4 湯舟に浮かぶ海月
「あ、白髪! 抜いていい?」
「やだ。白髪くらいあるよ」
「なんでよ、老けて見えるよ?」
「もともと老けてますから、オバサンでごめんね」
ヘタをすれば私はあなたの母親よりも年上だ。そう言おうとして口をつぐんだ。
「どうせならきれいなオバサンでいてよ」
「きれいでいる必要なんてもうどこにもないから」
「へえ、女の人はずっときれいでいたいものだとばかり思ってた」
美への探求心と保つ努力。理由は色々あると思う。でもすべて相手がいればの話だ。それが友達であれ、恋人であれ、家族であれ、清潔さを保つ以上の装いは、誰かに見せるため。カーテンの内にずっと潜んだ人間が、眉毛を整えたり唇に色を乗せたりしない。
ばあちゃんの髪は漆黒で、白髪があることを私はずっと知らなかった。上衣を腰まで下ろし、流しで髪を染めている姿を初めて見たとき、私は驚きのあまり声をあげた。生え際の数ミリでさえ、白いものが混じるところを一度も見たことがなかったからだ。
「みっともない。これは礼儀だわ。いつ誰が来るかわからん」
昔の人は髪を塗れ烏のように染めた。今より訪問客がずっと多かった時代だ。朝起きて身支度をし、客が来れば煎茶を出す。門灯は道往く人の足元を照らし、黒い髪と身嗜みは失礼のないよう。今では表札や門灯のない家もある。以前よりずっと閉ざされている。
「ほらまた耽ってる。いつも何を考えてんの?」
「……いろいろ」
「さっき、おれのおかんが何歳なんだろって思ったろ」
「なんでわかるの」
「逆になんでわかんないと思ってんの? 顕花サンめっちゃわかりやすいよ。安心しなよ、あのくそばああよりずっと若いって」ふっと微笑むと、懐かしそうに目を細めた。
「そういや、おればっちゃんにさ、いつも『おまえはピリカ、おまえはピリカ』って、いわれてたのね」
「ピリカって、あのピリカ?」
「さあ、なんだと思う?」いたずらっぽく目の奥を光らせると、
「――白髪、抜かせて」返事を待たずに私の後ろに回った。
指を弾かせるようにして、私の髪をかき分ける。セジの体温と熱気が息として吐き出され、私は逃げ場もなく、それらをふりかけられる。彼がまとうヴェールの内側に取り込まれてしまうような気配に、胸の辺りが粟立った。ぞっと懼れるような、堪えきれない高鳴りに耐え忍ぶような、よくわからない感覚だった。
髪をすり抜け、地肌にセジの指が這う。脚の内側まで痺れるような寒気がした。気づくと強く歯を嚙みしめている。耐えきれなくなり、私は口を開いた。「そういうのやめない?」
「ねえ顕花サン、おれと結婚しねえ?」
「なにバカなこと――」振り返ると彼は悲しく笑っていた。
親戚の家では食事も一人でとり、寂しくて、公園で毎日誰かを待った。夜になり、誰もいなくなっても滑り台の上から遠く光る窓の明かりを数えて繋いだ。その頃の幼い瞳がそこにある気がした。何も変わっていないのだ。これは愛の告白じゃない。
私は答えに窮し、掌を握りしめ、爪は皮膚に食い込んでいた。
「あー。やめやめ、もうなんでそんな怖い顔でにらむかなー!」
普段の調子を取り戻し、「一本十円」と白髪を指でぶら下げた。
「いつの間に……」こめかみに針で刺したような痒みが残っている。昔母にやらされた。でもセジにはそんな思い出はないだろう。
「顕花サンきれいなんだから。もっときれいでいようぜ。おれが見ててやるからさ」恥ずかしげもなく、そんなことを口にする。本当に十六歳なんだろうか。いや、子供だから言えるのかもしれない。
「あー腹減った。飯食いに行こ!」両腕を突き出しぶらつかせる。
「私、一回帰んなきゃ」
「え、なんで?」腕の動きをとめる彼にどう答えるか一瞬迷った。
「――猫……、を日向ぼっこさせたままだから……」
カーテンを被せて窓際に置いてきている。日が落ちるとサッシの手前はとても冷える。立ち上がると、セジもがばっと飛び起きた。
「猫いんの? 見たい! おれも行く!」
嘘じゃない。けど勘違いを誘う言い方をしてしまった。でもこのとき私は、心のどこかで、空のことを知ってほしいと願っていた。
「名前なんてえの? 男の子? 女の子?」
「白い男の子だよ。目が青かったから、空……」
過去形を使ってしまった。優しい子だったんだよと、それも伝えたかったけれど過去形の追い打ちを口にするのは悲しくてやめた。
「ソラちゃんかあ! よしわかった、猫にごはんあげたらおれにもまた飯作って」
「またって。こないだのは冷凍うどんを温めただけじゃ……」
「じゃあ、〝だけじゃ〟ないやつ頼むわ」茶化すような物言いに、私が「イヤです作りません」とあしらうと、セジは「なんでよケチ」と歯を見せて笑ったが、そのあとすぐにその表情を固めた。
「どうしたの?」
「またあんの野郎っ……。くっそ、聴こえねえの!? 猫だよ!」
戸境の壁をガンガン叩きながらセジが叫んだ。
「てっめ! いい加減にしろよ!?」
そのあと止める間もなく外へ飛び出していき、隣室のドアノブを掴んで激しく揺らした。「ざけんな! 開けろ!」
開かないとわかると部屋へ戻り、ベランダ側へ出て隣戸との隔て板を破り、ガラス戸についているクレセント錠部分を踵で蹴りつける。錠は元から開いていたようで、戸枠がぐらりと桟を滑るのを見て框に手をかけ、中へ入り込む。私は必死で彼を追った。
玄関口で逃げようとしていた男に向かって廊下まで詰め寄る。
「どこ隠した!? いんだろ猫!!」
「ふざけてんのはそっちだろ!? 警察呼ぶぞ!!」
セジは、箱のまま隅に置かれたコーラの2リットルボトルの首を掴むと、大きくスイングさせて相手の男の下顎を狙った。
「よけんじゃねえ!」
男は壁に倒れ掛かるとスマホを掴んで迷うことなく発信した。
「セジ! やめて! 行くよ!!」
ドアを開け、セジの腕を取り力ずくでへ外へ出る。セジは抵抗しつつも従った。最後にセジはペットボトルで壁をぶちのめし、コーラが派手に音を立てて飛び散ってびしょ濡れになった。
廊下は息を潜めていて、私たちの足音が異様に響いた。私はそのままセジを引きずって、逃げるように家へ向かった。路面が素足を傷つける。国道沿いの公園まで来て家の鍵がないことに気づき、絶対に動かないでと念を押し、セジを公園に残して引き返した。靴を履き、セジのスリッポンと私のカバンを持って再び公園へ向かう。
「あ、おかえり~い」
公園につくと、セジは草の中に座り込んで野良猫と戯れていた。声を聞いて力が抜け、泣きそうになる。張り倒したい気持ちになったけれどとりあえず靴を履かせた。状況がよくわからないまま先を急いだ。国道に赤いランプが点るたびに冷やりとした。
隣の部屋の男が猫を虐待している、とセジは言った。
「変な鳴き声がすんだ、なんとかしたくて……」
歩きながら、隣の部屋の男と猫について話し始める。
「去年までは静かだったんだよ。あんまり部屋にいなかったのかもしんないけど。最初はさ、なんか突然猫の声すっから、あ、飼い始めたのかなって思っただけだったんだけど、そのうち、ギャーってすげえ変な奇声みたいの上がったり、壁バタバタすんげえ音してたり。エクソシストの映画でベッドの上で跳ねるやつあんじゃん。あれみてえな音。何度か問い詰めたんだけど、シラ切りやがる」
「さっきも鳴き声がしてたってこと?」
「うん。押し入れに閉じ込めてんのかも。なんか籠った鳴き声だった。ねえこういうのってさ、どこに相談したら助けてくれる? あんでしょ? そういうの保護してくれるとこ」
さっき、私には何も聞こえていなかった。疑うつもりがなくても、脳裡に超合金ロボの話が浮かんでしまう。
「人間の子供の虐待なら児童相談所があるけど」
「児相じゃだめじゃん。猫だってば」
動物愛護法違反は警察の管轄だと思うけど、変な声が聞こえるくらいで真剣に取り合ってくれるかわからない。少なくとも、虐待が危ぶまれるから犬猫を保護しました、なんていう事例は聞いたことがない。すべて起こってしまった後の話がニュースになるだけ。
体中、コーラの糖分でべたついている。どこにかかったのかよくわからないけれど、私が気にしてあちこち触るたびに、「ねえ、ごめん、めっちゃかかっちゃった?」とセジはひたすら謝った。そんなことどうだっていい。とてつもなく難解な問題を、いくつも同時に持ちかけられているようでいらだった。
「謝るならもうあんなこと絶対にしないで」
「わあった! ごめん! 約束する!」だから嫌いにならないで、とセジは両手を合わせた。ボトルは直撃しなかったし、相手にも怪我はなかったはず。でも彼は通報したと思うし、部屋に侵入しただけでも罪だ。セジは未成年だけれど、親元で暮らしていないことが論われて仇となり、波及を広げそうな気がして心がざわついた。たとえ二度とやらなくても、この一度がどんな影響を及ぼすか。
「ねえ、おれやばい?」セジは財布の中に保護司の名刺を入れていた。「なにかあったらこれ出せって」縁がボロボロになった名刺を見せる。「野木知坂」という名前の横に、ペン描きの素朴な似顔絵があった。髭を生やした眼鏡の男性。身元引受人とまではいかないかもしれないけど、彼を気にかけてくれている存在なのだろう。
ともかく私の前を歩かせ家につくと、鍵を開ける前からセジは、「ソラちゃ~ん」と甘い声を出した。部屋の明かりを点け、タオルを渡して湯張りスイッチを押す。「なんかおれ超ばっちいな?」
玄関先で服を脱ぎかけるのを見て、それを止める。前面にある月極駐車場に、乗用車が一台、バックブザーを鳴らしながら進入しようとしている。ヘッドライトがこの家を正面から照らした。
「ねえ。猫どこ」入口で突っ立ったまま、セジは猫を探した。
「いいから入って」シャッターを降ろすためにガラス戸を開ける。前置きをする余裕もないままにカーテンがはらけ、姿を現した水色の遺骨袋を私が床から取り上げると、セジは目を細めた。
「なんだそっか、ソラちゃんお星様だったの。キラキラ王子様?」
「お風呂で流してきて。脱いだやつは洗濯機に入れて」
「おれはいいよ。あっ、これ写真?」
私の手元を覗き込み、袋の口を絞っている房を指で掃った。
「ホシの王子様って甘くておいしいよねえ。おまえも甘い?」
「ふざけるのやめて、お風呂行ってよ」寒さと怒りで声が震えた。
「あー、マジか、なんかごめんね?」
咄嗟に連れてきてしまったけれど、一時凌ぎでしかない。状況を高じさせないためには仕方がなかった。クローゼットを開くとガウンが目に入る。毛布地で暖かい。入院中着ていたものだ。ワンピースタイプのスウェットとTシャツ、ガウンを抱えてセジに渡す。
「顕花サン、先に入ってよ。ぼく、ソラちゃんとお話してるから。服は今ばっちいから後で借りるねっ。ありがと」
セジが床に正座する。自分のことを〝ぼく〟と呼んだのが気に入らなかった。それでも押し問答すれば、訳の分からない苛立ちが容易く増幅していく未来しか見えなくて、私は口を閉ざした。
「ソファー使っていいから」言い残し、脱衣所へ入り戸を閉めた。
服を脱いで洗濯機へ入れる。先に入りたくはなかった。鎧を先に脱ぎ捨てるような気持ちになる。強張った力を抜きたくて八つ当たりするように浴室の折戸を押すと、歪な音を立ててドアが開いた。
浴室へ入り、シャワーハンドルをひねる。足元に湯を流しながら手に石鹸をなすりつけ、首筋を触ると妙にぬるぬるとした。髪にもべたつきが残っているから、浴槽に浸かる前にシャワーを頭から被って全身を濡らした。湯張りはまだ完了しておらず、給湯モニターの一部が点滅している。ふろの設定温度は43度だけど、体感では40度くらい。冬場はあまり熱くならないから高めにしている。
狭い視界を湯の水面で満たし、現実逃避するように項垂れた。両の足先がじりりと霜焼けたように赤くて痒い。小指裏の皮が捲れて血が出ていた。足指の股に手指を入れ、魚のヒレをほぐすように少し揉み、ふくらはぎへ手を伸ばした。気持ちを鎮めたかった。
湯の中を漂う縮れ毛を排水ストラップへ流す。私の膣は全長から4センチほど切られて縫われ、深部は閉じられている。穴はあるけどたどり着く先はない。昔は、湯船に浸かればお湯が膣の中に入り込んで、寝間着に着替えた後で漏れ出て下着をすっかり濡らすようなことが度々あった。当然今ではそんなことは起こるはずもない。
脱衣所の引き戸を開ける気配がし、折戸超しに影が動いた。大きくないはずのセジの体躯が妙に大きな影を映して私は息を呑んだ。
「ねえ、暖房つけていい?」
「……いいよ。わかる?」
ほっとして応じると、彼は「見てみる。ここ寒くね?」と軽い笑い声を立て、引き戸を閉めて出ていった。しがない息が漏れる。
折戸の上部に、簡易ロックがついている。使ったことはないけど、上方向にスライドさせると開かなくなるやつだ。かけようかという思いが頭を掠めたが、自意識過剰以外の何でもない気がした。
湯舟の中ほどまでお尻を滑らせ、体を深く沈めると、だらりと伸びきった雑煮の丸餅のように腹部が上を向く。それは土用波によって海の浅場まで運ばれた八月の海月みたいに近くを彷徨っていて、決して手を伸ばしたいとは思えない代物だった。
瞼を閉じて一呼吸する。やっぱりロックはかけておこう。浴槽の縁に手を置き、立ち上がろうとするとガチャリと音を立てて折戸が開いた。思ったより白い肌を晒したセジがタイルを踏んで入ってくる。彼はそのままひょいと浴槽を跨ぐと、躊躇なく身体を沈めた。
「あっちい~」湯が波立ち、愕きで視界が明滅する。
肩を竦め、対面して座ると湯を両手で掬って私の顔にかけた。
「なにっ……して、ん…のっ!」
「風呂だろ? 寒かったんだもん。リモコンわかんなかった」
「そういうことじゃないってば。出てってよ」声が震えた気がしたが、震えたのが声だったのか体だったのかわからなかった。
「もったいねえじゃん。二人で入れば水が半分でいいって昔ばっちゃんがいってた。んあ、半分はいいすぎかなあ?」
「出てって」
「ええー、別によくね?」声がへらへらと笑う。私は陰鬱ともいえる汚泥のような苛立ちに打ち震えた。洗い場まで持ち込んだバスタオルを片方の腕で引きずり寄せ、湯船に沈めて両腕に抱いた。
「なあ、それなに。なんで隠すの」
「見せるようなもんじゃない」
「見たい」セジが手を取り、タオルを奪った。私の脚はセジの体が邪魔をして身動きがとれなかった。勢いで飛沫が飛び散る。浴槽の淵にタオルがべちゃりと張り付いて、私は剥き出しになった。
「……ごめん」
呟いて立ち上がり、浴室から出ていく。折戸の向こう側から引かれた手すりがカチャリと丁寧な音を立て、扉が閉ざされる。
水面下で私のなけなしの誇りは一瞬のうちに溺れて屈した。そもそもそんなあるかないかわからない程度の誇りはあったとしても偽物だったかもしれないけれど。それでも私はショックだった。裸を見られたことよりも、勝手に浴室に入ってこられたことよりも、この胴体に遺された無様な手術痕について、彼が何も訊かなかったことに傷ついていた。シャワーヘッドの付け根から、余った水がたらたらと流れてホースに道を作っているけれど、所詮これも時が経てば止まる。心の熾火は息の根を止めず、飽くことなく私を貪る。自分を律して立ち上がり浴室を出ると、足元にタオルが二枚、きっちり畳んで置かれていた。そのうちの一枚で髪と体を拭き、洗面台に広げると服を着てリビングに戻る。天井の照明は落ちていた。フロアランプの仄かな赤みが、床に座り込んだセジの背中を照らしている。渡した部屋着を着ておらず、汚れた服にまた袖を通していた。
ソケット球がちらついてカーテンに映る影が揺れる。そろそろ寿命なのかもしれない。セジは気配を察すると、背中越しに言った。
「帰るね」
「……服、いいの?」
「いらない。ありがと」立ち上がり、セジは振り返ることなく出ていった。玄関扉を開けたあと「鍵、かけてね」と声だけを残して。
彼の去った十秒後の玄関へ行き、錠を落とす。タイル敷きの三和土は冷気を湛え、足裏はひどく冷たく感じたが不快ではなかった。
セジは傷の理由を訊かなかった。話す準備はとっくにできていたのに、そしてそれを私は今自分で初めて気づいているのに、訊いてもらえなかった。理由を尋ねる価値もないほど、そこに意味がないように受け取られた気がして、無性に切なさがこみ上げた。リビングのドアを後ろ手に閉ざすと涙が溢れ、私はしゃくりあげた。
セジが纏っていたお香の香りが部屋を浸蝕している。彼のために出したガウンとスエットを掴み洗濯機に投げ入れた。蓋を閉め、スタートボタンを押すと、勢いよく水栓が開放されたが、しばらくするとエラー音が鳴り、蓋を開けろと指示が出た。ガウンに厚みがあるせいで嵩張っている。押し込み直して蓋を閉め、再開してもまたすぐにエラーになる。直接手を突っ込んだせいで、未希釈の液体せっけんのぬめりが腕についた。歪に揺れ始める洗濯機の両脇を抑え込むように両手をつき、前傾姿勢で下を向いて立ちすくんだ。
三度目のエラー音が鳴る。水を吸ってずっしりと重いガウンを引きずり出して浴室の床に投げ捨てると、脱衣所の樹脂フロアが水浸しになった。四つん這いになって床に張り付く。こんなときタオルはなかなか水を吸ってくれない。柔らかいクッションシートは膝には優しくても、殊更にそれが情けない。虚しさに涙が落ちた。
見られてしまった、見られてしまった。この無様な体を見られてしまった。そう思ったら涙が止まらなくなった。恥じることなんてない。これは私が耐え抜いた証なんだから。それでも涙は止まらない。床を拭いても拭いても新たな水滴が落ちる。悔しい。きれいだった肌も、うっすらだけどちゃんとあった腹筋も、すべてが失われた。もう誇るものなんて何も残ってない。年齢の割に褒められた脚も、少し垂れてはいるけど丸かったお尻も、ぶよぶよと浮腫の塊になって、流れ切らない余ったリンパ液はどんどん増殖して心と身体を蝕む。私の体は詰まった下水管のようなもの。排水ドレンから立ちのぼるヘドロのあの嫌な臭いに鼻を近づけようなんて人はいない。せいぜい漂白剤をぶちまけて、一晩置いておくだけだ。この体には漂白剤も高圧洗浄もかけられない。緩やかに汚水をため込み、ゆっくりと腐っていく。背中についた猫のひっかき傷を、かつて好きだったあの人は悲しんだけれど、それは私の勲章だった。愛しいものが遺した爪の傷痕を私は悔やんだりしない。でも私の内側に遺ってしまったこの命の代償は、二度と誰とも抱き合ったりなんて絶対にしないと簡単に決意させるのに充分すぎるものだった。
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