3 野木晋二郎
「店長、バッシングとリセット終わりました。あと、ビールサーバーの調子が悪くて泡の立ち方が変なんで、業者に連絡した方がいいかもしれないです。ちょっと見てもらっておいてもいいですか?」
「おう、わかった。おつかれ。今日はもう帰っていいぞ」
営業終了後、ラストの従業員を返したあと、ひとり居残りレジを締める。売上日報と現金管理報告書をやりながら、有線をニュースに合わせると、飽きもせずまだ桜の開花予想をやっていた。アナウンサーの浮かれた声を聞くたびに俺の気持ちはどことなく冷める。
店の戸締りをし、駐輪場へ向かう。ホンダのネイキッド、CB400SFの車体が月明りの下で静かに俺を待っていた。こいつは派手な存在ではないけど自分を主張してこない相棒で好きだ。フロントフェンダーに泥汚れが溜まっている。たまには磨いてやらないと。そうは思っても、店との往復で帰ったら寝るだけの毎日だ。
夜間の国道は閉店後の店内に似て見える。もう三月だというのに帰路につけば瞬時に体が冷える。桜の下で宴会をしたことはない。開花は今日か明日かと騒いでも、この付近では花見ができる場所は限られているし、それも大学の敷地内や有料公園内でのことだ。熱田陸橋を渡って、以前住んでいた神宮東までいけば見事な桜が咲く東公園があるが、付近一帯に物流倉庫が並ぶせいか閑散としている。実際には桜の種類は六〇〇以上もあるのに、開花予想に使われるのはソメイヨシノひとつ。154号線沿いは巨木化した枯れ木ばかりで、二輪で風を切ってもなんの感慨も湧かない。
堀川沿いにある新田第三号線に進み、時速二〇㎞まで速度を落とす。この通りの桜は咲き誇っているが眺めに来る人は殆どない。遊歩道はあるが、昔から堀川はイメージが悪く、貯水池での落水も多いから行楽には向かないのだろう。西側一帯は白鳥庭園だから客足はあるが特別な日以外は夕方に閉園する。深夜にここの桜を愛でるのは、池の鯉や野良猫、昆虫や微生物、鳥類くらいのものだ。
街路樹再生プランだとかで、熱田の南西エリアは日々街路樹が伐採されている。アオギリ、ナンキンハゼ、トウカエデ、ケヤキ。〝再生〟と掲げられても、事実上の伐採計画でしかない。その後何を植えるのか。もしもパンジーだったら抜いて回ってやりたい。
「帰ったぞ。理央、起きてるか?」
「あ、てんちょおかえりぃ……」
理央は床に転がったまま、体を斜めに捩じって俺を迎えた。
「どうした、顔色が悪いぞ」心なしか唇も青ざめている。
「だいじょびっす……腹減ってるだけ。あ、シャワー借りたよ」
「狭いんだから、床に寝るな。ほれ飯。すまんな、遅くなって」
店の残りを座卓の上に置くと、理央がようやく上体を起こした。
「やーりい。野木さん、もっと広いとこ越せばいいのに。なんでこんなぼろっちいとこ住んでんの?」いいながら、ポリ袋の中を物色する。「今日はなに? ごぼうサラダはおれ下痢するよ」
「フライが余ってたから、エビフライだな」
「え!? マジ!?」飛び起きるように姿勢を正す。現金な反応だ。
「いっとくけどタルタルソースはないぞ。我慢しろ」
「わっ! 白ごはんもいっぱい入ってる~! 好き好きテンチョ」
餌をねだる野良猫さながらに、足元にすりよるマネをした。
「っとに、くっつくな。……兄貴に感謝しろよ。ほら、箸」
さっそく食べ始める理央の背中を見ながら、俺はジャンパーを脱いで椅子にある雑誌をどかし、そこに座った。
「今日も猫、探しに行ったのか? どうだ、見つかったか」
「……いない。堀川の御陵橋んとこにさ、ボラの餌やりさんが毎日来てんだ。だから話聞こうと思って今日あっちまで行ったんだけど、なんか会えなかった。あ、てんちょ、マヨちょうだい」
言われるがままに冷蔵庫からマヨネーズを取り出して渡す。
「白鳥庭園沿いの三号線か? あんなとこにずっといたのか」
「いや、道の名前はわかんねえけど、ベンチあるし。あの辺、夜ランしてるやつ以外、人いねえ」
「区別なんてつくのか? 猫なんて、俺にはどれも同じに見える」
「あの人たちは普段見かけねえノラがいたらわかるよ。たぶん」
「小山が心配してたぞ」
「オー、スイートマイラブ、友梨奈ちゃん、さっすが」
「そういうのやめてやれって。あいつ本気だぞ。連絡がないって今日二回も皿落として割った。お前の給料から引くからな」
「えー、マジ勘弁。でも、なんで心配? ここにいんのに」
「教えたらあいつは絶対来るからな。連絡くらい入れてやれ」
「ため池にケータイ落っことしちゃってさあ。すぐ拾ったけど、調子悪くて勝手に発信始めたりすっから、あんま電源入れらんねえ」
「貯木場の跡地か? あそこ、何年か前に男の子がサッカーボール取りに入って死んでるぞ。気をつけろよ。携帯、貸せ」
「ん」エビフライを食べながら、左手を伸ばして俺に携帯を渡す。「溺れちゃった子の話は知ってるよ……。いたのは烏ばっかだった。なんか、おれ、あいつらにバカにされてた気がする」
俺は携帯から充電池を外し、軽く拭いて机の上にばらした。「ちゃんと乾かさないとショートすんぞ。そろそろ変えたらどうだ」
「ケータイ? だってこれ初めて晋二郎兄がくれたやつじゃん」
「だからだよ。中古でいいならまたやるから」
「そんでもいいけど、データとかぜんぶ残せるかな? 待ち受け」
「いけるだろ。新しいバイトはもう済んだのか?」
「んー? 新しいってわけじゃないよ。これまでも何回か世話になってる」そう言って、オレンジ色に染まった髪の裾を、箸を持った手で跳ねあげた。「これ、やられたけど」
「写真か? 髪くらいならいいが、あれこれ首つっこむなよ」
「だいじょびだって。また今週末もあっから、明日帰んね」
たまにモデルのバイトをしていることは聞いていた。こいつは背は低いが、父親がアイヌとモンゴルの混血だとかで顔が濃い。少し吊りあがった目の深い色味が、どことなく日本人離れしていた。
食べ終えて床で寝てしまった理央に毛布を掛けて照明を落とし、スマホを持ってトイレに入る。兄貴の知坂に電話をかけるとすぐに出たが、背後からなにやら騒がしい音楽と、店内放送が聞こえた。
「今出先か? かけ直した方がいいか」
『おお、ええぞ。理央はどうしとる』
「飯食って寝てるよ。それで、隣の人は結局被害届出すって?」
『いやあ、そもそもが犬猫禁止の公団だもんで、結局通報もしとらんかったわ。なんかてんかん持ちの仔猫がおったらしくて。去年の暮れあたりから、押し入れでこっそり飼っとったらしい』
「てんかん? 猫にもそんなのあるんか」
『薬は飲ませとったらしいけど、発作が起こるとひどく騒いどったそうでなあ。何分間も鳴いたりひっかいたりする音が聴こえるんで、それをどうも、猫を虐待しとるって理央が思いこんどったらしい。あいつが乗り込んだどさくさで、怖がって逃げちまったとよ』
受話口の向こうから、知兄の名を呼ぶ声が聞こえる。『すぐ行くで待っとれ』声に応じてから兄貴は続けた。『だからまあ、事件にはならんだろ。相手さんも怪我しとらんし、理央にも謝まりに行かせたしな。あ、靴がダメんなったから弁償しろって相手が騒いどったけど。なんか高いやつだって、ウッドストックつうんか』
「――デッドストックか?」
「ああ、それだ。俺は実物見とらんでようわからんけど、コーラぶちまけたらしいわ。一緒にいた女は誰だってしつこく訊かれとったけど、理央は、『ぜんぶおれが悪い、あの人は関係ないんで』いうてそれ以上は黙っとったな。晋二郎、おまえ心当たりあるか?」
「ないことはないが……」
『店は休ませてんのか?』
「ああ、それはまあちょっと……、あいつが自分で」
警察が店に来て、もし本部に連絡がいったら面倒なことになる、という建前もあったが、実際には理央が自ら休みたいと言った。
『ねえ、店長。おれちょっとまとまったお金ほしくて。しばらく他のバイトしてもいい?』
騒動のあった翌日、兄貴のスマホから電話を寄こして、あいつは俺にそう告げた。そのときはまだ何があったか聞かされず、新学期が始まる前でもあったから学費絡みだろうかと思い、応諾した。
『うちはそもそもお前を従業員カウントしてないからな。俺に伺いは立てなくていいけど、なに買うんだ? 変なもんには手を出すなよ。いつも言ってるけど、やばいと思ったら兄貴に相談しろ』
『うん、物じゃないよ、ありがと、店長愛してる』
そっと居室を覗くと、理央は座卓を脚で追いやり大の字で寝ていた。腹を出してぼりぼりと掻く。入れ墨を入れた皮膚はどうも弱いような気がしてならない。すぐに血が出て瘡蓋になる。
『警察沙汰んなると戻らされるんじゃないかと心配でな。児相は親に話も聞きにいったらしいが、セジが勝手に逃げとるだけだ、いうて家出人扱いされとる。虐待いっても実害がないもんで』
「育児放棄は立派な虐待だろうに……」
『捨てたんじゃない、いうんが言い分だわなあ。どうもならん。まだ未成年だからな。証人なんぞ探せばおるやろけど、味方になりそうな人らがもしおるなら、もっと早く解決しとるわな』
電話を切る。理央の腹を隠して再び毛布を着せた。買ってきたアルコール度数7%の酎ハイの栓を開け、理央と同じ残りを喰う。
俺と兄貴は血が繋がっていない。養子縁組で同じ姓になっただけの関係だが、こうして成人し、家を出た後も兄弟としての絆は残っている。実の兄以上に知兄は家族だ。血の繋がりは重要じゃない。
音を落としたテレビの光をぼんやりと受け、時折寝言をいう理央の寝顔をツマミの鮭トバと交互に見つめながら、俺はベッドに潜るとそのまま丸まって寝た。
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