に出向く。些末な印税だけで大した収入はないから還付目的でしかないけどやはり終わればほっとする。

 帰宅途中、黒の指なし手袋が片方、路面に落ちていた。その脇を事業用トラックが通り過ぎる。継ぎ接ぎだらけのアスファルトはまだらで、置き去られた無様な黒い物体は必ずといっていいほど私の空目を誘う。タイヤに轢かれた亡骸を最後に見たのはいつだろう。大抵の場合は、鳩や烏の死骸でもなんでもない。

 片方の指なし手袋を睨みつけながら歩を進める。空目だとはっきり認識できるまで、私は目を逸らせない。それがあたかも、安心を手に入れるための儀式だとでもいうように。でもきっと、私が注視できるのは、路面に落ちている黒い物体に対してだけ。

 手袋を通り過ぎ、自宅に続く最後の曲がり角を超えると、サッカーボール大の影が玄関前にあるのが見えた。どこか他所の家の洗濯物でも飛んできたのかと思ったが、そもそもそんな生活感溢れる軒下は近隣には存在しない。見つめながら近づくと、それは二重の不織布でできたピンク色のリボン付きバッグだった。

 数時間しか留守にしていない。まだ近くにいるかもしれないと思うと振り返ることができず、鼓動が速まった。いるかいないかもわからない気配に怖気づきそうになりながらも、私はそれを手に取ると玄関を開けて中へ入った。錠をかけても安堵は訪れない。不織布は柔らかく、中身はおよそ透けて見えていた。しっかり確認するには、紐通しされたリボンをほんの少し緩めるだけ。でも、手紙が入っているかもしれないと、少し時間が必要だった。

 ソファーカバーのずれを意味もなく整え、クッションカバーを外して洗濯機に入れる。動揺が自分でわかる。確認しなければ収まらないことも。先に伸ばしても苦しむだけ。こんな些細なことで。

 ずるずる思案を巡らせる。洗濯槽の中身はがらがらで、スタートボタンを押すには忍びない。ふたを閉め、脱衣所を出た。

 バッグを開けると、大小二個の砂時計が入っていた。東友のワゴンで見たものだ。ふたつの雫を繋いだガラス。包み布を脱がすと、静電気で逆立った砂がはらはらと内側で落ちた。手紙はない。どういうつもりなんだろう。餞別めいていて気持ちがちりちりする。

 小人パキラの横に砂時計を並べる。緑の砂の子が三〇分計で、水色の砂の子が十五分計だったはず。白雪姫の七人のこびとには足りないけれど、三体が並んでいる様子はどこか可愛らしかった。

 包んであった布をよく見ると絹の枕カバーで、触るとシルク特有のしっとりさがある。絹が肌に良いと知ってのことだろうか。巻き布代わりに同じワゴンセール品から選んだのかもしれない。枕カバーを買うくらいならカーテンでも選べばよかったのに。そんなことを思いながらカバーを畳み、衣装ケースの奥へしまった。

 クローゼット上段に電動ミシンが乗っている。昔はこれで帽子やカバンをせっせと縫った。初給料で買った思い出の品だけど、もう随分長く使っていない。どうしても捨てられないというほど大仰なものでもないのに、やはり手放せないでいる物のひとつ。

 ミシンを初めて使ったのは、小学五年生の家庭科の授業だった。一枚の布に印をつけて鋏を入れ、裁ち目と裁ち目を繋いでいくだけで、スカートでも帽子でもなんでもできた。それは、精密な部品でいっぱいの古城のプラモデルなんかより、ずっと芸術的で私は夢中になった。図書館で、手芸雑誌の巻末付録の型紙を手で写し、先生に頼んで家庭科室のミシンを放課後に使わせてもらったりした。

 クリスマスに何が欲しいかと母に訊かれ、ミシンが欲しいと私は即答した。聖夜のあくる日、枕元にあったのはおもちゃのミシンで、それはプラスティック製の針と、毛糸を使う子供用だった。フェルトの上に図柄をステッチすることしかできなかった。

 そんなようなことが何度かあった。でも与えてもらっていただけマシ。天井に消えた超合金ロボを回視する心情に比べれば。餞別だったチキンバスケットを満面の笑みで語る身上に比べれば。

 一度閉めた衣装ケースの引き出しを抜き出し、底を返す。以前住んでいた部屋の掃き出し窓にはカーテンレールがついておらず、つっぱりポールを枠内に張ってカーテンを吊るしていた。そのため規格品では丈が余り、自分で裾をあげた。

 セジの部屋を思い出す。茶色一色でつまらない遮光カーテンだけれど、きっとないよりはマシ。あの部屋は無防備すぎる。

 カーテンを紙袋に入れて家を出た。これを渡したところで何も変わらない。私の心のごみがすっきりするだけ。そんなことを考えながら、鼻笑いがこみ上げた。ごみ箱が嫌いだって得意げに語ったくせに、私の内側はごみだらけだ。白鳥橋まで歩いて二〇分弱、遠すぎることはないけど、近くもない。国道沿いの歩道は、伐採予定の街路樹前にロープが張られ、さらに幅員を狭めている。仮に自転車があったにしても、こんな状態では車道の端を漕ぐのも危ない。

 足早に歩く。件の公園に差し掛かると、交通事故現場にあるような立て看板が置かれ、入口フェンスを塞いでいた。黒いシートが広場の一部を覆っており、その縁を注水ウェイトが踏んでいる。なにかあったのか、三月一日~七日の目撃情報を求めている。先週の日付に身が竦んだ。掲示内容の詳細を確認すべきかと煩ったが、足を留める気持ちにはなれず、そのまま通り過ぎた。

 団地一階、最奥ドアの前に立つ。インターフォンは黄ばんでいて、音符の印も掠れて消えかかっている。スマホに着信はない。ポケットの中で何度か震えた気がしたけど、どれも気のせいだった。

 彼が中にいるのか、裏の公園に回れば一目瞭然だけれど、いてもいなくても同じだ。私はそっとドアノブに紙袋をかけた。

 ふと下を見ると、黒い土がパラパラと零れ落ちて戸先下を汚している。萎びた雑草の根っ子も一筋混ざっていた。――それを見た瞬間、公園を塞いでいた看板が脳裡に蘇った。

 ふたりで東友へ向かう直前、セジはあの公園で土を掘り起こしていた。友梨奈に鉢をもらう約束をしているからと、夜まで時間をつぶし店へ向かおうとしたが、途中、コンビニ前で拉致られるように知人の車に乗せていかれた。あの後、彼がどうしたかは知らない。借り物のシャベルも公園に残したままだったから、どこかのタイミングでは取りに戻ったのかもしれないけれど結局どうなったのか。

 黒いゴミ袋に詰め込んだ雨上がりの土、小石や雑草が混ざってほぐすのも難しそうだったあの土――光景が蘇りドアを掴んだ。意を決して右に回すと、抵抗があって動かなかった。鍵がかかっている。

「セジ、いるんでしょ。開けてっ」私は思わずドアを叩いた。

 擦過音のあと、鉄扉の内側でドアポストの蓋が派手な音を立ててバウンドし、ガチャリと内側でロックが外された。扉を開けると、薄暗い玄関口にセジが腹ばいで倒れていた。

「あれえ? 顕花ちゃんだあ、どったのお?」

 機嫌よさげな声でふらりと起きあがろうとしたが、むせこんで口から唾を飛び散らせる。彼の体が上着を下敷きにしていて、廊下についた手が何度も滑った。それを除けると下に吐いた後があった。

「なんか今日、きれい? あ、それ…はいつもか、失敗、失敗……」

「なんでカギ!? なにしてたの」再び錠をかけ、ドアガードを起こす。奥へ入ると、タバコの巻き紙や吸い殻が散乱していた。

「これ、なに」浮き足立って、畳の上で刹那立ち尽くす。

「あれえー? 声コわあいよう? 顕花ちゃんもやる?」

 外から丸見えだ。カーテンをつけなきゃ。この部屋にはやっぱりカーテンが要る。私はこのとき強烈にそう感じた。

「換気するよ」ガラス戸を開けると、公園内で遠目に立ち止まってこちらを見ていた人が向きを変え、何事もなかったように去った。

「誰か来てたんでしょ、これ片付けるよ」

 窓に背を向けてしゃがみこみ、床に散乱したものを寄せ集めたけれど、私の背中についた目はずっと外を睨みつけていた。

「なん、か寒い、おかしーな」

「セジ、あんたなんかやったの」

「やんねえよ、おれはなんもやってねえ」

 セジは畳まで這って来て、胎児姿勢で丸まった。前回会った時より少し伸びた髪の裾がオレンジのインナーカラーで染まっている。

「おれ、猫、見つけたんだ。でもあいつか……」

「あいつって?」

「……隣のくそやろう」

「見つけたって、どういう意味? 隣にいたんじゃないの?」

 酩酊している。話がかみ合わない。

「へ? ああ、あいつちがう、いらないって……、……だ」

「違うってなに? ねえ、そこで眠らないで。布団どこ?」

 セジは腕を差し伸ばしながら、立ち上がろうとしたけれど、足がふらついていた。吐しゃ物で汚れた髪先が口元に張り付いている。

「押し入れ? いいよ、私が出すから。それより立てるなら、洗面所で顔洗ってきて。髪にいっぱいなんかついてるから」

「あれえ? ほんとだ、ははっ、タケのゲロかなあ、これ」

「とりあえず少し寝て。布団敷いておくから、洗ってきて」

「え、あーうん、わかった。ボクちゃんシャワー入る。いい子」

 こんな場所で寝ても外から見えてしまう。そう思いながら、なるべくガラス戸の下半分、擦り面で死角になりそうな位置に布団を敷いた。掛け布団はなく、あるのは重いウール毛布だけだった。

「あー、忘れてた、風呂使えねえんだった」

 セジは脱衣所前で座り込み、壁に寄りかかると、そのままずるずると背中を倒して崩れていった。風呂場には依然としてプリザーブドフラワーの材料が積みあがっており、さらに土の入った黒いポリ袋と、虫の湧いたオーガスタの鉢が置かれていた。

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