第三章

1 雨粒の繭

 滴が軒先から落ちゆく音で目を覚ました。おばあちゃん家にあった別棟のトタン屋根が、ばたっ、ばたっと、雨粒を受け止める音に似ていた。まだ外は暗い、五時前くらいだろうか。お風呂に入る前に寝てしまった。ソファーから落ちたスマホの液晶から放たれる光が小さなアクアリウムみたいに浮かび上がっていた。

 鉄筋で囲われた賃貸マンションでは、ざあざあと降る激しい雨の音は聞こえても、静かに滴る音がこの耳に届くことはなかった。離れた鍵盤を叩くようにあちこちから響く滴の繋がりが私を取り囲むのに身を宿していると、ああ私は箱の中にいるのだと感じる。

 空が生きていた頃の朝は忙しかった。おなかを空かせた彼は私の胸の上を箱座りで陣取り、爪を立てて私の唇を弾き、ニャーニャーと執拗に目覚めを催促した。体を起こすと、空がせっせと運んだネズミのおもちゃが枕元に何匹も転がっていた。私が眠りについている間、彼はひとり、閑かな夜を飽きることなく散策していた。

 今では眠りを邪魔するものは何もないはずなのに、何度も覚醒してしまう。呼吸が浅いせいで気づくと息が止まっている。火曜日と金曜日は可燃ごみの日。朝の仕事はそれくらい。それさえ別に忘れても、次の収集日まで待てばいいだけの話だ。

 雨粒の音は続いている。瞼を閉じたまま、ぽろぽろと浮かびあがる音を心の中で繋ぐ。離れた場所で、様々に鳴る音を紡いでいく。それは私を繭のように包んでいく蜘蛛が這わせる糸のようなものだった。遠巻きに。床の上で光が動いてメッセージ受信を知らせた。身体が重い。毛布に包まったまま腕を伸ばすとセジからだった。

「オーちゃん元気でてきたかも!? 写真はれないから見にきて」

 植物の生命力に感謝する。最低限の責めを果たせたような気持ちになってようやく安堵できた。もしあれでダメになっていたらひどく後悔していたと思うから。『よかったね』と返すと、すぐに返事が届いた。キャリアメールは月額料金がかかるから契約していないといっていたけど、ショートメールは一文字何円で料金がかかる。

『つぎはどうすんだっけ?  (*´Д`)』

 画面を閉じ、ひじ掛けにスマホを置いた。右手首の素肌に二筋の静脈が浮かび上がっている。左手首と並べて顔の前に揃えると、ちょうど右を向いたつばめが右手に飛び移ろうとしているように見えた。そのまま腕を上に伸ばす。高く掲げると、糸ほどしかない細さの紫紺色した静脈はいとも簡単にすうっと消え、下げればまた浮かび上がる。子供の頃、私はこれが好きで飽きもせずに布団の中で両腕を天井に伸ばしたり降ろしたりしていた。

 動脈は赤で、静脈は青。教科書にはそう載っていた。私の目には静脈は青になんて見えなかったから、皮膚の下に見える紫紺色を見るたびにこれはどっちなんだろうとずっと思っていた。指で軽く押さえれば紫の筋はすっと消える。こんなに簡単に血は止まるのに、この細い筋が全身を廻っているなんてすごく頼りない気分だった。

 指先が氷みたいに冷たい。左手首の静脈の上に留まったつばめ。そこに小さな命が宿ったようで、私はそれを人差し指でそっと撫でると喉元へ引き寄せ瞼を伏せた。ぱたぱたと続く雨音が心音のようにこの耳に届いている。心の中にある消え入りそうな熾火を見つめているうちに私はまた浅い眠りに落ちた。

 次に目が覚めると外は明るみ始めていた。尿道がちくちく痛んで疼き、堪えられなくなり体を起こす。便座に座り上体を前に倒して下腹部を両の指先で押さえ込むけれどやはり大して出ない。生温い尿が会陰部を濡らす。そのまま下着を脱いで洗濯機へ入れ浴室に入る。すぐに入るつもりで蓋を開けていたせいで浴室内は結露してじめっとしていた。すっかり冷めてしまった湯を追い炊きしながらシャワーを浴びるけれど体は温まらない。ヘッドを浴槽内へ向けて中へ入り、少し設定温度を上げた温水の雨を背負う。温い湯船の中で膝を抱き、循環口から出てくる熱い湯を指先でかき混ぜた。

 十代の頃からお風呂は特別な時間。特別な場所。ずっとそうだった。誰にも邪魔されない幸せな孤独。ひっそりと周囲が寝静まる頃に訪れる、浴室という私の部屋。それは勉強机と椅子があるだけの一畳分のスペースよりもずっと広く感じられた。

 就職して初めてシャワーのある部屋に住んだときは興奮した。空っぽのユニットバス。背を向けて座ったシャワーを浴びながら湯を溜める。足元から少しずつせりあがってくる湯量と、狭い浴室に満ちるミスト。脚をマッサージしながら五本の指を解し、土踏まずを擦る。膝を曲げてうつ伏せになり上体を起こすと、腹部と背中がびりびりと気持ちよく伸びた。七色に光る防水ライトをお湯に沈め、白濁する入浴剤を入れると幻想的なマーブルができた。その中で心と身体を泳がせる。入浴剤はマカダミアナッツ油のミルクバス。ラベンダーの香り。ひば油を垂らせば霧に包まれた森林浴気分が味わえた。そのどれも、今はやらない。

 髪を拭いたあとのタオルで鉢の側面を拭う。パキラが少し伸びた気がし、近くに寄せて見ると生まれたてのカマキリほどの新葉が出ていた。それは少しだけ透明感があり、艶めいた緑色をしていた。

 土や鉢のことをまとめたらかなりの量になってしまった。朝焼けが差し込む中、印刷しては見たものの、補足や説明が多くてとても十代の男の子向けのテキストじゃない。植え替えが終わればそれで終わりになるだろうと思っていたら妙に気合が入ってしまった。

 まとめた紙をショルダーに潜ませて家を出る。雨は止み、空は晴れ渡っていたけれど、車工場の建物が区画一帯の日差しを遮っていて日陰はまだ暁方の湿り気を残していた。下水管工事をしている波限神社前に差し掛かると、誘導棒を持った警備員が『いってらっしゃい』と挨拶をした。どことなく生温い風が対流する。すでに工事の済んだ箇所に均されたアスファルトからうっすら湯気が立ち上り、ペトリコール臭が漂っている。カビと排ガスの混ざった臭い。

 ピリカの店内を一周してから外へ出る。ブロンコビーンの前まで行くと、ガラス窓の隙間から僅かに厨房の様子を覗(うかが)うことができた。彼の姿は見えない。逡巡しているとセジからメールが届いた。

『土ゲット! 鳩いた公園、草まじやべえ。ダンゴムシいたよ』

 慌てた。154号線沿いの公園だ。ちゃんと土は選んだ方がいいと話したのに。歩きながら『今公園?』とメールを打とうとするけれど明るくて液晶がよく見えない。意を決して私は電話をかけた。

 公園に到着すると、セジは管理人さんに借りたというシャベルに寄りかかりながら、「なに慌ててんの?」と笑っていた。

「友梨奈が植木鉢ならあるからくれるっていうから。そんなら早めに土要るなって。ここなら人いねえし職質もされねえだろ」

「でも、それならそうと先に相談してくれれば……」

 私は口籠ったけれど、「だって顕花サン返事こねえし」と返されてしまっては何も言えなかった。45リットルの黒い業務用ポリ袋に集められた土は、案の定草だらけで砂利も混ざっている。昨夜降った雨のせいでじっとり湿って重い。黒い汁の垂れた根も張り付いているし、他にも色々混ざっていそうで触るのも躊躇われた。

 とりあえずシャベルとポリ袋を公園の隅に置いて東友マートへ向かう。店外に造園コーナーがあり、ブロックや柵なども売られている。園芸専門のレジも、専任スタッフもいる。東友へつくと、小ぶりの鉢が並んでいるのを見て、セジが駆け寄った。

「オーちゃんだ! 顕花サン、ほらこっち!」しゃがみこんで私を呼ぶ。制御の利かない男の子のようで気持ちが和んだ。肌理の美しい白い鉢に入っている。しゅっと伸びた枝葉が若々しかった。

「こいつ結構たけえんだね? オーガスタ」値札は三千円近かったが、嬉しそうに名を呼ぶ。土を買いに来たのを忘れそうだ。

 すると、台上で剪定作業をしていた男性が声をかけた。

「そちらはオーガスタじゃないんですよ」

 先が二股に分かれた造園用の黒い長足袋を履いている。男性は作業の手を休めると脚立から降り、軍手を外してポケットに入れた。

 藍染の法被には、白い刺繍糸で『箕面造園』とあった。

「ストレチアレギネといいます。似てますが、こちらの方が小さいです。オーガスタは白い花を咲かせますが、レギネの花は豪華な橙色で南国の鳥みたいにカラフルなので『極楽鳥花』とも呼ばれますす。どちらも人気だけど、若いうちは混同されることも多いです」

 セジは「えー?」と口元を歪め、膝に手をついて立ち上がった。

「じゃあ、あれオーちゃんじゃあナイってこと?」

 あの鉢には『オーガスタ』と印字されたシールと元々の定価がついていた。他店から運ばれてきたのかなと思ったのを覚えている。

「まあピリカだからね……。間違っててもおかしくはないけど。でもあの子はオーガスタで合ってるんじゃないかな」

「これが花なんすか? そのゴクラクチョウっていう」鉢の側面に貼られた〝極楽鳥花〟の写真を見てセジが目を輝かせた。それは緋色の羽を幾重にも広げて湖面から今まさに飛び立たんとする虹色の鳥のようだった。「すんげえきれい……めっちゃ飛んできそう……」

 しばらく魅入ってから、セジは残念そうな声を出した。「でもそっかあ、オーちゃんは白いのか。おれ極楽鳥のがよかったな……」

「……どっちも同じ花だよ。それに咲くとも限らないし」

「え、花なのに咲かないの?」

 無垢な瞳から吐かれるその言葉で私の心が小さく抉られているなんて、きっと彼はかけらも気づいていないだろう。顕著な花だなんて花の代表みたいな名前をしているのに、私はもうその身に蕾さえ宿せない。花をつけないシダや苔。コケ植物には、根・茎・葉の区別もない。じめじめとした、日陰で生きるものたち。

 オーガスタをお持ちなんですね、と言いながら男性が近づく。

「そうですね、仰る通り花をつけてくれるかはわからないですけど、オーガスタは育てやすいと思いますよ。最終的には人の背よりずっと大きくなるので室内に置き続けるのは難しいかもしれませんが、耐寒性もあるので外に植えても大丈夫だと思います。それに、花は真っ白ではないです。僕はオーガスタの花も好きです」

 扇子を開くように四本の指を逸らすと太陽にかざした。

「こんな感じに。迫力ありますよ。桃褐色の苞に包まれた花序が集まって、白から青色の色みを持つ花被片を持つ花が咲くんです」

 黒ずんで節くれだったその指先が割れている。植木を素手でいじる人の手だ。ばあちゃんの手もいつもこんな風だった。この人なら土について訊ねても快く答えてくれそうな気がして私は口を開く。

「あの、それが弱ってしまって、植え替えたいんですけど……」

「寒い時期は極力鉢替えはしない方がいいんですけど。幹がぶよっとしていたり枝葉や茎が変色してしまってますか?」

「そこまではまだ……。実は穴のない器に入れてしまって水が溜まってたんです。それで穴を開けた別の器にひとまず移したんですけど根もぎっしり詰まっていたし、一回り大きな鉢にきちんと替えてあげないと多分だめで、土もないので買いに来たんですが……」

 端的に話せずに言葉が濁る。それでも男性は私の説明を聞くと、「僕の意見ですけど」と前置いてから丁寧に教えてくれた。

「屋内の植物たちはペットみたいなもので、限られた世界の中で生きてますから、与えられる水をどれだけ吸えて、どれだけ排水できるかが生死を分けます。一番大事なのはやっぱり水はけの良さなんですよね。乾きすぎかな? と思うくらいでちょうどいいと思いますよ。今の時期だと一週間に一度くらいでいいかもしれません」

 変色してなければまだ間に合うだろうという言葉に安堵しつつも、植物の命を屋内に囲っていることに対して心が小さく咎めた。

「観葉植物の土は、大体どんなタイプの植物でも差し支えないように平均値をとって調整されてますけど、水がスムーズに通り抜けることができる程度の柔らかさや隙間ができるようにバーミキュライトや腐葉土を混ぜてあるだけなんです。赤玉を底に敷くのも空気と水の流れを作るためです。黒い土だけで鉢を埋めたら窮屈すぎて成長できません。すかすかにならない程度の窮屈さが必要で……」

 セジはへーっと言いながら座り込み、他の植物たちの枝葉にちょっかいを出していた。ジャージの上から脛をさすっている。 

「オーガスタだったら、赤玉土5、パーライト3、腐葉土2の割合で土を作ってあげたいところかな。お車、ではないですよね」

 赤玉のみ、腐葉土のみの袋はそれぞれ平積みされていたが、どれも2キロ以上あった。車ですかと訊かれたのは持ち帰りの手間を考慮してのことだろう。二人いるとはいえ距離もあるし、何よりすべて買ったら多すぎる。使いきれずに残る土も持て余しそうだ。

「水やりは乾いてからたっぷりっていう理由、分かりますか?」

「え? それってどういう」

 どの本を見てもそう載っている。わかったつもりでいたけれど、改めて訊ねられると訳を答えられない。

「植物は虫や雑菌から自分を守るために根から化学物質を出すんですが、それが鉢の中に溜ってしまうと自分を傷つけることにもなるんです。老廃物は害虫が湧く原因にもなりますしね」

 こちらへどうぞと促され、奥へついていく。

「僕達も体が汚れればお風呂に入るでしょう。植物にもシャワーが必要なんです。天然の雨と広い土壌、細菌がいない代わりに。老廃物を洗い流して換気してあげる気持ちで水やりしてください」

 売り場の端まで歩いていき、小容量の土が積まれたコンテナ前で男性は足を止めた。バケツがいくつか置いてあり、それぞれ違う土が入っている。小さなスコップとパウチ袋も備えられていた。

「パーライトを配合したものがいいと思うな、水をよく通します。色が黒に近い土はバーミキュライト配合の物が多いんですが、保水性がかなり高いので気を付けた方がいいです。挿し木をする場合とか、乾いてほしくない時に選ぶにはいいんですけど、水が過剰になる育て方をしてしまう人が多いので、あまりお勧めしていません」

『インドアグリーンの土』と書かれたパッケージを手に取る。

「これがいいかな。鹿沼土とパーライトが入ってます。あと赤玉土ですね。きな粉色の丸っぽい小石が鹿沼土。土って名前がついてますけど実際には風化した軽石で、指で潰せるくらい柔らかいです」

 ――軽石……。セジが彼の手元を覗き込んだ。

「これ土じゃないんだ? 石なの? 見えねえなー」

「この白いのがパーライト。真珠岩を焼いて発泡させた多孔質で排水性バツグンの土壌改良材です。室内育成にはすごく便利ですよ。腐葉土は栄養と、ふかふかの土壌を作ってくれるので必須なんですが鉢が小さいうちは扱いづらい気がしますので、状態が落ち着いて、たい肥が必要になってきた頃に混ぜるといいかな」

 一度に言われて不安が過る。「やっぱり難しいですね……」

「そんなことはないですよ。じっくり向き合ってあげれば、何を必要としてるのか自ずとわかるようになってきます。よかったらこれどうぞ。ちょうどサンプルを持ってきてるんです。うちで開発している土の改良材です」ポケットからポリ袋を取り出す。掌に乗る程度の土だ。「強い肥料じゃないから、今混ぜてもいいんじゃないかな。珈琲豆の粕と籾殻を混ぜ合わせたものなんですが、微生物が暮らすのに相応しい感じの土になるのを目指してます」

「へえ、これコーヒーなんだ?」

 わかる言葉が出てきて嬉しいのか、怠そうにしていたセジが興味を示した。

「これであいつも孤独じゃなくなるね。よかったなオーちゃん」

 意外にも核心をついたことを言う。土の中に微生物が生まれる。自然とはいえないけれど、少しだけ自然に近づく気がした。

「もしわからないことがあったらご連絡ください。僕、箕面(みのお)といいます。造園が本職でやらせてもらっています」

 名刺には、「箕面造園 箕面伊知(いち)」とあり、電話番号とメールアドレスが記されていた。姓が同じということは代表者なのかもしれない。「造園施工管理技士」「造園技能士」と書かれている。にこやかな笑顔を残すと、停めていたトラックに乗って去っていった。

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