5 つばめのタトゥー

 土と鉢は後日揃えることにして、その日は別れた。「おれラインとかできねえからメールでお願い」とセジは電話番号を渡した。

 家につく。昔古本屋街で一目ぼれをして買ったスタンド照明の仄かな灯りがカーテンの隙間から漏れていた。らくだの胃袋のなめし皮で覆われた三角のキャメルランプ。生きていた〝もの〟でできたものたち。あの頃の私は、あまり残酷だとは考えていなかった。薄いのに水を通さず、光を透す。パキスタンの文化にかかせない道具。眩しすぎて、天井照明をつけずにずっと伏していた私に寄り添い続けてくれた仄明かり。もしそこに死が先にあったなら、死してなおランプとなって燈り続ける世界は温かいのだろう。

 シャッターを降ろし、窓際へ寄せていた鉢を元に戻す。一時的とはいえ、オーガスタを牛乳パックに逃がしたのは性急だっただろうか……。さすがに小さすぎた気がして急に気持ちがざわつく。靴箱を開け、残していた土と鉢を確認する。土も古く、鉢も小さい。

「公園の土じゃなんでダメなの?」

「なんでもいいわけじゃないんだよ。とくに観葉植物の土は」 

「めんどくせ! なんでよ、わかんねえ」

 セジは食事中も掘る気満々の発言を繰り返していたが、ぶつぶつ言いながらも楽しそうにしていた。私を待ち伏せて、「助けてよ、枯れそうなんだ」と不安をぶつけてきたセジと、口端にはみ出したソースを拭って笑う二人のセジ。それぞれ違う少年に出会ったような気分が私を漫(そぞ)ろ立たせた。仄暗い部屋でソファーに横たわると、今日の出来事がさらに現実とはかけ離れたものに感じられた。それでも、ポケットにねじ込まれたレシートの裏になぞられた十一桁の数字は間違いなくあの少年のケータイを鳴らすんだろう。

 香炉に移す前の鉢はたぶん3.5号で直径十センチほど。オーガスタの成長は早く、根をぐんぐん伸ばして鉢が割れることもあるらしい。内圧が高まると根が弱り、水をうまく吸えなくなる。鉢替えには見極めが重要だと書かれていた。売られていたときはもう鉢底から根が見えていた。あの時点で既に植替えが必要だったのだ。

 起き上がり、プリンターの電源を入れる。クリーニングをして試し打ちをしていると紙が足りなくなった。学校参考書を扱っている駅の書店は確か文具や用紙も置いている。時計を見ると七時二〇分を過ぎたあたり。夜八時までだから間に合う。

 江川線の交差点を目指す。徒歩では少し遠い。歩きながら、手首に貼られた「つばめのシール」を見て口の力を抜いた。夜の風を吸い込むと肺がひんやりと気持ち良かった。この季節にはまだ早い小さなつばめ。貼ってすぐはテカっていたけれどもう馴染んでいる。

 私の手首の丸いシールに気づいた彼は、「いいもんある、ちょっと待ってて!」といってバックヤードに入っていくと、透明のビニールポーチを持って出てきた。従業員用のロッカーがあるらしい。すれ違うスタッフの脇腹をつつき、軽口を叩きながら戻ってきた。

「こないだ撮影で使ったタトゥーのシール、めっちゃ余ってんだ」

「撮影?」

「うん、雑誌のモデルとかたまに頼まれんだよ。古着屋の店長の紹介なんだけど金がいいんだ。髪勝手に弄られたり派手な服着せられっけど、服は後でくれたりもするし。――どれがいいかな~」

 セジはバイトをいくつも掛け持ちしているようで、呼び出されれば、犬の散歩から引越しの手伝いまで何でもやるらしい。「雇用契約? なにそれ」という感じだったから、正式な書面を交わしたことはないらしく給与も手渡しが殆どだという。

 都合よく使われて、そのうち危ないことに巻き込まれるんじゃないかと不安が過るけれど、ここの店長やスタッフの対応を見る限り、かわいがられているのは間違いなさそうだった。

 要らぬ詮索なのかな。団地の管理人といい、彼の周囲にいるであろう人たちに勝手に抱いた同類意識は間違っていない気がするし、私はもっと自分の直観を信じてもいいのかもしれない。

 それでもやはり危なっかしさが残る。それこそが、彼のことを放っておけない人たちに共通するシンパシーなのかもしれなかった。

「モデルか……。似合いそうだね」

 日本人にしては彫りが深い。背は高くないけど手足も長いし、痩せているせいか骨格が目立って、きっと写真映えする。

 カメラの前でどんな表情をするんだろう。青い鈍色に染めた髪に派手な和柄のパンツを穿いてピリカに立っていたときは完全に浮いていたけれど、セジには人の目を留めさせる力がある。モデルとして撮りたいと思う人がいても不思議じゃなかった。

「最初に会ったとき、すごい髪の色してたもんね」

「え、そうだっけ、何色だった? 全然覚えてねえ……。あ、あったあった! これなら顕花サンにもちょうど良くない?」

 髪の話はどうでもいいというように、セジは束ねた名刺大のカードの中から一枚を抜き出した。モノクロの鳥が印刷されている。

「それなに? つばめ?」

「そう、フェイクタトゥー。転写シールだけどね。ほれ、手かして?」皿を脇に寄せ、私の手首を拭う。ポーチにあったハサミでつばめを一羽切り離すと、おしぼりを水に浸して広げ、台紙ごと湿らせる。それから保護シートをめくり、私の手首にそっと貼った。

「いけるかな……」

 紙ナプキンで覆い、上から掌で押さえる。私の左手がセジの両手で包まれたような形になり、経過する十数秒がとても長く感じられた。戸惑いと緊張で手が思わず動きそうになると、彼は力をそっと強めた。「手、冷て……」頭を小さく上下に揺らし、時間をカウントする。熱があるんじゃないかと思うほど、セジの手は熱かった。

 視線が私の手首に注がれる。その光景はすごく不思議だったけれど、とくとくとした脈動が伝わってくるようで、どことない安心が湧き立ち、緊張は自然と収まっていった。人目が気になったけれど、背もたれの高いボックスシートのおかげで誰からも見咎められることはなかった。少し経ち、セジが力を緩めて手を離すと、台紙は滑るように剥がれた。一羽のつばめが浮かび上がる。

「かわいい……」思わず声が躍った。

「な、結構いいだろ! ちょっと拭くね」表面の水気を吸いとる。

「完成! それ意外にもつよ。風呂も平気。ほんでおれとお揃い」

 腕を左首筋に回して髪を掬い上げると、そこに同じ姿のつばめが一羽彫られていた。「これやってくれた彫り師の店で売ってんの。宣伝してっていっぱい貰ったからさ。おれこの人大好きなんだ、めっちゃかっこよくて。新しいデザイン考えたから彫らせてって、たまに電話くれんだけど、撤泉サンのトライバルえげつねえから、おれにも皮膚の限界あるし、痛いのヤだから毎回は無理だけど」

「モデルって、タトゥーの雑誌とかなの?」

「いや違う。そっち系はインプラントとかがっつりやってる奴ばっか。おれなんて呼ばれねえよ。あーインプラントわかんねえか、シリコンの角とか輪っかとか体に埋め込むの。あれはおれ無理」

 察しのよいセジは次々説明を重ねてくれたけれど、「えぐいから、あんま画像とかは調べない方がいいよ」と笑った。


 書店に入り、文具コーナーへ向かう。A4用紙を手にしてレジへ行く途中、児童書の平積みが目に入った。オスカーワイルドの童話『幸せな王子』が紹介されていた。同じ童話でも、絵やレイアウトの異なる版が各出版社から出ている。色々な画家や造形作家が携わった絵本は個性豊かで、同じお話でもまったく違うものに映る。

 煌びやかなビーズや布でコラージュされた人気作家の版の隣に、大人しい装丁の『しあわせの王子』が置かれていた。表紙には、涙を流す黄金色の王子と、驚いて目を丸くする一羽のつばめ。和紙のちぎり絵のように繊細で柔らかいけば立ちがつばめの腹部のふくらみを覆い、反して王子の無機質で均一な体からはぽとぽとと涙が零れ落ち、背景にちりばめられた星に紛れながらも目を引き付ける。

 その王子の涙を掬うかのように、私は絵本に手を伸ばした。

『かつて幸せに暮らし、若くして死んだ王子の魂は、彼の死を忍んで建てられた像に宿った。そして町に暮らす人々の貧しい生活を知る。王子像は体から取り外した宝石を貧しい人たちにあげていく』

 ああそうだ、こういうお話だ。自己犠牲の物語……。子供の頃、私はどうして王子がそれほどまでに悲しんでいるのかよくわからなかった。つばめとの友情、命を持つ鳥と命を持たない銅像とが固い友情で結ばれる物語――そんな風に捉えていたような気がする。

 つばめがどう関わったのかよく覚えていない。ページの端に指を置き、先を開こうとすると後ろから声をかけられた。

「こんばんは」

 振り返ると友梨奈が立っていた。腕に参考書を抱え、グレーのスウェットに白いスニーカー。足を揃えた立ち姿勢が凛としていた。

「おうち、この辺なんですか?」

 素顔の彼女はあどけない。上に羽織った薄手のスカジャンは黒白のバイカラーで花柄の刺繍がしてあり目立つけれど、彼女の素朴さを強調して似合っていた。

「友梨奈ちゃん」思わず名前を呼ぶ。「お疲れ様、バイト帰り?」

「あたし、あなたに友梨奈ちゃんって呼ばれる筋合いありません」

 低い声から抵抗が伝わる。抱えた参考書の縁を指で擦っていた。

「ごめんね、そうでした。でも上の名前知らなかったから……」

「小山です。小山友梨奈。顕花さんですよね、彼から聞きました」

「仲いいんだね」

 私が笑うと、彼女は予想外のことを言った。

「少し話せませんか」

 用紙と『しあわせの王子』を買い、一緒に書店を出た。

「泰文堂、いつも来ないですよね。初めて見たから」

「ここ印刷用紙売ってるから。ゆ、……小山さんは近いの?」

「近くないです。うち中川区なんで。セジのとこ行った帰りです」

 また彼の名前が出され、あなたは傍観者でしかないんだよ、と私の中の私が納得して情けなく笑う。カーテンのない和室が蘇った。

「何してたの? って聞かないんですか」

 迷いなく歩を進めていく白いスニーカ―が、暗い国道沿いで自らを主張して浮かび上がっている。それを見つめながら私は答えた。

「聞かないですよ。関係ないですから」

「そういう言い方されると何かムカつきますね。聞けよババア」

 唐突に凄まれて、顔を上げると友梨奈は笑っていた。

「あ、振り向いた。びっくりしました?」

「いい性格してるね」私はつられるように笑った。


 国道沿いは大型の配送トラックなどが行き交い、人通りは殆どない。話をするには走行音が煩いので堀川沿いに向かう。白鳥公園を抜けて、波型のレンガ調ブロックが敷き詰められた遊歩道に入ると友梨奈が話し出した。「セジとつきあってると色々変わります」

「つきあってるんだね」

「なに勘ぐってるんですか。安心してください、違いますよ。ただの友達。あいつにとってはね」

 堀川の水面が街灯の光を受けて小さく揺れている。冷たい外気が川の臭いを抑え込み、大気が澄んで感じられるけれど、深く呼吸するには胸が痛い。寒さに反比例するかのように、顔が火照った。

「否定しないですね」友梨奈が言った。

「どういう意味?」

「あいつのこと、気になるんでしょ?」

 声に敵意は感じない。夜間ランナーがまばらに通り過ぎた。

「勘ぐるとかじゃないよ。でもセジからよく名前が出るから」

「あなたもセジって呼んでるんだ。なんだ、そっか」

 友梨奈がほっとした声を出したが、その意味はわからなかった。遊歩道に並ぶ街灯と月の明かりが水面を照らしている。それを眺める横顔が人形のように稚い。セジより年上なのは間違いないけど、せいぜい二十二、三歳というところだ。若いわりに大人びているなと店では感じたけど、この時の彼女は妙に幼く見えた。

「友梨奈でいいですよ、どうせセジが友梨奈ちゃんってうるさいんでしょ? いちいち『ゆ、』とか聞かされるの鬱陶しいんで」

 煩いとまではいかないけれどその名前で覚えていたのは確かだ。

 川下から水を割って屋形舟が上ってくる。この寒いのにビアガーデン代わりなのか、提灯電球が船体に沿って連なっている。

「ああいうのってなんていうんでしたっけ。遊覧船?」

「屋形舟、かな」

「そっか、どういう意味なんですか?」

 細長い船体が堀川をふたつに細く割っていく。友梨奈はその様子をじっと見つめた。「あんなの、楽しいのかな」

「屋形は、江戸時代とかの御館様が乗る舟って意味だったと思う。だから船上に座敷があって、料理が出される船のことをそう呼んでるんだと思うよ。遊覧船は、景色を見るほうがメインなのかな」

「やっぱり詳しいですね。顕花サン、記事とか書く人ですか?」

 友梨奈の口から私の名前が出され、私は少し口籠った。

「……今はもうやってないから」

「まあ、詳しくは聞かないですけど。あたしには関係ないですし」

 友梨奈はひとつ息をつき、手すりに手を置いた。

「よくこんな川で、ごはん食べようって気になりますよね。昔はここ、もっと汚かったんだそうですよ。親が言ってました」

「うん。そうだね」

「知ってたんですね。そか、顕花さんおばさんだもんね」

 今の子たち特有の軽口なのだろう。でも胡桃ちゃんたちは絶対に私をおばさんとは呼ばない。きっと朋がそうさせている。

「ぎりぎりだと思うけど。昔に比べたらすごくきれいになったよ」

「怒んないんですか?」

「なにが?」

「あたしにおばさん呼ばわりされたこと」

「まあ、事実だから」

「へえ、そういうところをセジは気に入ってるのかもしれないですね。あたしは破れた服縫ってあげることくらいしかできないけど」

 勘ぐってるのは彼女の方だ。そもそも気に入ってるとかいないとか、そういう次元の関係じゃない。友梨奈は何を話したいのか。

「それで、話って……」

「今してるじゃないですか」埒が明かなかった。

 結局とりとめのない話をして友梨奈は帰って行った。親が迎えに来ると言って駅に向かったから、もしかすると時間潰しに誘われただけだったのかもしれない。家につくと九時を回っていた。

 部屋に入ると途端に指先が熱くなりじりじりと痺れた。体が冷えきっている。温まらないと寝付けない気がして、お風呂の湯張りボタンを押してからソファーにうずくまった。タイツを脱ぐと、脚の内側に縫い目の跡がくっきり残っている。浮腫みがひどい。着圧のタイツを履いていってよかった。そうでなかったらもっと浮腫んでいた。毛布を引き寄せて体を覆うと、そのまま眠ってしまった。

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