4 幸せの王子
微かな沈黙が流れた。電波時計の連続秒針音が息を潜めた秋の虫みたいに時を刻む。製氷庫に新しい氷が落とされて音を立てると、それを合図とするようにセジが腰をあげた。
「甘いミルクティーが飲みたくなっちゃったな」
ブロンコビーンの閉店時間にはまだ早い。「本部の人ももう帰ってると思うし。コンビニ寄って、そのあと店行ってみるわ」
角にある倉庫を超えた少し先に資源ごみの集積所がある。明日は回収日のはずだ。空にしたペットボトルを持って出よう。途中まで送ってくよと言いかけると、セジが「あ!」と口を開き、ソファーの横に置きざりにしていた『しあわせの王子』を手に取った。
「これなに? つばめじゃん! 見ていい?」
「ああ、うん。いいよ」
鉄瓶をしまい込んだままであることを悔やんだ。紅茶の茶葉は残っているが、豆乳で淹れると霙(みぞれ)立ちやすいし砂糖もない。気を取り直してエスプレッソメーカーの電源を入れる。ダイヤルを回して機能を切り替えれば熱湯が出せる。ミルクノズルから出てくる細い湯をカップに溜めながら、これからお茶くらいはちゃんと淹れよう、錆びてるかもしれないけど鉄瓶も出さなきゃと思う。
引き出しの奥にあったティーバッグでハーブティーを淹れる。これはレモングラスと紅茶のブレンドだから飲みづらくはないはず。いい香りがする。元気がないときレモングラスは私の心によく効いた。常備薬のようにため込んでいた。まだ残っていてよかった。
セジはソファーに座り、膝の上に絵本を乗せて表紙を開くと、カバーのそでの部分から丁寧に読み始めた。私もまだ読んでいない。温かいカップをセジの近くへ置くと、少しだけ離れて隣に座った。
セジは一文字一文字確認するようにゆっくり読んだ。私が見開きを読み終えて、さらにもう一度読み直しても、まだ次のページに進まないほどゆっくりだった。そっと彼の表情をうかがうと、伏せた視線で絵と文字を幾度となく行き来しながら、じっとのめり込んでいる。幼少期に絵本に接してこなかったせいだと気づき、苦しくなる。セジは途中で頁を戻して確認しながら、先を進めていった。
《 仲間とはぐれた一羽のつばめが、越冬のために温かい国へ行こうとしている途中、王子像の足元で羽を休めていた。そのあたりまではしっかりと覚えている。生きている間は、泣いたことがなく幸せに暮らしていた王子が、町の様子をみて涙を流し、自分の体にある宝石や金箔を貧しい人々に運んでほしいとつばめに頼む。
『王子さまの目をぬくなんて、そんなこと、ぼくにはできません』
『しんぱいしないで、どうかわたしのいうとおりにしておくれ』
ついに両の目に埋め込まれたサファイアをくり抜いて、マッチ売りの少女へ届けたつばめは、王子のもとへ戻ってくると言った。
『王子さま、ぼくは、もうどこにもいきません』
つばめは王子の目となり、町でみてきたことを残らず話した。金箔をはがしていくと、王子像はついにむき出しの鉛となり灰色となった。季節は冬になり、つばめは寒さで弱りかすかな声で言った。
『だいすきな王子さま、さようなら、おわかれです』
『とうとう南の国へ行くんだね、つばめくん!』
『いいえ、南の国ではありません。死の国にまいります』
つばめは王子にキスをすると、そのまま足もとに転げ落ちた。
王子の鉛の心臓は、そのときかなしみでまっぷたつに割れた。町の人たちは、みすぼらしい姿になった王子像をみあげ、こんな汚い像は壊してしまえと言って、工場の炉で溶かした。でもどうしても、二つに割れた心臓だけは解けなかった。心臓はごみ捨て場に捨てられ、そばには死んだつばめも横たわっていた。それを見た神さまは、天使をおつかいになって、王子のしんぞうとつばめを、天国に運ばせ、王子とつばめに永遠のいのちをお与えになりました。》
セジは見返しの白いページへたどり着くと、前へと戻っていき、すっかり灰色になった王子と、弱ったつばめが見つめ合う雪のシーンで留まった。一面暗色で描かれた見開きに、つばめの喉元にある赤い被毛がただひとつ遺された種火のように燈り、その上に白く降る雪の大きな粒たちが、小さな綿玉のように散りばめられている。
セジはそれをしばらく眺めてからさらに頁を戻し、両目を失いながらもまだ金色であった王子の肩に、そっと寄り添い目を瞑って休むつばめの姿を見つめた。
『君は南の国へ行きなさい』『いいえ、どこにもいきません』
そして彼は本を閉じ、言った。
「ねえ、顕花サン、おれ、この人に会いたい」
私は息をのんだ。オスカー・ワイルドは当然この世にいない。
「……このお話を書いた人は、ずっと昔の人で、もう生きてないよ。絵を描いた人はまだいると思うけど」
「これ別の人が書いてるんだ……」セジは意外そうな顔をした。
絵本では、文と絵を別の人が担うことは多い。胡桃ちゃんに読み聞かせたとき、同じような反応を受けたことがあった。名作と呼ばれる物語は現代の人たちの手によって次々と形を変えて出版される。結末が変わったり、残酷なシーンがカットされたりもする。
この物語は原書に近いと思うけれど、つばめが死に、王子も溶かされ、心臓は捨てられた。その結末を私は覚えていなかった。永遠の命を与えられたという部分にも少し違和感が残った。
セジは最後にもう一度表紙に描かれた三粒の涙を見つめると、「なんか、いやだな」と四粒目を零した。
横で一緒に絵本を眺めながら、じっと食い入る彼の姿を見て、勝手に彼が感動していると思っていた。私は自分の疚しさを恥じた。それは大人や保護者に通じる一種エゴのような正義感。情操教育に携わる大人たちや、教師たちの善導しようとする悪びれない心。
帯に「不朽の名作」と書かれれば、多勢はそう受け取る。もしぼんやりとした疑問を抱えても、その理由まで名状できる人は殆どいないはずだ。それは裸の王様でもある。自分が少数派なのか、真意を読み取れない自分の読解力が劣っているのか――まずは自分を疑う。疑問や、質問を投げかけることができるのは、一部の限られた頭の良い知識人や才能のあるアーティストだけなのだと。
この瞬間、彼の存在が私の中で大きく膨らんだのがわかった。何者にも邪魔されず、目に映るそのままに物事を捉える彼の視線。私が忘れていた、幼くてまっすぐな心。それをセジは失っていない。
私はなぜこの絵本を買ったんだろう。つばめに惹かれた。それは事実だけれど、セジに見せてあげたいという思いが心のどこかにあったんじゃないのか。中を読んで良かったなら、この本を彼にあげようという考えが微塵もなかったと言えるのか。
もしも彼よりも先に最後まで読んでいたら、私はどうしていただろうか。わからない。けれど、もし〝そう〟なら、私は自分が恥ずかしくてとても浅ましいものに感じられた。
帰宅したときに玄関口に置いたカバンを手に取り、ペットボトルを中へ滑り込ませて外へ出る。市内には十万本以上の街路樹があるそうだけれど、歩道橋の手前に目立つ看板が設置されていて、街路脇にずらりとロープが引かれ、工事灯がつけられている。ロープにまき付けられた赤いランプはさながらイルミネーションのように道路を彩っているけれど、それが管理不全のために大木化してしまったアオギリの伐採計画のためだと、貼られた掲示物が伝えている。
コンビニでミルクティーと、保温器の肉まんを頼むと、セジは使いかけのクオカードを三枚出し、その端数で支払いを済ませた。
「これみんながくれんだよね。でもおかげで財布ぱんぱん」
笑いながら後ろポケットに財布を押し込み、外へ出る。
「あったけ~」
肉まんの裏紙を外しながら駐車場の輪留めに座る。辺りにはベンチもなく客の車もなかった。私も横にしゃがんで膝を抱えると、「なんか敷く?」とセジが上着を脱ごうとした。
「そんなことしなくていいよ、寒いし」
談笑していると、乗用車のクラクションが聴こえ、ヘッドライトのハイビームが視界を一瞬埋めた。白いセダンだ。コンビニの駐車場に右折で乗り入れてくると、車体がバウンドするに合わせてバックミラーにかかった大麻の形をした芳香剤が大きく揺れた。
窓が開いて、運転席の男が話しかける。車内から音楽が漏れた。
「よう、やっぱセジじゃん、どったんよー、おま、こんなとこで」
黒いジャンパーの首元から、金属のチェーンが見えている。
「ちーっす、佐々原サン! セルシオ、カスタムごりごりじゃないっすかー。変わらずっすね! よくボクってわかりましたね~」
助手席と、後部座席にも三人乗っている。チャイムを鳴らして外へ出ていく買い物客が、大きく迂回して車体を避(よ)けていった。
「おま、ばかか? こんなとこでアームカバーつけたやつが座り込んでて目立たねえとでも思ってるわけ?」
「いやだあ~、もう、ボクちんがバカなのは、佐々原サンが一番よくわかってるじゃないですかあ」
男は鼻で笑うと窓についた肘を外へ出し、煙草の灰を落とした。
「ま、そだっけか、何してんの、買いもん? なー、それよりおまえまだあそこ住んでんの? あのぼろっちい公団」
「そっすよー。他に行くところなんてないですもん、ほんとボク、バカだし貧乏だから」
「うける、まだ親に捨てられてんだ」
「えー、きっついなあ、捨てられんのは一回だけでいいっす」
運転席の男は「どーする? こいつんちでよくね?」と後部座席を振り返ると「おまえんとこかせよ」と再びセジに言った。
「え、なんすかー? ポリ公来るようなのはちょっとカンベンですよ? 鍵なら開いてますから勝手に入っちゃってください」
男はちらりと私を一瞥したが、歯牙にもかけない様子で言った。
「平気だって、乗れや送ってやる。おいお前、後ろ席開けろって」
「ごっめん! おれ行くね? また埋め合わせすっから」
拉致されるように、セジは車に乗せられていった。カバンの中で紙ががさりと音を立てる。言いようのない嫌悪感と、渡しそびれたしこりを胸の内に残し、私は街路に立つアオギリを見つめた。
剪定・伐採計画の受託者の欄に造園業者の名前が記載されている。美観向上、安全保全、車歩道の視界の確保のため――。箇条書きにされた〝理由〟が下の方に掲げられている。
人の手によって植樹された樹だ。樹木の一部を殺す作業も必ず誰かがやるのだから、そういう人たちがいるのはわかっていたはずなのに、それを造園師が手掛けるということに、私の胸はまた小さく縮んだ。知らなかった遠い世界がふらりと目の前に現れて、なにかを見せつけてまたふらりと去っていく。私は彼らになんの挨拶もできないまま、その背中を見送る。
部屋へ戻り、カーテンに腕を差し入れ、骨壺を持ち上げる。遺骨袋の側面ポケットには、空が七歳くらいの頃に撮った写真が入れてある。私をまっすぐ見つめるブルーアイ。仔猫特有の青い瞳(キトンブル―)は、月齢を重ねると薄くなるといわれているけれど、空の目はずっと美しい外国の海のような色をしていた。
空を食卓の上へ戻し、『しあわせの王子』を手にして二階へあがる。南西の角部屋は二面採光で明るく、以前はここを寝室にしていた。白い壁紙はうっすらとした緑みの青が混ざっていて落ち着いているが、細かいラメが控えめに入っている。そういえばこのクロスの色は、友梨奈がセジに渡したショールの秘色に近い。
床に少し埃が溜まっていた。窓の西側には建売が建っている。まだ未入居だけれど、誰かが住むようになれば丸見えだ。カーテンの隙間を完全に閉じるマグネット式のアクセサリーがあるらしい。この部屋にはそれをつけた方がいいかもしれない。
未整理のまましまい込んでいた箱をクローゼットから取り出す。まだあっただろうか、捨ててはいないはず……。『少女パレアナ』アメリカの作家、エレナ・ポーターの児童小説。ポリアンナ物語、少女ポリアンナ、呼ばれ方はいっぱいあるけれど、どれも同じだ。
十一歳で孤児になったパレアナは、亡き父から教わったゲーム――どんなに悲観的な状況であったとしてもその中から喜びを探す『よかった探し』を欠かさない。
初めてこの本に出会ったのは学校の図書室だった。それ以降、私はこの『よかった探し』を真似してきた。中高生になっても、大学を卒業して社会人になってからも、親とはもう二度と関わらないと決めたその日まで、私は息をするようにその遊びを繰り返してきた。
PollyとAnnaは既に亡くなっている二人の姉の名前であり意味は「責任」と「義務」。そしてまた、パレアナは厳格な叔母の元へ仕方なく預けられることになる。迎えにきた叔母と駅で初めて会ったとき、パレアナは「ああうれしい。お目にかかれてうれしい。うれしくてたまりません。お迎えにきてくださってうれしい。お会いしてみるとあなたがあなたなので、それがうれしいの」と連呼した。
悲しみの渦中にあっても、常に笑顔を絶やさず、町中を巻き込んで皆を幸せにした。すぐに私は夢中になった。パレアナならどう考えるだろう。どう言うだろう。――私はパレアナになった。裸足で家から飛び出し深夜に徘徊しても、『怖い人たちに追いかけられなくてよかった』『家に戻ればちゃんと布団があって眠れるからよかった』『こんな誰もいない夜を独り占めできるなんて、すごくよかった』それは簡単なことだった。いくらでも見つけられた。
幼少期、私はこの遊びに助けられた。限られた時間だけだとしても笑顔を失わずにすんだ。だけど今思えばそれはとても危険なことでもある。大学で受けた心理学の授業で、私は『ポリアンナ効果』と『ポリアンナ症候群』という二つの言葉を知った。前者は良い意味。悲観的で後ろ向きでいるより、楽観的で前向きであった方が良い影響を及ぼすというリフレーミングの効用のこと。対して『ポリアンナ症候群』は悪い意味――直面した問題に含まれるわずかな良い面だけを見て本質から目を逸らし、自己満足に陥る心の状態を差す。楽天主義の負の側面として、現実逃避があるということだ。
なかったことにする「否認」、目を背けたり後回しにする「逃避」。それは未熟な防衛手段のひとつ。だけどそこが、逃避さえできないような状況だったら?
人の脳はとても器用だ。万能感による暴力に走ることもあれば、転化した破壊衝動に身を委ねることもある。この世に逃げ場がついにないと知れば自死も選択肢になる。そのすべてが自分を守るため。
セジが母親を否定しきれないのはなぜなのか、それは彼が理由を探しているからだ。まだ会うということはまだ期待している。理解しようとしている。理解したいと願っている。そして絶望を繰り返す。その先にあるのは、きっと母親に対する愛情の緩やかな死。
そこを諦めなければ、彼の足元はずっとぐらついたままだろう。
そこまでわかると思うのに、他の誰にも理解されなくても私ならわかってあげられると思うのに、それを解決してあげられない。彼の母親以外には誰も解決できない。闇に葬り去るしかない。それを逃避と呼ぶなら逃避でいい。天井に消えた超合金ロボは本当にあったのか。クリスマスにケーキを囲む伯父たちの姿を壁の向こうに感じながら、それが彼の哀しみが見せた幻影なら、それごと認めてあげたい。逃避でいい。逃避がいい。悩むことは無駄だから。
部屋の灯りを消してソファーに横になる。焼き付くように右腰が痛み、気づくと歯を嚙み締めていた。左を向くと背もたれの布地が視界を埋めつくし、ふっとセジの残り香が鼻について体を起こす。
引き出しを開けアセトアミノフェンを二錠口に入れる。仄かなミント臭。手前に、お守りとして残してあるオレンジ色のオキノーム包が並んでいる。何度か捨てようとしたけれどできなかった。
もしまた、あの発作めいた強烈な痛みに支配されたとき、これがなかったら私は動くことさえできない。もう再発しない、もう大丈夫、もう寛解したと信じられれば、医療用麻薬なんて大事に持っていても意味がない。これが捨てられないのは、私が私を信じていない証拠。私は治ったと思えていない。もう死んだ命。何も生み出せない、この世にとっての異物。
がんの巣窟となったこの体はシャーレの培養土であるとしか思えなかった。ただひたすらに恐ろしかった。この土壌のすべては、白い苔の森となって侵食されて死んでいく。でも私は生き延びた。死んだのは空だった。私の治療が終わると同時に、空ががんになり死んだ。私の病巣を持ち去ったのだとしか思えなかった。
クローゼットの中で眠りについていた冷たい三つ折りマットレスを引きずり出して床に敷く。布団に潜り込んで上を仰ぐと、キャメルランプの光が骨組みを影絵にして天井に映し出している。一度は目を瞑ったが、瞼の裏の文様がぐるぐると廻り始めて酔いそうになり目を開ける。セジが零した四粒目の涙が気にかかり、ブルーライトを顔面に浴びながら、『幸せの王子』の原文を調べた。そのニュアンスは読んだ絵本とは少し違っていた。
《 神様が、天使の一人に「この町で最も貴いものを二つ持ってきなさい」と言われると、その天使は神様のところへ、鉛の心臓とつばめの遺骸を運びました。神様は「よく選んできた」とおっしゃい、「この小鳥は、天国の私の楽園で永遠に歌い囀り、そしてこの幸福の王子は、私の黄金の都で、永遠に、私を讃えるであろう」 》
ぼんやりした記憶が蘇る。きっと私には、絵本ではなく童話集か何かを読んだ記憶が残っていたのだろう。
『永遠に、私を讃えるであろう』という言葉が腑に落ちた。
画面を消して横に置き、腕を布団の内へ沈める。もしも私が訳者なら、永遠の命をお与えになったとはきっと書かない。その部分に子供たちは疑問を覚えないのだろうか。生き返ることができるのだと、思い違いをしないのだろうか。美しいものとして捉えすぎないだろうか。これは本当に自己犠牲の物語なのだろうか……。
そしてその部分こそが、セジがいった「なんか、いやだな」という言葉に繋がるのだろうと感じられた。瞼を閉じると、ぐらりと万華鏡のような文様が脳裡に浮かび上がった。
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