2 早咲きの桜
私は数日間家から出ず、ピリカへも行かなかった。こんな状況で待ち伏せなどされるわけはないと思っても、彼と鉢合わせるのが怖かった。インターフォンが鳴ればモニター越しに姿を確認し、警察でもなく、セジでもないことに安堵すると同時に、懐かしい空虚さも戻ってきた。引き出しに残るつばめのシールは見るたびに私の胸を締め付けていたが、たった数日で可愛らしさを取り戻している。
白鳥団地での出来事は急速に鮮明さを失い、私の脳内でセピア色の風景に変化していき、遠い国の出来事のように感じられた。
『人間も猫も、死ぬまでに打つ心臓の回数は同じ。ゆっくり脈打つ方が長生きなんです』それはあくまで「説」だけれど、空の心臓が早鐘を打つたび、私はとても苦しかった。平均寿命からすれば、猫は人間の五倍のスピードで歳をとると言われているけれど、心拍の速さは人間の二倍から三倍程度。だからきっと人間並みの医療が進んでないっていうだけで、本当はもっと生きられる。命を送るポンプの速度がさらにゆっくりになれば、この躰はコールドスリープ状態になって、生きながらミイラのようになるのかも。そんな妄想をずっとしていたあの布団の中での空虚な日々がまた目覚める。
セジから連絡がない代わりに、友梨奈からメッセージが入った。
『なにかあったんですか?』
小さな吹き出しが、殊更に前のめりな焦燥を伝えてくる。直接、連絡先を教えてはいない。返事を迷っていると、次が届いた。
『セジがバイト休んでます。話せませんか?』
誰かに会いたい気分じゃないし、歓迎できるような申し出でもない。でも断る理由をいくつか考えても、どれも筋が通らないように思えた。大人の世界なら、そこにちゃんとした理屈などなくても、やんわりと断れば受け入れられる。でもどんなに丁寧にオブラートに包んでも、友梨奈のまっすぐな瞳の前では意味がない気がした。なんですかそれ、と目の前で剥き出しにされそうだ。
近場では座って話せるような場所もないし立ち話では寒い。
『少しなら。三叉路の角にあるコンビニあたりまで来れる?』
すると意外な返事が返ってきた。『あそこ閉店してます。ピリカの自販機コーナーでもいいですか? 二階です』
状況を分かった上で連絡してきたのだと思ったら、友梨奈は何も知らなかった。彼女にも話したい理由があると知り困惑する。
ロングカーディガンを羽織って外へ出る。角のコンビニは本当に閉店していた。照明も落とされ、陳列棚ももぬけの空。のぼりやポスターの類もすべて取り外されている。驚いたけれど、それも一瞬で、すぐに呑み込んでしまえる現実でもあった。なんの前触れもなく、こうやって店は潰れる。外装や従業員までそっくりそのままに、看板だけが変わることも珍しくない。
ピリカの二階へ続く幅の狭いエスカレーターに乗り、自販機でコーヒーを買って丸テーブルにつく。友梨奈はすぐに現れた。他には競馬新聞を広げて携帯ラジオからイヤフォンを伸ばし、みたらし団子を食べているおじいさんがひとり、長居しているだけだった。
「遠いのにごめんね」
「いえ、このあと六時からシフトなんで平気です……」
なにがあったか知りたいのは私の方。私と距離を置いても、彼らは平然とそれまでの日常に戻るだけだと高を括っていた。
「休んでるって、いつから? 無断欠勤ってこと?」
「店長には連絡あったみたいですけど、メールの返事がなくて」
「部屋は? 行ったの」
「いえ、まだ……」
「携帯落としたとか体調崩してるとか」偶発的な理由の方がしっくりくる。セジが返事をしない、というのは確かに不自然に思えた。
「たぶん……そういうんじゃ」友梨奈は首を振った。口数が少ない。私を呼び出したりせず、同じ足で団地まで行くこともできる。
「なにか、思い当たることがあるの?」
競馬新聞を開いていたおじいさんが席を立って離れ、天井から吊り下げられたテレビモニターは、早咲きの寒緋桜がすでに満開をすぎ、散り始めたことを伝えている。下を向いて咲く濃紅色の中輪の花が、萼ごと落下する瞬間を映し出していた。
しばらく俯いていた友梨奈が口を開いた。
「――セジの親のこと、どこまで聞いてますか?」
「殆どなにも。小学生になるまで北海道の祖父母の所にいて、そこから伯父さんの家へ預けられて今は独りだってことくらいしか」
「それだけ?」予想外だとでもいうように友梨奈は顔をあげた。「隠さないでください」
「なにも隠してないよ。どうしてそんな必要があるの」
「セジが今どこにいるか、顕花さん、本当に知らないんですか?」
「メールでもいったけど、もう何日も――」
「あんたがほっとくから。じゃあなんでセジは、……」唐突に、声の調子が変わる。「こんなに、あんたに懐いてんの!?」不安と焦燥が、行き場のない怒りに転化していくのが目にみえてわかる。
睨みつける瞳が、ああきれいだなと思う。懐かしささえあった。
「こんなに、って……どこも懐いてなんてないでしょ。セジと私はとても遠いよ。なにもかもが違う。……年齢も生きる世界も」
彼女の昂ぶりに反比例して、私は凪を装うことができた。目を伏し、白い光沢のある机面を見つめる。あなたは眩しい。張りのある白い肌は、雨どいから垂れる水も、車が跳ねる泥水も、すべてを弾くだろう。友梨奈は、解せないという態度をあからさまにした。
「生きる世界が違うとか、くだらない」
「道でもいいよ。私とあなたたちは、行きと帰りくらい違う」
命の道筋をU字に喩えることは愚かだろうか。でもどこかに折り返し地点があるのだとすれば、そこを曲がったが最後、カウンターは0に向かう。私たちは向いている方向が決定的に違う。
「とにかく、あなたたちにはまだこの先いくらだって道がある」
「若いってだけでバカにしないで。そういうの差別っていうの」
「バカになんてしてない。実際何もかもが違うんだよ。私は、サッカーの試合でロスタイムが終わるのを待ってるようなものだから」
空の命の燈火を受け継いだかの如く、私は生き長らえたけれど、それはボーナスステージのようなもの。
平行線の会話に友梨奈は苛立ちを隠さなかった。
「聞き飽きた。若いから若いからって毒親かよ」唇を嚙んで黙る。
差別はしてない。でも、私はあなたを羨んでいる。心の底から。
「セジ、なにかしたの?」
「気になるなら見に行けば? あいつ今日も休んでると思うし。ま、いるかはわかんないけど、たぶんいるんじゃない」
そのとき、二階奥の多目的トイレから男性が出てくるのが見えた。こちらを注視している。私が目を遣ると友梨奈も振り返った。
「あ、店長……」
男性が手をあげて応える。店で野木さんと呼ばれていた人だ。
「おう小山、まあだ辛気臭い顔してんのか? 事件に巻き込まれたとかならともかく、理央は別件で休んでるだけだって言ったろ?」
脇に挟んだバイク用手袋をリュックに押し込むと友梨奈の頭にぽんと手を置く。セジのことを〝理央〟と呼んだのが気にかかった。
「おまえはもう店に行け、今日から春メニューだぞ」
友梨奈は納得のいかない顔で、体をかわして嫌がるそぶりを見せたが、壁の丸時計を見ると渋々従った。私に「またメールします」と言い残し、エスカレーターを小走りに降りていった。
「ブロンコで店長をやっています。野木と言います。一度お会いしましたね。すみません、今名刺を持ってなくて」と上着の襟をつかんで前身頃を開き、胸元にある名札バッジを私に見せた。
「あの年齢ながら、理央は独りで公営住宅に住んでいまして、ご存じかもしれませんが」座っても? とさりげなく私の顔色を窺(うかが)う。
「はい、聞いています……」
私が頷くと、彼は話し始めたが、探り探りという感じだった。
「実は私の義兄が保護司をしている関係で、理央をうちの店で預かることになったんです。未成年なので本部の規則には反してるんですが、うちはピリカの子会社でして。彼はあんな性格だからか、誰の懐にもすとんと入り込んでしまう不思議なところがあるというか、まあそんな感じで。ピリカの店長さんも彼のことを気にかけてくださってるもので、黙認されてるんです」
セジが持っていた名刺を思い出し、曖昧に相づちを打つと、野木さんは賛同を得られたのが嬉しいとでもいうように、はにかんだ。
「表立っては店に立たせられませんが。最初は賄いだけでも食べにこいと誘ったんです。でもそんなことはできないと本人が突っぱねまして、結局働いてもらっています。できることには限りがありますが、陰ながら支えていければと思ってるんですけど」
彼らしい話だ。いずれにせよ、周囲の人たちは私が思っていた以上に彼のことを慎重に見守ろうとしていることが伝わってくる。
「お寺で食べさせてもらっていたことがあると聞いたことが……」
声尻が萎んでしまう。私が引け目を覚えているからだ。慈愛を実践する尊い心を持った人たち。私は彼らのようには生きていない。
「龍珠寺か、想念寺の住職さんかな。旗屋町の辺りは子ども食堂も多いんです」あの方たちはすごい、と他人事のように褒めたが、野木さんの目を見ればわかる。彼もその、尊い人たちのひとり。
「それで、もしかすると彼がなにかご迷惑をおかけしましたか?」
もしそうならすみません、という態度だったけれど、品定めされている気分になった。セジに害をなさない人物なのかどうか、それを見極めようとするオーラが垣間見えて。野木さんは確かな保護者なんだと物言いから伝わる。物怖じするとはこういうことだろうか、友梨奈がおとなしく引き下がったのも得心がいった。
「いえ、私の方が彼に迷惑をかけたのかもしれません……」
一頻りの治療をしてから、昔のようには思考が鮮明ではなくなった。いつもぼんやりとして、記憶力も落ちた。それが後遺症によるものなのか、ただの鬱なのかどうかもわからないままだ。当初の処方には、抗うつ薬も含まれていた。鎮痛剤と併用することで鎮痛作用が増すらしいが、手指が痙攣を始め、すぐに処方は変えられた。
彼はどうして休んだんですか? なんと言ってたんですか? 親はどこにいるんですか? 賃貸契約はどうなってるんですか? 住民票は? 食べ残しを持ち帰ってるって知ってますか? 溢れさせてすっきりしたいもやもやが私の中で渦を巻いた。私の器は思っていたよりずっと小さい。だけど、今この瞬間、多少すっきりさせたところで、またすぐに溜まる。さっきまでの友梨奈と同じに。
野木さんは笑顔を携えたまま、私から視線を逸らさなった。野良猫に餌をやるなら、最期まで面倒をみろと、お前にその覚悟があるのかと、問われている気がした。知りたいというだけで、知ることは許されないと。「彼とはどこで?」この質問はどこからくるのだろう。いい天気ですね。もうすぐ春ですね。そんな挨拶のうちなのだろうか。私はどこまで試されているのだろう。本当は、そんなこともうぜんぶ、知っているんじゃないだろうか……。
私と彼との間に共通項があるとすれば、親との関わりが空疎で、一人で暮らしていること――それくらいだ。年齢も、生きている世界も、何もかも違う。野良猫が気になるとか、赤札の観葉植物が放っておけないとか、そういった目につくスタンスに勝手な共感を抱いていたけれど、そんなものはただの私の希(ねが)いかもしれない。
人を外見で区別するつもりはない。でも外見に、内面は確かに現れる。幼さを残しつつも健気に彼を想う友梨奈と明るい場所で面向い、隣に座るセジの姿を連ねた。夜の堀川を見つめたあの閑けさの中でも、友梨奈の気配は眩しかった。お似合いだという以上に、セジにはあの子のような光が必要だろうと素直に思う。
夕方のタイムセールを報せる店内放送が階下から聴こえ、私たちの会話は終わりを迎えることなくピリオドを打った。もう外は暗く、歩道橋の上からは、行き過ぎるトラックの前後照灯と、街路に点々と続く赤い保安灯ばかりが存在を示し、コンビニの照明を失った三叉路は、取り残されたように闇に沈んでいた。
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