3 番のつばめ
「ひでえよ。顕花サン、病気だね。おれを避ける、びょ・お・き」
いざ会ってみると、鬱々としていたのがバカらしくなるほどセジはけろりとしていた。不貞腐れたけれど、責める様子はなかった。予想内の反応だったとはいえ、平然とした様子は寂しくもあった。
『ごめんね、コーヒーの土は私が持ってた。これから持っていくけど、育て方をまとめた紙も、一緒にポストに入れておくね』
その日は月曜日で、バイトのシフトが休みだということは覚えていた。出かけている可能性の方が高いと思ったけれど、それならそれで構わない。でももし彼が部屋にいて、植え替えが終わっていなければ手伝うつもりでいた。神様が私に持たせる荷物の、運試しのような気持ちもあったといえばあった。
「もおーいきなり! 先に言ってよ。撮影ブッチしてきちゃった」
家を出て駅に向かっていたらしく、セジは走って戻ってきた。
「ごめん……大丈夫だったの?」
「いいよ、今日のはおれじゃなくても全然いいって感じだったから。お金もらえたらラッキーってだけ。顕花サン来てくれるんなら、なんでも断わっちゃうケド!」
「……コーヒーの土ごめんね。持ってきた。あの子どう?」
「いまんとこ元気だよん! 見てやってよ、植え替えたよ!」
部屋は少し模様替えされていた。カーテンは相変わらずなかったけれど、友梨奈が渡した秘色のショールが壁に掛けられている。
畳の真ん中に小ぶりの古めかしい机が鎮座していて、上に青磁の香炉が飾ってあった。昭和の文豪が使ったような文机だ。薄い引き出しが横並びに二つ。雨に晒されたのか、天板の色は抜け落ち光沢も失われていたが、赤みの深い元の色合いの気配が残っていた。さすがに紫檀ではないと思うけれど長年使われていたことがわかる。
「どうしたの? これ……随分かっこいいね」
「ゴミで出た! いいでしょ?」
「また拾ったの?」
「またってひどいなあ」
セジは窓際の隅にあったオーガスタを香炉の横に置くとその前に座った。両膝を揃え、引き出し下の狭い空間にねじ込むようにずらし入れてから、机上を両手でさすった。
新しい鉢は素焼きのテラコッタでたぶん8号か9号。牛乳パックから一足飛びにこれでは大きくなり過ぎた気がしたけれど、連絡を途絶えさせたのは私だから今さら言えない。
「オーちゃん、ごはんきたよ! よかったね」
改良土は鉢を変えるときに同時に混ぜた方が馴染みやすかっただろう。でも急ぐことはないとも言っていた。パウチだけ渡して帰ろうか? と思ったが、セジが鉢に向かって話しかけるのを聞いて言いだせず、その場で土を足すことにした。
「はやくやろっ?」
「……下になにか敷いた方がいいかも。新聞紙とか……ないか」
「今日管理人のおっちゃん休みなんだよね! なんかあったかな」
セジが畳んだ服の山から一着、手にするのを見てそれを止める。
「少し足すだけだし……。服汚れちゃうよ」
「そう? んならそうする」
そうはいったものの、セジの両手はすぐに土に塗れた。土の表面を指先でほぐし、根に触れないよう丁寧に肥料を混ぜ込んでいく。セジは躊躇なく爪先を土に刺し、塊を見つけると指の腹で潰してばらした。その姿は砂場で遊ぶ幼子そのもので、みるみるうちに汚れは広がり、爪の内側だけでなく節くれだった関節やあかぎれの中にまで紛れ込む。文机の上から下に落ち、畳の目地まで入り込んだ。
「やっぱり、なにか敷いた方がよかったね……ごめん」
「だからなんで顕花サンが謝んだって。そういうの、もう禁止な」と頬に皺を寄せた。肥料を混ぜ終えると、セジは手刀を立て、机上に散った土を寄せ集めた。テラコッタ鉢は素朴で良かったけれど、青磁の香炉と比べるとやはり見劣りした。
「よっしゃ、これでいいかな」
役目を終えた牛乳パックからガムテープを剥がしていく。それを着ていたインナーの裾にセジが貼り付けていくのを見て、ふと懐かしい記憶が呼び起こされた。
ばあちゃんちの仏間で受験勉強をしていた高二の冬、私は炬燵の赤い天板に付箋を貼り、覚えきるまでそれを隠したり顕したりしていた。天井の豆電球は切れていて、卓上にはボンボンの付いた傘を持つ人参色の電気スタンド。照らされた手元から隣のうっすらとした暗がりへ目を向ければ、そこで静かにばあちゃんが眠っていた。蕎麦殻の枕には米糊の利いた白いさらし。いつの間にか寝てしまえば朝には私は毛布を背負い、スタンドも共に眠りについていた。
セジの指が牛乳パックの内側に残された土を浚う。湿った土が示指の窪みに入り込むのを厭わず、米粒ひと粒を拾うように丁寧に寄せ集めていった。彼が土塗れの指を髪に埋めて頭皮を掻くと、雑に括った髪が乱れて唇にかかった。
「風呂入りてえな。今日現場でシャワー浴びさせてもらおうと思ってたんだけど、休んじゃったからなあ」
ベランダのガラス戸を開けて半身を乗り出し、体についた細かい土を払う彼に、一言訊ねてから廊下の収納を開ける。
やはり掃除機は見当たらない。束になった紙資源の中から適当な紙片を取り出し、ちりとり代わりにする。ティッシュに水を含ませて畳の目に嵌り込んだ筋状の土汚れを拭こうとしたけれど、傷んだイ草の綻びを無理に開かせることになりそうで軽く掃うに止めた。
「箒なんてないよね?」
「ねえけど風呂場に雑巾ほしてあるよ!」
着ていたシャツに手をかけて脱ごうとするセジの姿が目の端に映り、私は横を向いて脱衣所の戸を引く。入口には小さく一段、上がり框が設けられていた。
「今日風つええな」
空っ風が吹く。ガラスとコンクリートの狭間で音を立ててシャツがはたかれると、雁帰月の風が畳の上を低く羽ばたき部屋を引き締めた。廊下まで流れ込んだ風はそのまま玄関へ向かい、そこでさざ波立つ。框に上がった私の足下にひんやりと冷気が漂った。
黄ばんだ白陶の洗面所には水色バケツがひとつ置かれていて、使い込まれた雑巾が干され、パリパリに乾いている。真四角に近い浴槽の中には段ボールが山積みになっていた。「あれなに?」
「んー、内職?」
「内職もしてるの?」
「いや、首になった。っていうかブッチ? 無理だったわ」
開封済み段ボールの、天面フラップの隙間から、透明ケースに入った素材が見えている。「プリザーブドか」しかもレインボーローズだ。赤い内張りの化粧箱が剥き出しで一番上に乗っていた。
「なんか花だから簡単そうって思ったらまったくわかんなかった」
プリザーブドフラワーは、生きたまま作る花のミイラ。生花の一番美しい時期に色素を抜いて特殊な加工を施す。当然枯れないし水も要らない。スカイブルー、ラベンダーパープル。生花にはない偽色に染められることもある。贈り物に人気で値段も高い。弁償させられるのではないかと、私は心配になった。
「これ高いんだよ。平気? 返すとか……」
「んー、送れって言われたけど箱開けちゃったしさ、ごねてたらなんか今度取りに来るみてえ。とにかく捨てるなって言われた」
「大丈夫なの……?」
「置くとこねえし。それに首だけの花ってなんかキツイ」
ぽつりと付け足し腕を掻く。目につかない場所に片づけておきたい気持ちはわかる。
「スーパー銭湯とか行くなら……それくらいなら、出そうか」
金山から一駅先に行くと、ビジネスホテル併設の、古いけど大きなスーパー銭湯が一軒ある。そこが一番近い気がした。
「あー、ごめん、おれ銭湯入れない」
腕を捲ると、横断歩道みたいな太線が、腕を輪切りにしていた。スクエアが組み合わされた柄で、プールならラッシュガードを着れば平気だろうけど、銭湯でそれをやったら目立つだろう。手の甲にもあるから予想はしていたけれど、思ったより上まで続いていた。
「なんの柄?」曲線はなく、タトゥーのイメージから離れている。
「コレ? シヌエっていうらしい。ばっちゃんの形見みたいなもんかな。ほんとは男はやらないんだって。似たデザ探して撤泉サンに頼んだ。あ、ほら、つばめやってもらった人」
嬉しそうに彫り師の名を口にする。「おれ、ばっちゃん子だったからさ。死んだって聞かされたときにね」
形見というのを聞いて私は銭湯に話を戻した。
「……そういう人、他にもいるんじゃない? タオルで隠せば」
「腹にもでかいのあるからさ」
セジは右手をいつか理科でやったフレミングの法則のように形づくると、下腹部を中指で中てた。指の反り具合にぞくりとする。どんな図柄なのか好奇心は湧いたが、それを伝えれば簡単に実現してしまいそうで口に出すのはやめた。セジは数秒間そのままでいたが、腹部からを手を離すとそのまま伸びをして、ふっと全身の力を抜いて畳の上に寝転がった。
「なんだつまんないの。見せてって言ってくれると思ったのに」
うつ伏せで足をバタつかせる。それからはたと動きを留め、起き上がった。
「おれ知りたいことあるんだ! ちょっと教えてよ」
文机の引き出しからノートを数冊取り出す。普通の大学ノートだったけれど使い込まれていて随分と古い。カルタ札を広げるように畳の上に並べると、一冊を手に取ってページをめくった。「あったあった! えーっと、これだ」
指した先には、三行。罫線にそって丁寧な文字が書かれている。
『水兵たちは、5千海里ごとに新しくツバメのタトゥーを入れる。その距離は、ニューヨークとテルアビブ間に相当する9260キロ。地球一周は2万1639海里なので、ツバメ約4羽分だ。』
その下につばめの絵がいくつか描いてあった。
「どういう意味が教えてよ。わかんなくって」
「これどうしたの?」
「映画の中で出てきて、わかんなかったから昔メモった。タイトル忘れたけど、めっちゃかっこいい入れ墨いっぱい出てきてさ! そんときにコレ入れたんだよね」そういって髪を掬い、首筋を晒す。
つばめは幸運、望郷、安全を示すモチーフでもあるから、五千海里の航海を生き延びるごとにタトゥーを刻んだということだろう。
テルアビブはイスラエルの首都だけど、ビートルズの話をしたときにイギリスってどの辺かと言っていたくらいだ。地球儀でもあれば別だけど、ニューヨークの位置も不明瞭だろうし、つばめが四羽で地球一周分と喩えられても漠然としている。
どう説明しようか迷っていると、セジが一人芝居を始めた。
「おいジョニー、東の日本って国を知ってるか」
親指と人差し指で輪っかを作り、煙草を咥える真似をしながら、畳の部屋に吹く海風に、セジは吹かれて黄昏れる。
「いいや知らねえよ、サム、それよりおれはついに二羽目のツバメを手に入れたぜ」
「おれは故郷に帰るまで二羽目は刺さねえって決めたんだ。とっくに一万マイルは超えてるがな」
「サム、どういうことだ?」
「日本にはダルマっていう木彫り人形があってな。願掛けをするために、片目を塗らないで残すらしい。海賊みたいだと思わないか? 風貌も、赤ひげのバルバロスそのものだ」
「残酷な取引だな。片目を担保に無事を祈るわけか」
「さあどうだか。だが無事航海を終えたら、そんときツバメを番(つがい)にしてやろうって、おれは思ってるのさ」
そこまで言うと、セジは指につまんだ見えない煙草を、ピンと海に弾き捨てた。
「ど?」
「すごい……よく覚えてるね」
「うん、おれバカだけど、まんま覚えんのはめちゃ得意!」
「すてきな話だと思う」
「だろ? 何回も観たもん!」
映画のタイトルはわからないけど、スワロータトゥーはアメリカの船乗りたちに広まっていた文化だった気がする。ノートのメモに戻り、どこがわからない? と訊ねると、全部わからない、と答えが返ってきて私は改めて書き残された三行に目を落とした。間違ったことを言わないように、なるべくわかりやすい言葉で説明する。
「水兵っていうのは海軍の兵士のことだと思う。海軍はわかる?」
セジが肯く。軍は陸、海、空と三つに分かれていて、セーラー服を着ているのが水兵だ。あの大きな白いセーラーカラーは、海の上で音に耳を澄ませるためにある。「セーラー」は水兵のことだと話すと、セジは目を輝かせて先をせがんだ。
反応を見ながら先を続けた。五千海里、「海里」は海の距離を測る単位で、陸で使う一里は四キロだけど、海里はそれの半分以下だったはずだ。五〇〇〇海里が九二六〇キロと答えが書かれていたので、一海里はざっくり二キロメートルとわかる。
イスラエルは地中海沿岸にあり、シリアと隣接してて、南西にエジプトがあって、死海がある。社会の授業で世界地図を習った頃は、すべての国旗を当てられるくらい夢中になって国名や首都を覚えて眺めたのに、学んだ知識はどんどん忘れていっている。
とくに島国の日本は、地理や境界線に関する興味が薄いそうだ。ヨーロッパやアメリカ大陸、中国、ソ連共和国、隣国と陸続きで国境線が何度も書き換えられてきたような大地に住んでいるかどうかで、国民性が大きく変わってくるのは当然だけれど、意識しなくても平和に生きていられる国に私たちは住んでいる。おおよそ説明を聞き終わると、セジは首筋をぼりぼり搔きながら言った。
「やっぱよくわかんねえけど、すんげえ長い航海をして、その大体一万キロ? が過ぎると、つばめを一羽彫ったってこと? それが四羽になると地球一周したって意味?」
「うん、合ってると思う」
「北海道からここまでどんくらい?」
「東京・大阪間で四〇〇キロだから……千キロくらいかな? でも北海道はすごく広いし。北海道のどの辺りかでまだ何百キロも変わってくると思うけど……どうして?」
「じっちゃんち、足寄ってとこなんだけど知ってる?」
「あしょろ?」
伯父さんの家に預けられる前にいた場所のことだ。心の準備をする間もなく、セジはするすると話し始めた。
「うん、足寄。北海道ね、ふき畑と森ばっかでなんもねえとこだったよ。夏でもさみいし、真っ暗で怖えし、でも楽しかったな。オンネトーっていう沼があんだけど冬はそれが全部凍るんだ。氷の中にでっかい泡みたいな玉ができるんだけど、それ飽きずに探してたな。すげえよ、凍ってても氷の表面をこうやって手で溶かしていくと青って言うか、緑っていうか、苔みたいな色が見えてきて。あの色なんていうんだろうな。やばいくらいきれいなんだ。でもなんかすげえ怖くて、でも平気な気もして、このまま一緒に凍ってもいいやって……まんまそこで寝てたらじっちゃんがきて顔張られたな。ああ、見せてえな……。おれ、色の名前とかも全然わかんないから、なんかこう、めっちゃむずむずする」
「もどかしい……?」
「イライラする、そのもどかしいってのもあんまわかんねえ。顕花サンはなんでもいっぱい知ってっじゃん。どやって覚えたの?」
セジはそういって、文机の上で口を開けている香炉を撫でた。何か答えた方がいいだろうかと迷ったけれど、何も求められていない気がして、私は黙って彼の手元を見つめた。
「ちょっとこいつに似てるけど、色、でもたぶんもっと濃いな」
「何も入れないの?」
「ん……ここに何入れたらいいか思いつかねえ。オーちゃんはぴったりだって、なんかそう思ったんだけどな」
「そのうち見つかるよ。急ぐことない」
「でもそっかあ、あれでたったの千キロなんかあ……つばめってすっげえな。――おれ、こっちくるときフェリーとバス数えらんねえくらい乗り継いだんだけど、結局三日かかったんだよね。フェリーは雑魚部屋で酔うし吐くし寒いしやべえ奴いたし。体も痛えし」
空々しく聞こえないだろうかと慮りながら、「大変だったね」と口にすると、セジは懐かしそうに笑った。
「へっちゃらへっちゃら。屋根あったし、おにぎりくれるおばあちゃんとかもいたし」
渡り鳥は必要な場所を探して何千キロも飛び続ける。誰かに教わらなくとも、自然界の動物は行く道を知っている。人間が進化の過程でビタミンCを体内合成できなくなったように、道具を持った私たちは本来必要だった能力を敢えて切り捨ててきている。その道具を失ったとき、私たちは単体ではきっと生きていけない。
「なあんで、つばめは道に迷わねえんだろうなあ」
すげえすげえと繰り返しながら、セジは足裏を合わせた胡坐で、膝をぱたぱたと翼のように揺らした。
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