4 味のないガム
「野木さんお疲れ様っす。今日は客。勝手に座りますね~」
「今日もの間違いだろ? ゆっくりしてけ」
中に入るのは初めてだ。外からだとわからなかったけれど、スタッフも多くて活気がある。厨房の焼き場からはもうもうとあがる炭火の焔が見えていた。セジは客席の一番奥まで進むと、六人掛けの赤いソファー席に体を滑り込ませ、メニューを手に取った。
「顕花さん、何食べる? おれはいつもこれ」一番安いセットを指す。手捏ねハンバーグとライス大盛無料の文字。
「あ、おれライス大盛りね!」
オーダーを済ますと、セジが厨房を振り返って腰を浮かせた。
「紹介しようと思ったのにいねえな」
残念そうに座り直し、パーカーを脱ぐ。中にビートルズのTシャツを着ていた。メンバーがアビーロードを横断する有名なジャケットのものだ。
「ビートルズ好きなの?」
私の視線をたどって胸元を見ると、セジは目を輝かせた。
「え、これ知ってんの!?」
スタジオ前の横断歩道を四人が歩いている。先頭は白いスーツにスニーカー姿のジョン、全身デニムのジョージがしんがりで、適度な間隔を保っている。
「それ有名な写真だから」
シャツにはどこにもビートルズとは書いていない。胸の上の位置に、〝The Bootlegs〟とあるのを見て、思わず笑ってしまった。
「それ、海賊版って書いてある」
ブートレグの意味と英語の綴りを説明するとセジは大笑いした。
「マジかあ! 全然気づいてなかった」無邪気に胸元を覗き込み、「じゃあさ、これ誰かわかる?」とジョンに指を置いた。肩甲骨まで届く栗色の髪で横顔は殆ど隠れ、見えているのは目と鼻先だけ。
「ジョンレノン」
「正解! こんなヒッピーみたいなもさもさの頭してんのに、全身白スーツって、マジかっけえよな。これどこか知ってる?」
「アビーロードっていうスタジオの前だったはず。イギリスかな」
「イギリスってどの辺? 行ってみてえ」
世界地図、学校で習わなかった? と言いかけて口をつぐんだ。セジは嬉しそうにシートに背中を預けると、両手で四人を撫ぜた。
しばらくして料理が運ばれてくると、セジがまた目を輝かせた。
「あっ。友梨奈っちいた。今日もかわいいねっ。休みかと思った」
「ずっといたよ」
透き通る肌に、桜色の唇がきれいな子だった。ショートの黒髪が艶やかで、顔の輪郭の美しさが際立つ。口数少なく紙エプロンを渡し、ステーキ皿をテーブルに置いていく。
「熱いのでお気を付けください」
耳から髪がはらりと落ちる。小柄で線の細い子だけれど、どこか凛としたオーラがあった。ヌードのグロスが光っている。服から柔軟剤の香りがした。
「うお! チェダーチーズ乗ってんじゃん」
サービスなのだろう。大袈裟に喜ぶセジに向かって、「野木さんが」と淡々と答えた。
「顕花さん、この子がこの店のアイドル友梨奈ちゃんだよん」
「そんなんじゃない」友梨奈が小さく頭を下げる。
黒目がちの瞳が私を見定めた。ちらりと厨房に目を配り、エプロンのポケットから丁寧に折り畳まれた布地を取り出してセジの膝元にそっと置いた。
「お、これどしたん? すっげーきれえじゃん」
シルクレーヨンのシフォン調のストールだった。緑がかった淡い青。セジの部屋にあった脚のない香炉とほぼ同じ色だ。
「その色、秘密の色って書いて『秘色(ひそく)』っていうんだって。染色の授業で染めたから、あげる」
「え、マジィ? あんがと!」セジは私の方を向いて、「友梨奈チャンは服飾の専門学校行ってんだ」と説明すると、受け取ったストールを鼻に近づけて匂いを嗅いだ。
「んー、いい匂い」
「人前でやめてよ」
「あれえ? 人前じゃなかったらいいってこと?」
「もう!」一息のうちに頬が染まる。セジがストールを首に巻きつけると、彼女は手を伸ばし、端のフリンジを指で掬った。「食べ終わってからにしなよ、汚れちゃうよ」
「ん、そしたらまた洗ってね」
友梨奈は去り際にサラダバーのお皿を置いていった。セジはそれに気づくと座席の下で私の足先をつつき「感謝してよ」と嘯いた。
サラダバーで中皿をてんこ盛りにしてセジが戻ってくる。エビと卵にブロッコリーとジャガイモ、マヨネーズ和えの定番。葉野菜ばかりの私の皿を見て「虫見てえ」と笑った。
「人参のロペとかもあったよ」
「あれ酸っぱくね? レーズン苦手なんだよね」言いながら、スプーンを豪快に運ぶ。すると突然「うっわ苦っげ!」と顔を歪めた。
「無理しない方がいいよ」というと、セジはぶんぶんと首を振る。
「……大丈夫? なんだったの、ブロッコリー?」
「いや……そうだと思ったんだけど違ったみてえ。あれ」なんとか呑み込んでから、彼がコーナー什器の上に掲げられた看板を指さすのを見て、私は眼鏡をかけた。
「……菜の花、ゆで卵のツナマヨサラダ……レッドオニオンもか。大人の味だね」私が読み上げるのを聞いて、セジは看板に視線を向けたまま目をしかめる。皿洗いしかやっていないと言っていた彼がサラダの内容を知らなくても無理はない。「目、悪いの?」
「んにゃ、おれじゃない。おれは悪くない。悪いのは顕花サンでしょ、眼鏡かけてもそれってひどくね?」今のはマネしただけだから、と彼が言うのを聞いて冷汗が出る。「私、そんな顔してる?」
セジは菜の花のサラダを脇へ寄せ、それを軽く拝んでからステーキ皿に戻った。フォークの先にとり、大切そうにソースをかける。
「してるしてる。ピリカでもそうやって花睨みつけてた。だから覚えてたんだもん、おれ。すげーババアがいるなって」
「それ……言い方」
「うっそ、でも顔しかめてたのはほんと。どっか痛いのかな? 具合悪いのかなって不安になったから。何回か見かけるうちに、あ、この人、目わりいんだってわかった」
セジは躊躇い、口に運ぼうとしていたフォークを皿に戻した。
「おれ、顕花サンのことずっと知ってた」
「どういう意味?」
「いつも、すごい悲しい顔して鉢植え見てる人がいるなあって。興味ないフリしてるのに、ほっとけなくて立ったり座ったり、通り過ぎて戻ってきたり……。もうダメそうな感じのやつは、おれも結構拾ったんだよ。ま、そんなん知らねえだろうけどさ」
「拾ったって、そんな猫みたいに」
「そう? あんま変わんなくない?」そういって笑い、またハンバーグを食べ始める。
「あんまり来ないときあるじゃん。顕花サンが買わずに置いていった子は、おれが拾うより、あの人んのとこに貰われてった方が絶対いいって思って。金もねえから、あの人来ねえかな、これ買ってってくんねえかな、って探していつもピリカうろうろしてた」
「大丈夫だったの? ごめんね……」
処分品の価格とはいえ、食べ残しを持ち帰る子だ。
「お金? まあなんとかはなるって。足りないときは他にもバイトもあるし。ここの店長とか、友梨奈ちゃんも貸してくれるし。ところでさ、その手首なに? 小学校のシールみたいの。部屋でオーちゃん蘇り大作戦してたときから、ずっと気になってたんだけど」
見えていないと思っていたけれどやはり目聡い。丸いシールを外してショルダーの内側に貼り、袖口を整えながら答えた。
「噛み締めがあるっていわれて」
「かみしめ? さっき話してたやつ?」
「ううん、腫れとはまた別で……歯ぎしりじゃないけど無意識に嚙んでるんだって。歯が削れてるみたい」
「そんなで直るの?」セジはナイフを持ったままの指で自分の手首をとんとんと叩いた。
「わからないけど見ると思いだすのは確かだから……でも外じゃちょっと恥ずかしいね」
付け合わせのジャガイモが鉄板でジュウと焼かれて音を立てる。誰にも会ってないんだから誰にも見咎められたりしない。そんな私の空々しさを見抜いて異議を申し立てられているような気がした。
「あれえ、野木さん、レジに立つなんてめずらしいじゃん?」
「店長特権、行使しようと思ってな。俺が奢ってやる。今日は支払いはいい。おまえもうすぐ誕生日だったろ? 先祝いだ」
「え! マジでえ? ありがと店長! もう大好き、愛してる!」
「いいからもう帰れ。そろそろ配達入る時間で忙しくなるから。こいつ頼んます」
「え、あ、はい……」
「てんちょ、てんちょ、ねぇガムもらってい? いっぱい」
「いつものことだろ? 好きなだけもってけ」
「やーりい」
セジはジャージのポケットにガムをつっこむと、ひとつ開封して口に入れた。一袋に二個入った小さなガムだ。
「顕花さんもほれ」
口の前に不意に青いガムが差しだされ、反射的に口を開ける。ぽんとガムが口の中に放り込まれ、セジは「マジか。成功した」と喜んだ。「びっくりした」
「なんか雛鳥みてえっ」
外へ出ると、気温差のせいか久しぶりに温かい食事をとったせいかわからなかったけれど顔が火照った。ホットフラッシュとはまた違うのぼせをかき消すように私は言った。
「ガム好きなんだね」最初に会った日もガムを嚙んでいた。
「ん? そうでもないよ」
理由が他にあるとしたらひとつしか浮かばない。
「じゃあなんでって顔してるね。ほんとわかりやすいな。知ってる? ガムってずっと嚙んでると完全に味なくなってただのゴムみたいになんだよ。さらに通り越すと消しゴムのカスみたいになってくんだけど、唾ばっか出てさ、えずいてくんの」
「……それ、わかる」
それを聞いて、セジが足を止めた。
「え、なんでわかるの? 逆にびっくりした」
「昔……、父親の運転で車に乗ると必ずガムを渡されて……。目的地につくまでは吐き出すなって言われてたから、もっとこう、ペラペラの切手みたいなガムだったけど」
父はペンギンのマークが描かれたクールミントガムをいつも持っていた。父は三重の田舎に頻繁に車で通った。母はついていくことはなく、なぜかいつも父は私をつれていった。断ることはできなかった。そのたびに私は父の運転する車の中で渡されたガムを一時間近く嚙み続けた。唾液がどんどん酸っぱくなり、我慢できずによく吐いた。後部座席で横たわっていても父はガムを渡した。
どうして心配されないんだろう。ずっとそう思っていた。今だに夢の中では父の影に追いかけられ、スローモーションのようにしか歩けない。振り返ることはできず、ただ前を向いて脂汗を垂らしながら鉛のように沈む足を必死に地面から引き剥がそうともがく。
「でも好きじゃないならどうして」
「んー。知りたい?」
「話したくないならいいよ」
「優しいね、でもたぶん、顕花サンが心配してるようなことじゃないよ」
唐突に話が逸れる。
「整形したことある?」
「それって美容整形? ないけど……」
「おれ、食っても肉がつかなくてさ。情けないだろ? この体」
余分な肉がないどころか必要な肉もない。ふくらはぎの筋肉の膨らみは、固いこぶのようで確かに目立っていた。
「頬のこけもひどくて、法令線がさあ。これなんとかしたくて」体中皺だらけだから、とセジが笑う。
「もしかしてそれでガム嚙んでるの?」
「な? 理由が斜め上だったろ? おれ、この皺が昔から深くって。友梨奈がいーっとかうーっとか顔動かすやつ教えてくれたんだけど、あれ超だりいし。ガムでいっかなって」
セジの法令線は口を閉じていてもうっすら跡が残っている。でも老化による皺じゃない。そもそもの栄養が足りない気がした。
「ヨガかな。舌を出して上目を剥くポーズがあるけど」ライオンの名前がついているアーサナだ。首の皺や広角の下がりに効果があると美容雑誌でよく紹介される。でもあれは加齢による弛み。セジはまだ若い。顔の筋肉を鍛えたからといって変化が出るだろうか。
「でもだめだあ。あご痛くなるまで嚙んでも全然効いてねえ気がする! もうやめよかな。腹も膨れねえし余計腹すくし」
セジは肩を落とし、夜空を懐かしそうに見あげた。私たちを追い抜いていくテールランプが赤信号で止まって列をなし、角にあるコンビニがぼうっと緑色の光を放って狭い範囲を照らしている。
「顕花サンは、じっちゃんばっちゃんはいる?」
「おじいちゃんは生まれた時からふたりともいない。おばあちゃんは……五年前に死んだよ。もうひとりの田舎のおばあちゃんはまだ生きてる、けどずっと会ってない」
素性の欠片を明かしながら〝死んだ〟という言葉を口にするか迷った。死んだといおうが、空に昇ったといおうが、逝去したといおうが、故人には関係ないことだ。いなくなった事実は変わらない。
人に伝えるとき、『永眠する』『他界する』言葉のあまりの多さに私は今でも煩わされる。それが身内か他人か、それだけで日本語は変化する。そんなこと本当はどうでもいい。失ってこの世からいなくなり、悲しい。ただそれだけを表してくれる言葉がほしい。
「そっか。うちのじっちゃん、マジで口の皺やばくて、三重くらいあったんだよね。やっぱ遺伝かな」そういって両頬を揉んだ。
アトピーがあるようには見えないけれど、乾燥しているし、肌荒れもある。脛に傷痕もあったから、皮膚が弱いのかもしれない。
「あんまり気にしない方がいいよ」
「えずくのさえなきゃ嚙んでんのは楽しいんだけどな」
そもそもガムってなに? とセジが訊く。サポディラという巨木の樹液を煮詰めたもの、それが天然チクルだ。これを嚙む習慣がメキシコからスペイン、さらにアメリカに伝わって世界に広がった。
「……木だね、木の樹液かな」だけどそれは歴史の話。今現在工場で作られているものが、それと同じとは言えない。
「はあ!? え、マジ? そうなの?」
セジは咄嗟に反応して、掌に嚙みかけのガムをぺっと吐き出し、すぐにしまったという顔をして再び口の中へ放り込んだ。
「ごめん! 顕花サンは吐き出していいよ。おれ食う!」
消化できないだけで毒性はないはずだ。でもお腹が緩くなったり胃が痛くなったりといった影響はある。小麦粉が混ざった石鹸で弊害が起こるくらいだ。最近ではキシリトールに疑問を呈する人もいるし数年後にどうなるかわからない。毒と薬は裏表の関係だ。
「大丈夫だよ。でも食べすぎない方がいいとは思う」
今口の中にある青くコーティングされたガムはたぶん白砂糖やブドウ糖、キシリトール入りで、ミントの香料が入っている。キシリトールは白樺の木からとれる天然の甘味料と言われるけど工場で製造されたものだ。白砂糖も同じで体への影響は〝自然〟じゃない。
「ってことはやっぱ良くねえのね? やっべえ、マジでごめん!」
太陽の光だって浴び続ければ毒になる。きっと、毒にならない存在なんてそもそもない。ちょっとずつ耐性がついて体が慣れたり、解毒する力が身についたりして、そんな風に私たちは生きている。大丈夫だからともう一度私は笑ったけれど、マジでおれバカだからいろいろ知りたいんだ。教えてよ、とセジは言った。
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