3 おぼろげな黴
「誰も返事来ねえな」
口を開いて、歯に挟まったカスを舌先で擦る。小さな沈黙が流れた。ずっと座っているわけにもいかない。国道沿いの公園にショベルと掘った土を放置しているのも気にかかったが、セジは、急がなくても平気だろ? と取り立てなかった。
「それより腹減ったなあ……飯いかね?」
「ごめん、そろそろ帰らなきゃ……」
空の骨壺を窓際に置いてきている。日が落ちてしまうとサッシの下桟付近はとても冷える。私が立ち上がると、セジも続いた。
話し込んでいたせいですでに帰路は暗い。
「まだ閉店には早えなあ。友梨奈チャンのバイトが終われば送ってもらえるかもしんねえけど、あいつ今日、アシなにで来てっかもわかんねえし……」
「足って、車?」
「あー、うん。親が送ってきたりだけど、自分で軽に乗ってくるときもあって。そんときはピリカに停めんだ。見に行くかなあ」
赤信号で立ち止まると、セジが右脚を小さく後ろに蹴り上げ、右の脛で左のふくらはぎを擦った。
「……大丈夫?」
「あー、なんか今日、やたら足攣ってて」
「栄養足りてないんじゃない? サプリとか、余ってるやつあるけど……いる?」ミネラルが不足すると足が攣る。余っているわけではなかったけれど、飲まずにしまい込んでいるから似たようなものだ。ただあげるといっても断られそうな気がした。
「くれんの? もらう! お肌プルプルになる!?」
「コラーゲンとかじゃないよ。ただのマルチミネラル」
歩道を往くと、個人宅のガレージに設置された防犯センサーが警告音を鳴らした。セジは、暗いなあ、神社っ怖ええと逐一反応しながらも、境内に視線をやって猫の姿を探した。廃倉庫の角を曲がると家につく。去年あたりまで隣で暮らしていたお婆さんが、ここに不審者がいるといっていたが、人が住んでいるようには見えない。
「この辺駐車場ばっかで家が少ねえんだね。子泣き爺の歯くらいすっかすかじゃん」
うちの真向かいにある月極駐車場には輪留めさえない。白線は一応あるけど、列の区切りはさび付いて傾いたポールに通された黄色いロープ一本だけだ。電灯もなく闇が深い。自宅の敷地内に数歩踏み込むとようやく玄関の人感センサーライトが点灯しステップを照らした。コンクリート埋めの駐車スペースは一度も使っていない。
「え、顕花サンち、ここ? きれいじゃん」
「うん、すごく狭いけどね……。ここも工場の跡地みたい」
L字の土地が三つに区画分けされて分譲されたけれど、Lの底辺に当たるこちら側は狭小と呼べるほどしかなく、子供のいる一家が暮らすには狭く、一人暮らしには過剰、という買い手のつきづらい物件だったのだと、後に挨拶に訪れた施工主が話していた。新築でも一年が経過すると「未入居の中古物件」に変わる。都心部に比べれば中古の1Rマンションよりも安く、貯金をはたけば足りた。近くに動物病院もあったからおあつらえ向きだった。
シャッターの隙間、ガラス越しに空の骨壷が見えていた。これまで人目を気にしたことはなかったけれど、注視すればそれなりに目立つ。セジの視界を塞ぐように玄関前に立ち、鍵を開けた。
「トイレ貸して~、ちっこ漏れる」
「右奥、手洗いは洗面所を使ってくれる?」
特に理由を訊ねることなく、セジはトイレに入っていった。
窓際に並べていた植物をテーブルの上に戻す。心の内で、ちょっと待っててと空に声をかけ、骨壺だけはカーテンの内に残した。
時間差でポーチライトが消灯すると、小窓からのぞく光もない。トイレからは便座の蓋を上げ下げする気配がしたが、流水音の他に水の跳ね返る音は聞こえなかった。――静かに便器を使うタイプ。なんとなく予想した通りだ。引き出しを開けてサプリを選んでいると、洗面所から出てきたセジが小人パキラを見て目を輝かせた。
「うお!? なにこいつ、コロポックルじゃん!」
それを聞いて、手にしたサプリを落としかける。抜け落ちていたパズルのピースがすっぽり嵌った気分だった。
「それだ……」
「え? なに?」
「この子のこと、私、小人パキラって勝手に呼んでて、ほんとは、その言葉が見つからなくて、ずっと、コロポックル」
はらりと気持ちよく瘡蓋が剥がれた気分で悦に浸っていると、セジが清々しく笑った。
「顕花サンて、こういうとき、めっちゃ変なしゃべりになんのな」
「え、な、なに」赤面して吃る。
物心ついて以降、私はかなり長い間、舌足らずでうまく話せなかった。だからこそ、書くことばかり選んできたのかもしれない。
「こいつ、ふき畑にいるんだよ。ふきの葉っぱに隠れてる友だち」
「そうだよ、ふき……。〝ふきの下のひと〟だ。それがずっと思い出せなくて、〝小人パキラ〟って勝手に呼んでたから」
すっきりした? とセジが微笑む。
「じっちゃんがお守りだっつって、こいつの木彫り人形、いっぱい作ってたからたぶん合ってるよ。でもこのパキラ、腕細っせえのに胴体ばっか太くてすんげえ不細工だね。でもかわいい、こびと君」
慈しむような眼差しに戸惑った。名前を思い出せた清々しさよりも、どこか哀調を帯びた彼の様子が気にかかり、私は話を変えた。
「これミネラル。食後に飲んだ方が効くと思う。ビタミンCはそのままラムネみたいに食べられるやつだから。それから――」
ゼリー飲料が冷蔵庫に残っていたことを思い出し、扉を開ける。セジは私の背中越しに覗いて枠に手をかけた。
「ねえ、なんで冷蔵庫にラップが入ってんの?」
ドアポケットから食品用ラップを抜き取り、ぶんと振った。
「ちょっと返してよっ。長くて引き出しに入らないんだもん」
「外に出しとけばよくね?」
渋々肯く彼に、私が「出てるの好きじゃないから」とほっとすると、セジは戻そうとしていたラップを再び引っ込めて肩に担いだ。
「へえ~」と首を傾げる。「なんか子供みてえ」
「変なこと言ってないで扉閉めてよ……」
冷気に罰せられている気分で、顔が火照った。
加藤家には〝冷蔵庫を開けるのは五秒まで〟という決まりがあり、子供の頃はよく叱られた。学校でその話をすると、朋たちは、「なにその変なルール」と顔をしかめたけれど、それが〝理不尽〟だったのかどうか、私には判断できなかった。親の管理下で生かされていた自分が、親の決めたルールに黙って従うことがおかしなことなのかどうか、疑問を持つ余地のないままに成長してしまった。
「つかなんも入ってないね。ご飯作んないの?」
大したものは入っていない。豆乳に、朋が持ってきてくれた梅干しと赤みそくらいだ。セジが豆乳パックの角に指を乗せて傾ける。
「飲んだことないなあ。うまいの?」
「おいしいよ……。慣れないと豆腐みたいかもしれないけど」
五秒が十秒になっても三十秒になっても、電気代はそうは変わらない。CO2排出量も計測できない程度の差だと思う。それでも早くドアを閉めてほしくて私はハラハラした。ようやくラップがドアポケットに戻されてほっとしたのも束の間、奥に収まっている二リットルのペットボトルを見て、セジが腕を伸ばした。
「なにこれ、カビてんじゃん。やばくね?」
朋がくれた甘酒だった。飲む点滴、甘粥、いろいろ呼ばれる。炊いた米を麹によって発酵させて作る甘酒は母乳のように白濁しているのが普通だけれど、上澄みができて分離している。赤い黴びも浮いてるし、発酵が進み、膨んで容器も変形してしまっていた。
「あ、それ……口が固まっちゃって、飲み切る前にダメにしちゃって……」蓋に輪ゴムを巻いたり、濡れ布巾で栓を覆って力を入れたりと、ばあちゃんがやっていた方法も試したけれど、びくともしなかった。開栓グッズを買う気にもなれず、もう何年も過ぎている。
『冷凍しとけば二か月はもつから。一日三回は飲むこと!』
化学療法をしていた頃だ。こんなに沢山? と苦笑いで応えると、朋は「平気平気!」と笑って冷蔵庫の中を掃除してくれた。甘酒のグラスを両手で包めば、実際の温度以上の温もりが掌に伝わって美味しかったけれど、すべては飲み切れなかった。
『何かやることある?』そう訊かれても体を起こしているのがやっとで、思考は停止していた。空のトイレ掃除だけはお願いした。猫じゃらしで遊ばせてくれようとしたけれど、反応が悪くて朋もがっかりしていたっけ。あの頃、空は私の傍を殆ど離れなかった。
一本はなんとか飲み切ったけれど、まだ形の残る米粒は沈殿してどろりとし、徐々に喉を通らなくなっていった。二本目は、冷凍から冷蔵へ戻して保管している内に、栓が固まって開かなくなった。
「捨てなきゃいけないとは思ってるんだけど」
言い訳を口にすると、セジが腕を捲った。「よっしゃ任せろ」
蓋を捩じっても微動だにしないとわかると、上体を屈めてボトルの底を腹に押し付ける。肩を内に寄せ、力んで肘を張ると、ようやく空気が音を立てて漏れ、栓が開いた。セジは満足気に姿勢を戻し、テーブルの上にボトルを置いてキャップを外した。
「箸かなんかある?」
箸を一本取り出して渡すと、セジはそれをボトルの口に突っ込み、カッテージチーズのようになったカスを内側へ押し込んで通り道を広げた。水を入れて攪拌しつつなんとか中身を出し、飲み口をティッシュで拭くとカビ汚れが大量についた。底にも白いもやもやがこびり付いている。
変色したキャップの内側に、セジが鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
「どこに捨てる?」
あっさり言われて返事に困る。処分するために栓を開けたというのに。躊躇する私をよそに、セジは出した中身をトイレへ持っていき、さっさと流してしまった。
空になった容器を濯いでいると、セジが冷蔵庫の中を拭いてくれた。ついでに冷凍室を開け5食セットの冷凍うどんを見つけると、
「あ、うどんあんじゃん、食べようぜ!」と手に取る。心積もりがなかったとはいえ、初めて彼に食べさせるものがこれかと少し申し訳ない気持ちになる。
「つゆ、ちゃんとしたのないけど……それでもいい?」
「うん、あったかいやつにして」
粉末の昆布出汁に醤油を足すくらいしかできない。鍋を水を入れて火にかける。冷凍うどんを皿に乗せ、電子レンジに入れようとすると、セジが不思議そうに言った。
「なにしてんの?」
「え? 解凍、だけど……」
パッケージ裏面にも〝600ワットで3分間電子レンジで加熱してください。〟とある。
「お湯ん中、そのまま入れるんじゃダメなの?」
セジは隣に立ち、鍋の取っ手を握って傾けると、水面をちょんと指でつついた。
「そうだよね、そうかも……」
「そういうのなんていうか知ってる? クソまじめっていうの」
嬉しそうに内袋を縦に破いて、うどんを掴む。「ちべてっ!」
逆の指で耳たぶを触るのを見て、思わず笑いがこみ上げた。
「そんなのどこで覚えたの?」
「あ、笑った。ほらほら、ドボンしようぜ」
沸騰にはまだ早かったけれど、セジはうどんを鍋の中に入れると、今度は両耳を指で掴んで揺らして変顔をした。笑わせないでとかわすけれど、こんなやり方のすべてが彼の計らいなんだろう。
「でもどうしてそんなこと、今まで気づかなかったんだろう」
「顕花サン、堅物だからな」
「私って堅物? 地味に傷つくな」
小さめの白いポリ袋を取り出して吊り棚のフックにかけ、破った内袋を中へ入れる。すると、セジが部屋を見回して言った。
「この部屋ごみ箱ないんだね。どして?」
「ごめん」と謝ると、彼はかぶりを振った。
「いや、そういう意味じゃなくて。おれも置かねえからさ。部屋にくるダチ、みんな口揃えて言うんだよね。『なんでねえの?』って。だから顕花サンはなんでかなって」
「ごみが溜まるのが、私はいやだから……」
「ああ、そっかあ~! なるほどね」
「なるほどねって、セジは違うの?」
「おれは単純に買う金がねえ! ってだけだからさ。なくても困んねえし。でも袋そこに吊りさげてても、溜まるのは同じじゃね?」
私は流しの上で宙づりになったポリ袋を見つめた。ごみを溜めこむのはもちろん好きじゃないけれど、もっと単純ではっきりした理由があるのが自分でもわかっている。母はすべての部屋に屑箱を置いた。トイレ、玄関、脱衣かごの脇。居間には二つでテレビの横と箪笥の隙間。台所には四十五リットルのポリ袋が入る底の深い容器があり、なんでもそこに捨てた。魚の骨、自分で切った髪の毛、着古した私の体操着、なんでもだ。ごみが溜まると母は言った。
「顕花ちゃん、お願い」
ごみ出しは私の役目だった。当時、九〇リットルの袋が入るペール型のごみ箱が外に置いてあり、私は家中のごみをまとめて袋の口を縛るとそこへ運んだ。丸い蓋を捩じって開けるとひどい臭気が上った。収集日に中身を抜こうとすると、詰め込み過ぎて圧がかかっているせいでなかなか出すことができず、どこかしらが破れた。
勝手口から中に戻ると、「うわっ、顕花ちゃんまで臭くなってる」と笑われた。どうして自分でやらないんだろう。別にごみ出しが嫌なわけじゃない。手伝いだってなんでもした。でもなら笑うなよ。自分でやれよ。やたらめったら溜めるなよ、押し込むなよ、といつも心で吠えた。どれも一度も口にはできなかった。
「ごみ箱嫌いなんだもん。置きたくない」口にしてみれば案外あっさりしたものだ。何を言い淀んでいたのか不思議な気持ちになる。
「なあんだ。ならわかる! 最初からそういいなよ、顕花チャン」
セジが私を『ちゃん』付けし、頭にぽんと手を置いた。
「ちゃん付けはやめて」
すっと体を引くと、それに共鳴するようにセジも手を引いた。
「いやいや、これは『チャン』でしょ~? 不貞腐れちゃって、顕花サン、かわいい」
二度とうけることはないと思っていた言葉。どうして彼がそう思ったのかはわからないけれど、不思議と嫌な気持ちではなかった。
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