2 春にはまだ遠い

 桃の節句はまだ随分先のような気がするのに、ピリカではもう雛あられが並び始めている。昨年末にはクリスマスを迎える前から正月用のお屠蘇や鏡餅も売られていたから、棚替えの頻度を下げて従業員の負担を減らすための苦慮によるものかもしれない。

 この時期になると、ばあちゃんちの庭にあった姫林檎の木に、毎年幼少の鶯がやってきていた。キョッ、キョ……ケ、キョ…ケキョと、囀りとは到底いえない声を響かせ、まだ眠っている春を起こす準備をしていた。私は縁側でそっと目を瞑り、がんばれがんばれと心の中で唱えていた――。

 小人パキラの横に空の骨壺を置いて日に当てる。外は寒いけれど、日中ガラス窓から差し込む日差しは温かい。遮光カーテンの内側はぽかぽかに熱が蓄えられて暖かく、空の大のお気に入りだった。

 訪問火葬で焼いた日、担当者は、骨壺の中にシリカゲルを入れるといいですよと言い残した。驚いたけれどやはり不安になり私は言われたとおりにした。それでもまだ不安が残り、二重に封ができる透明のジップロックに骨壺を丸ごといれ、青い分骨袋の中に戻した。

 遺骨は五〇年から百年もすれば溶けてしまうという。陶製の丸蓋は上に乗っているだけで、傾ければすぐに中身が零れてしまう。

 手元供養をする人が増えて、最近ではパッキンがついた骨壺もあるそうだけれど、本来骨壺は土の中に埋めるものだ。地中で風化させるためにはそれが自然なのだろう。

 カビて欲しくはないけれど、微生物が骨に巣食うことは自然の摂理のはずだし、土に埋めれば骨を食べる虫だっているくらいだ。自然界の仕組みに逆らって、遺骨を手元に置いて白く保とうとする行為は遺された私たちのエゴでしかないとそこまで考えるくせに、私は空の骨をジップロックから出せない。白くきれいなままでいてもらおうと保っている。土に埋めたいと願いながら、土に埋めない。庭がないのをいいことに、埋められないで済ましている。こうやってお日様の元へ運び、横で添い寝をしていても、中で結露してしまわないだろうかと考えている。先に死んだペットが待つ『虹の橋』の絵本を読んで泣いたり、転生して再び飼い主と出会う犬の映画を見て号泣したりするくせに、命は一度失われてしまえば、二度と戻ることはないのだと理解しきっている。私の中で分裂した夢と現実は絶対に融合せず、絶対にハッピーエンドを迎えない悲しいおとぎ話として君臨し、結局悲しい出来事は決してこの世界から消え去ることはないという事実を真実として私に突きつける。

 ソファーに座ってカーテン越しに外を眺める。晴れた日には、ばあちゃんは一面のガラス戸のある縁側の外廊下でカーテンを開け放ち、床板の上で新聞を広げて背中を丸めていた。古くなって立て付けが悪くなった木枠をサッシに変えたときに一緒にカーテンも取り付けたけれど、ばあちゃんはそれを殆ど閉めなかった。十代だった私は紫外線を浴びるのが嫌で、せめてレースカーテンだけでも引こうと必死で、よくばあちゃんとイタチごっこをしていたっけ。

 三尺の縁側には、布団を干したり、その上で寝ころんで昼寝をしたりした。ばあちゃん自ら綿を詰めて仕立てた布団は座布団くらいの厚みしかなかったけれど、いつもお日様の匂いがしていた。白さらしでできた布団カバーは、青色の絹かざり糸で四隅をバッテンに針を通してずれないよう閉じてあった。絹かざり糸は座布団の隅についている房に使う糸で、幼い頃の私はそれをただの飾りだと思っていた。どうしてこんな邪魔なものを付けるんだろう、ハサミで切っちゃおうか、などと考えながら絡まった房を指でとかしていた。

「これはなあ顕花、箒の先に似とるだろ?〝掃く〟んは〝払う〟いうて縁起のええこったから、悪いことが起こらんように、お客さんの座る座布団につけとるんだわ。最近じゃついとれせんやつばっかだもんで、馴染みがのうて、変な気するわ」

 結局切りはしなかったけれど、もし私が徒(いたずら)に切ってしまっていたとしてもたぶん怒られはしなかっただろう。黙って房をつけ直し、頃合いをみて諭してくれたはずだ。

 布団カバーや座布団カバー、どちらも実家で使っていたものはファスナー式だったから、取り外せないのは不便だ、汚れたらどうするんだろうと思っていたけれど、なんのことはない。洗濯が必要なときはとじ糸ごと外し、また糸で閉じるだけだった。

 母は新しい布団カバーや毛布をせっせと送り付けてきた。ばあちゃんがそれらを使うことはなく押し入れの奥へしまい込んでいた。自分の家だけでは飽き足らないのか、大きなごみ箱を送り付けてきたこともあった。私はいつもイライラしていた。

 流しに三角コーナーを置かないこと。生ごみは庭へ埋めること。古着の釦は外して保管しておくこと。そんなやり方のすべてが好きだった。客間には旅館にあるような藤製の屑籠が置いてあったけれど、中身は常にきれいに取り除かれてチリひとつ残ってなかった。

 どうして母にはばあちゃんの気持ちがわからないのか、ばあちゃんはごみを溜めない人だ。溜めこむ前にきちんと処理をする。ごみ箱なんて要らない。家も気持ちもすべてにおいて風通しの良い人だった。何もかもため込む母とはまったく違っていた。

 今年もお墓参りをしないまま命日は過ぎた。墓前に立ったところで、そこに祖母はいないと常に冷めた目で見ている私がいる。命日なんて関係ない。そんなものは日常で故人を忘れている人たちが思い出すために作った単なる記念日。片時も忘れたことなどない。だから記念日なんていらない。そう思いつつもしこりが胸に詰まるのは、しまい込んだ鉄瓶に錆がつくのと同じようなことなのだろうか。


 コーヒーの土を失くしたかもというセジのメールに、私は返事をしそびれていた。東友でもらった土のサンプルは、やはり私のカバンに入っていた。ごめんね、私が持ってた。そう一言返信をすればいいだけのことだった。でも病院で、続けて届いたセジの二通目のメールと、診察待ちメールを同時に受信したあのとき、線香花火の種がぽとりと落ちるようにふっと燈火が離れてしまったのを感じた。

『けんかサン☆まだ寝てる? 鉢植えゲット! いつやる?』

 友梨奈の気配を感じた。たったそれだけのことだった。私は、自分が浅ましくてすごく汚いものに感じられた。あれから数日経っている。もう植え替えも終わっているかもしれない。オーガスタの育て方をまとめた紙も渡しそびれたままだ。約束を反故にしてしまっているような小さな罪悪の破片が、なかなか消えない燃え残りの炭のようにこびり付いている。気づくとまた歯を嚙みしめている。ピリカで偶然会うのを待つか、バイト先へ持っていくか、セジの部屋へ……ポストへ入れるか……。彼がいなくても玄関に置いておけば後でメールを一通送ればそれで済む。

 セジとやり取りするうちにわかったことは、彼はその派手な風貌からは想像もつかないほど純真で初心だということだった。柄の悪い言葉は多いし、姿勢も態度も悪い。実際の素行も良いとは思えなかったけれど、それでも言葉の節々から彼が大事にしているものはきちんと伝わってきた。自分ルールを律儀に守り、清掃の人を見ればいつも感謝を伝えていたし、歩行者信号が点滅し、横断歩道に取り残されたお年寄りがいれば「あのばばあ、ばかだなあ!」と走って行き、車を制して手を引いた。野良の仔猫がいればしゃがみこみ、どこに親がいるだろうかと遠巻きに探して見つかるまで動かない。落ちている煙草のフィルターを拾ってポケットに突っ込むと、「寺の爺に『これは溶けないゴミだから絶対捨てるな』って昔説教された」と笑った。その行動のどれもが、彼の持つひとつの規範に依るもので、それらは私を含めた多くの大人が失っていることばかりだった。

 一呼吸するたびというのが大袈裟でないほど、おれバカだから、と彼は口にしたけれど、それは勉強の仕方がわからないだけで、恒(つね)になにかを学びたいと思っていることが伝わってきた。知識に対してとても貪欲で、明日にでも退学になるほど出席日数も成績も足りなくても、担任の先生や地域の補導員に目をかけられながらなんとか学校を辞めずに社会で生き抜いてきているのがわかったし、彼を放っておけない周りの人たちの気持ちもよく分かった。

 セジを見捨てることは、保健所に収容された期限付きの保護動物を放置するようなもの。道端に倒れる瀕死の野良猫じゃない。彼にはまだ眩しいほどの生命力がある。だからこそ、彼は不安を抱えつつも牙を剥き、命尽きるその瞬間まで逞しく生きるだろう。でも周囲が手を伸ばさず放置すれば、彼は一転して落ちるところまで落ちて闇に染まる。そんな危うさだった。

 セジに手を差し伸ばしてしまう周囲の人たちの行動は、同情に起因するのではなく、希望からきているように感じられた。彼を助けることができたら、この世にはまだ救いが残っているような気がして。だから、セジに情を向ける他の人たちとは会ったことがなくても、彼を見護る同志といった感情を、私は勝手に抱えていた。

 できることなら何でもやってあげたいという気持ちは確かに湧いた。干上がっていたはずの湖の底から強制的に水が汲み上げられるように、それは不思議な引力を伴って湛えられた。でもそれは、私でなくてもいいとも思えた。そうあれたらと、羨望にも似た無暗な願いはあっても、病院と買い物へ行く以外には殆ど家から出ず、引き籠っている私に一体何ができるというのか。その現実が私に落胆を与えた。彼と会うと、私の内に僅かな希望と万能感が芽生えた。でも自分の部屋に戻った瞬間、共に過ごしたさっきまでの時間と出来事がすべて作り物であるような解離を呼び起こしてもいた。

 私は他人の人生はおろか、自分の人生に対するキャパシティーさえ失っている。輝く未来を夢見れば苦しむ。だから私は家財道具も殆ど手放し、細々としたものさえ処分してこの数年過ごしてきたんじゃないのか? 明日への計画を持たないくせに、コーヒーを淹れて自分を癒そうとしている。小人パキラたちはなぜここにいるんだろう。私は集団自殺したいのか? 私は矛盾だらけだ。明日死ぬかもと思っているのに、まだ明日のことを考えている。来月のことを考えている。次の診察日が三か月先になればいいなんて、刹那からかけ離れたことを考えているのは他でもない私だ。

 雑念を振り払おうとスプレーとティッシュを持って床に這う。昔から私は苛々すると狂ったように掃除をした。誰かと一緒に暮らした時も、いらつけば黙り込み、ひたすらにシンクを磨いた。ガスコンロ、浴槽、洗濯機の排水溝、冷蔵庫の中。ひとつ片付けるごとに、頭の中のサイコロの目がパチリと揃うような感覚で気分はよかった。私は私の内側を掃除できない代わりに部屋を掃除する。

 病院であのメールを受けとったとき、私の頭を過ったのは友梨奈だった。今は友達でも、彼女がセジを好きなことは確かだろうし、おそらくセジもそれをわかっている。まだ二十代で親元にいて、しっかり学校にも通っている友梨奈には未来がある。

 二人の若さはそれだけで私という鏡を曇らせるのに充分だったし、わざわざその曇りを磨く必要も感じられなかった。そんなことをすれば虚しくなるだけだ。人好きのする犬と同じ。今の彼は気まぐれに尻尾を振って私に懐いているように見えるだけ。そこに絆の存在を見てしまわんとする浅ましさに、私は気づき始めていた。

 鉢植えを、友梨奈が彼にどうやって渡したのか、そんな些細なことを延々と考えてしまうくらいには気がかりが募っていた。どうやって牛乳パックから抜いただろうか、土の入れ方はわかっただろうか、友梨奈が持ってきたのは何号の鉢だったんだろう。根をほぐすとき、千切れてしまわなかっただろうか。訊ねたいことはいくらでもあった。でも私はそれを溢れさせることが恐ろしかった。

 ひとしきり片付けた後、私は床に伏した。硬くてひんやりした床は好きだ。体は冷えるけれど、気持ち悪さや痛みには鈍感になれる。床板に空が遺した爪痕が三日月を描いている。それを指でなぞったあと、私は左手首を撫でた。はっきり約束をしたわけじゃない。土を渡せないまま終わっても誰も私を責めないだろう。それでもこのままにすれば、彼がくれた信頼を裏切ることになる。

 土は持っていこう。小さな罪悪感から逃れたくて、私は返信を打った。改良土サンプルのポリ袋を取り出し封を開け、中を覗くと、それは思ったより柔らかく床に零れ落ちた。

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