2 白黒オレロ

 お菓子がほしいというセジにつきあって店内へ入る。見切り品が収められたワゴン内にある、大きな砂時計が目に留まった。ガラス球の中にはカラフルな砂。大中小と大きさ毎に時間が違って、三〇分が緑、十五分は紫、五分は赤といった具合で、マトリョシカみたいに背比べをしている。雫をふたつ繋げた漏斗の中では木琴のような派手な色合いの砂が横たわり、弾かれるのを待っていた。

「どったの、それ欲しいの?」セジがラックを覗き込み、緑の三〇分計を手に取った。

「うわ、これ丸い! 気持ちいい!」

 砂時計の外箱はあったりなかったりで、あってもどこかしら傷んでいたけれど中身は無事だ。お風呂での使用も可能とあった。

「いいじゃん、買えば?」

 今では三〇分も浴槽に浸かることはない。「いいよ。きっと使わないから」その場を離れ、土とビスケットを買って外へ出た。

「よおっしゃ! 土、ゲットだね。顕花サン、ありがと」 

「新しい鉢は……どうするの?」

「あー、そいやどうしよっかな。今日貰うつもりだったんだけど連絡してねえや。帰るのだりいな。誰か迎えにきてくんねえかなあ」

 ポチポチとメールを打つ。指の節と爪の隙間に土汚れがこびり付いている。さっきの職人さんの手に少し似ていた。

「やっぱだめか。そんなすぐ返事くるわけねえか」

「友梨奈ちゃん……?」

「いや、他のダチ。あいつは今バイト中だと思うし」

「店まで行ってみたら?」

「たぶんダメだあ。ほんとはおれも今日バイトだったんだけど急に来んなって店長に言われて。なんか本部の抜き打ちがあるらしい」

「そういうこと、よくあるの?」

「そんなにはないよん。何か月かに一回」十分多い。深入りしないでおこうと思っても、話せば話すだけ気がかりが膨らむ。

「あいつ今日、何時までシフトなんだろ。植木鉢、店まで持ってきてんだったら悪いしなあ、帰ったらだめかなあ……」

 セジはもう少し考えると言って輪止めの上に座りこんだ。

「そこは邪魔になるから」

 私が諫めると、彼はおとなしく立ち上がった。車両出入口近くまで場所を移動して、植え込みブロックに腰かける。ひとりだけ置いていくわけにもいかず、私も隣に座った。お尻が冷たい。

「日が傾いてきたね」

 薄着の彼を案じてそういうと、殊勝な声が返ってきた。

「顕花サン、ごめんね? ついてきてくれたのに」

 ここから私の家までは徒歩十五分だけれど団地までは倍かかる。膝を摩っていたし、箕面さんと話しているときも座り込んでいた。

 逡巡していると、セジが小学生だった頃の話をし始めた。

「おじさんトコの息子はおれと同い年だったんだけど一緒に遊んだこともなくてさ。家族が出かけるときはおれだけ留守番だったし飯も別だったけど、小学校は皆勤賞でめっちゃ楽しかったな。卒業式ん日、そのままおじさんに連れられて銀行行って、おれ名義の通帳作らされて、お前は今日から一人で暮らせって今の団地に連れてこられた。家賃は二か月分払ってあるから後は自分で稼げって言われて。でもそんときおれ、生まれて初めてケンタツキーのチキンバスケット買ってもらったの。好きなだけ食えって。それがマジやべえくらいうまくて、あったかくて、めちゃくちゃ嬉しくってさ……」

 セジはこの〝思い出〟を本当に懐かしそうに語った。作り話とは思えず私は言葉を失った。年端もいかない子に家賃を自分で稼げだなんて……。契約名義は今でも入居時のままで伯父さんの名前らしいとセジは言ったが、その日以来一度も会っていないとも言った。

「一回だけクリスマスプレゼントもらったことがあんのね。なんでくれたのか今でもマジわかんねえんだけど、超合金の金ぴかのロボ。その夜は抱いて寝た! でもさ、夜中に目覚めるとロボが天井に向かって浮いてくんだ。体が動かなくて、手からどんどん離れていって、取り戻そうって必死で腕を伸ばすんだけど、天井に吸い込まれて消えちゃったんだ。次の日、家ん中も外もめっちゃ探したけどなくて。そんなとこにあるわけないのに公園の砂場ん中まで泣いて探したけど、やっぱなくてさ。あいつ、どこ行ったんだろ……」

 子供はすぐバレる嘘をつくことがある。でもそれは、ひねくれているとか、素直じゃないとか、そういうことだけが要因じゃない。願いが強すぎたり、気を引きたかったり、失敗を隠そうとしたり。

 虚構か現実か、事実はどうあれ、彼にとっては実際にあった〝記憶〟であることはわかった。叶わない願いが幻影を生むのだとしても、〝嘘〟でいいから空に会いたいと私も願ったことがある。

「学校が終わるとまっすぐ公園に行って、ダチとずっと遊んでた。でも夕暮れどきになると、みんな飯だっていっていなくなって、おれ一人になって。帰っても飯ないし、寂しいな、誰か来ねえかなって、滑り台の上から遠くに見える窓の明かりを数えてた。暗い窓を見つけると、あそこは今いねえんだな、じゃあ公園来るかなとか考えて、その黒い窓を繋いで線を描いて、一筆書き。それが上手にできたら明日百円拾える、キャベツ太郎三つ買えるぞって」

 ゲン担ぎみたいな遊び――白線から落ちても死ぬことはなく、赤信号に止まっても友達と絶交もしない。何度だってやり直しの利く平和な遊びだったけれど、それでも飽きもせず、毎日線上を歩いた。

「ひとりになってから……食べる物とかってどうしてたの?」

「色々物好きな人がいてさあ、寺で飯食わせてもらってたときもあるし、ホームレスのおっちゃんが恵んでくれたりしたこともあったよ。一緒に食ったカレーヌードル超うめかったなあ。バイトも色々やってたけどその分学校の出席は全然足りなくて、それも担任がつきっきり補習してくれて無理やり卒業させてもらった感じ?」

 後ろポケットから携帯を取り出すと、膝の上でパカパカと開いて手持無沙汰にした。

「返事こねえなあ……」

 今も昔も、彼はこうやって誰かをずっと待ち続けるのだろうか。タクシーを呼んだ方がいいだろうかと、気がかりを募らせる。

「腹減った、さっきのオレロ食おうぜ」セジが包装を破り、一枚取り出すと丸ごと口に放り込んだ。「はいこれ」と、私にも手渡す。

 人前でものを食べるのは苦手だ。テーブルを挟んで食事をするのとはわけが違う。特に今は口の中が見えそうなほど近い。半分にかじればくずが零れるし、一口で頬張れば口から溢れそうだ。手にしたビスケットを見て躊躇いながら、私は地面に落とす方を選んだ。

「あ、嘘ついた」

 指を指されて返事に困る。

「え、なにか変?」

「本当は顕花サン、オレロ割って食べる人でしょ。こう、ぱかーんと。そんでクリーム、スプーンで掬って食べてたでしょ?」

「やってたけど……スプーンは使ってない。普通だと思ってた」

 オレロだけじゃない。なんでも分解するのが好きだった。

「当たった! お菓子の食べ方って性格でるんだ、おれの持論!」

 また話を飛躍させるなと思いながらも懐かしい記憶が蘇る。

「牛乳に浸して食べる友達がいたけど、柔らかいのは気持ち悪い」

「あれうまいのに! クッキーはサクサクじゃなきゃって型にハメすぎ。濡れせんべいもダメでしょ? なんでも白黒分けすぎなんだよ。へなへなのクッキーもあるくらいに思っとかないと疲れるよ」

 そういって得意そうに笑い、私の頭を掴んで両手で揺らした。

「かってえ! おれなんて頭ん中ぐにゃぐにゃよ?」

 ポッキーはチョコ掛けの部分を舐めとって裸にするのが好きだった。アーモンドが丸ごと入ったチョコレートは化石発掘のように丁寧に周辺だけをかじった。ジャガイモでできた薄焼きの魚型スナックは、どこも欠けていない完璧な子を探すのが楽しかった。

 ひとしきりそんな話で盛り上がった後、セジが言った。 

「あのさ、顕花サンてどっか悪いの?」

 何かを見抜かれたような冷やりとした感覚を覚え、しばらく忘れていた腹部の疼痛が主張してくる。

「どうして?」

「いや、なんとなく」

 視線を外し、前方を見つめる。蟻の脚のような睫毛の奥にある幼い眼孔。彼には何が見えているんだろう。

「スーパーの花で一番売れるの仏花なんだってよ、知ってる?」

 道行く車両がヘッドライトを点し始める。流れていく光を小さく目で追いながら、セジがぽつりと話し始めた。

「私のおばあちゃんも仏壇に白いご飯とお花はかかさなかったな」

 おぶくさま、とばあちゃんは呼んでいた。「セジは見たことないかもね。小さい器にお米を盛るの。これくらい」

 指で輪を作って見せる。半熟卵を乗せるイギリスの食器に似た器だ。それに炊きたてのご飯を装い、おさがりとして昼に食べた。下げるのを忘れてカリカリになってしまっても、お茶をかけて食べた。ばあちゃんは保温機能のない炊飯器をずっと大切に使っていて、蒸らす時は毛布に包んだりしていた。仏前に供えたのはすべて庭に咲いている花だった。一番好きだったのはミヤコワスレ。紫の小さい山野草で、春を過ぎると物干し台を置いていた半日陰の犬走りでよく育っていた。仏花の決まりはよくわからなかったけれど、色は白、黄色、紫。ばあちゃんは、頃合いよく繁った季節の花に鋏を入れ、「ちょっともらうでな」と必ず声をかけていた。

「顕花サン、切り花買わないよね。いつも弱った鉢しか見てない」

「そんなことない……、ブーケとかだってかわいいし……」

「でも買ったことないでしょ」

 ラッピングされて、値段も手頃なブーケが人気なのはわかる。ピリカでも毎日新しいものが補充されていた。ピンクのガーベラは部屋に飾ればきっとかわいい。でも一瞬だけ。短く切られた茎は水をうまく吸い上げることができず、すぐに腐り始めていく。

「切り花は……、すぐだめになっちゃうから好きじゃない」

「うん。おれもそう思う……。バイト先でさ、あ、大須の古着屋の方ね。花買ってきてって頼まれることあんだけど、店に飾るやつ」

 私が相槌を打つとセジは指についた粉を払いながら先を続けた。

「一週間もすりゃ、くたっとしてくんじゃん。バラとかすぐ首折れちゃうし、最後に残るのは大抵かすみ草だけど、あれはもう最初からほんとに生きてる? ってくらいカリカリになってるし。ずっと白いまんまできれいだけど、触るとぼろぼろ崩れ落ちるから」

 私は肯きつつ下を向いた。返事も賛同も求められてはいない気がして。足元に零れた甘い欠片に早くも蟻が寄っている。頭を垂れた花を花瓶から抜くとき、私はつらい。買わなきゃよかったと毎回思ってしまう。一瞬の彩のために切り花を買い、小さな後悔を重ねる。忘れた頃にまた気まぐれに花を買い、そしてまた後悔する。なんのために切り花を買うのか、理由はもう見つけられないままだ。

「駅のトイレ入ると、花束捨ててあることがよくあんの。忘年会シーズンとか。持って帰るのが邪魔なんだろね。自然の花だって枯れるけど、自分の最期が土にも還れねえって……トイレのゴミ箱に捨てられる人生ってなんだろね」

 まだ十代の彼が花の最期を人生に喩えることが切ない。

「セジを生んだ人って……いるの?」

「おとんとおかん? 顕花サン言葉濁すね。いいよ全然聞いても。しぶとく生きてるよ。たまに金奪いにくる。マジかよってなる」

「なにそれ……」声が荒らいだ。「お金の無心に来るってこと?」

「そそ。一年に一回くらいメールきて会おうっていわれる。おかんしか来ねえけど。会いに行くとお金ちょうだいって言われる」

 言いようのない怒りが湧いた。それと同時に、のこのこと会いにいく彼に対する苛立ちが、私の声をさらに震わせた。

「なんで会うの? そんなの放っときなよ」

「なんでかな。なんか確認したいっていうか。こいつらやっぱサイテーだって確認して、笑ってやりたいんじゃない?」

 親は拭えない呪いを生んだ瞬間から子供に与える。幸せな呪いもあれば、幸せじゃない呪いもある。確認したい、という言葉が出て、どうしてセジが母親に会いに行くのか、その理由がわかった気がした。それは言葉とは裏腹に、もしかしてというかすかな期待。

 絶対にそんなことにはならないとどこかで気づいていても、その希望を捨て去ることができない。何度も捨てては、何度も拾いなおし、そこについた汚れは自分のせいではないかと顧みる。きっと決してそうではないのに。諦めることができず、何度も糸を垂らし、今度こそ千切れないんじゃないかと、ありえない未来を夢想する。

 他でもない私自身、親に対してはずっと期待を繰り返しては、裏切られ続けた。子を捨てる親は非難されるが、親を捨てる子は説得される。子殺しには情状酌量が起こるが、親殺しにそれはない。しっかり親の愛を受けて育った種類のひとたちは、親の愛は絶対で、疑うようなものじゃないと言い張って聞かない。理解できなくても仕方ない。わかってもらいたいとも思っていない。それでもその決意を蔑ろにしないで。親であることは正義で、親を捨てて関りを捨てることは、子供の悪だとは決して言わないで。

「児童福祉士? 児相の人がいうんだ。親元へ戻りなさいって。それなんでおれに言うわけ?『なんで生まれてきたの?』って唾かけられて、そもそも捨てられてなかったら、おれ今ここにいねえし」

「あいつら地球のゴミ。花の代わりに腐ってくれりゃいいのに。な、そう思わねえ? 顕花サン」

 怒りとも情けなさともとれない微笑みに見つめられ、私は彼を守りたい衝動に駆られた。まだ幼さを残すセジが、こんなに悲愴にくれた表情で笑わなきゃならない幼少期を過ごしたことが悔しい。

 戦ったって無駄だ。解決なんてできない。忘れるのが一番いい。でもきっと忘れられない。少なくとも私は忘れられてはいない。蓋をして忘れたふりをしているだけ。セジはまだ頑張っている。すごく苦しいはずだ。身の内から血を流すほど。

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