3 野良猫に餌をやらないで。
茎の根本を中指と薬指で挟んで香炉の器を手で覆い、そのままひっくり返して手の平に土ごと受け留める。そうっと香炉を持ち上げて外すと緩い土が床に落ちて白い根がところどころ顔をのぞかせたけれど、なんとかばらばらになることなく形を保ってくれていた。
「かってえなこれ! ほんとに開けれる?」
牛乳パックに釘を刺すのはかなり力が要った。内側からいくつも穴を開け、香炉から取り出した株をそっと入れる。窓際にあった他の鉢植えから少しずつ土をもらって足しにする。根を傷つけないように気を配りながら、割り箸の先で土を詰め、隙間を埋めた。
「ねえ、できた? これで助かる?」
彼が私の反応を気にするけれど、大丈夫とは言えない。
「とりあえずどこに置こうか。レースカーテンの内側くらいがちょうどいいんだけど。ごめん、そもそもカーテンがなかったね」
「カーテンいる? 誰かに聞いてみる。探せばゴミで出るかもしんねえし。ここのゴミ捨て場、結構宝の山だよ。ネズミもいるけど」
「ゴミ? 汚くない? 家具ならまだしも布物は……」どんな汚れが染み付いているかわからない。目に見えないものの方が怖い。
「あー、あれ? 誰かが触った手すり触れないっていう人?」
「そこまでじゃないよ……。でも、布は嫌じゃない?」
「なんで? 洗えば平気でしょ」
踵を踏みつけて、地面にくつ下が擦っても平気な君にはわかんないよと心で呟く。だけどカーテンがないと、冬は寒いし夏もやばいんじゃないかと思うんだけど、あまり室内にいないんだろうか。エアコンもないし。
「それにしても、ブサイクだな、これ」
一度解体して、再成型した牛乳パックはさすがに不格好だった。
「たしかに……、ごめん」
「なんであやまんの? 顕花サンはこいつの命の恩人でしょ」
まだ助かったかどうかわからない。土が乾いてもう一度水を吸い始めてくれることを願いながら段ボールの上に割り箸を置き、その上に牛乳パックを乗せて宙に浮かせ、和室の角に置いた。
「直射日光はまだ当てない方がいいと思う。しばらくこのままにして、元気になるの待ってからもう一度ちゃんとした鉢に植え替えた方がいいよ。たぶん土も足りないし」
「どれくらい先?」
「どうだろう……、わからない」
声に迷いが滲み出た。私は次も手伝うのだろうか……。通りすがりの猫を呼び止めて撫でる。そのときに感じる切なさに似ている。野良猫に餌をやる行為を無責任と呼ぶ人がいる。餌をあげるなら保護しろと。期待を持たせるだけ残酷だと。でも本当にそうなんだろうか。考えがどんどん逸れていく。彼はそんな私を現実に連れ戻すように口を開いた。
「わかんないのはしょうがないけど、その顔、おれ嫌いだな。もっと笑おうぜ」
そういって、私の頬を指でつまんで上に持ち上げた。
香炉を水で洗い丁寧に水気を拭く。目の高さに持ち上げ「お疲れさま、青磁君」というのを聞いて、名前のことを思い出した。
「さっき、おれの名前と一緒って言ってたけど何が一緒なの?」
ああ、と思い出したように、両腕を上にあげて背筋を伸ばした。
「そう、セジ。青磁理央。変わった苗字だろ? ダチはセジって呼ぶから」どちらも音の響きがいい。呼びやすそうな名前だ。
「そっか、いい名前だね。上も下も」
「上も下もって、いたいけな少年の前で卑猥」両腕で自身を抱きしめる。素直に答えたつもりだったけれど面映さで息が詰まった。
「自分の名前あんまり好きじゃないから、本当にそう思っただけ」
「そうなんだ?」セジは、いたずらっぽく目を細めて下から顔をのぞきこませた。「思い出した。それで、おねいさんのお名前は?」
「さっき話したでしょ」
「ケンカだろ? ちゃんと教えてくんねえと、おれの頭ん中で一生喧嘩っぱやい喧嘩ちゃんになっちゃうよ?」
「――紙貸して」
「紙? 紙かみ……」
きょろきょろすると、思い出したようにポケットから紙切れを取り出す。手品めいたしぐさで開いて見せてから私に手渡し、冷蔵庫にぶら下げてあったサインペンを取ってくる。紙切れ、というより殆ど紙屑。開くとコンビニのレシートだった。
「ちっちゃいな……」サインペンは極太のボードマーカー。太すぎるし紙も小さすぎる。「これじゃ書けなくない?」
「やっぱり? んじゃあさ」
セジは立ち上がり、私の腕を掴んで台所に連れて行った。冷蔵庫に貼られたマグネット式のホワイトボードの前に立つ。縁に『たまご』と書いてあるのがかわいかった。
「ほれ、ここに」
言われるがまま、極太ペンのキャップを開ける。スン、と懐かしい揮発臭が鼻腔に届いた。二ドアの小さい冷蔵庫。身を屈めて軽く息を止め、そこへ名前を書く。マーカーのペン先を斜めにずらしても、顕花の〝顕〟がどうしても潰れてしまう。
一度消し、思いっきり大きく線を乗せる。できあがった〝顕花〟を見て、口の端を広げて笑う彼につられて気持ちが和む。
「字ィ。めっちゃむずいな。わけわっかんねえ」
「覚えなくていいよ。こんな漢字まず使わないから」
今でこそ、名付けた親の気持ちはわからなくはない。でも子供時代にこの字を好きだと思ったことは一度もなかった。画数が多いし、音からまっ先に連想するのはやっぱり喧嘩だ。男の子たちには当然からかわれた。そうじゃなくたって、葬儀で使う「献花」も連想してしまう。「けんちゃん」とちゃん付けされると男の子みたいで、せめて「けんかちゃん」と、「ん」が下がるイントネーションで呼んでと友達には頼んだけれど、いつもイヤだなという思いが消えなくて、焼肉屋の臭いみたいにずっとこびり付いていた。
「でもなんか、この字どっかで見たことある」
「まあどっかでは、きっと見てるんじゃない?」
セジは、ふうんと言いながらボードから視線を離し、私の顔を見ると首を傾げた。
「どしたの? 口」
「え? 私、今なにかしてた?」
「そこ、なんか気になる? さっきから舌先で触ってる。平気?」
「ごめん……、なんか腫れてて」
「虫歯?」
字を書くことに気をとられ、無意識に出てしまった。
「先週歯医者さん行ったんだけど違うって言われた。でもずっと水が溜まってるみたいな感じがして、膨らんでるから気になって。針刺しても破れないし」
気恥ずかしさで言葉数が増える。するとセジは、「見せて」と顔を近づけた。
「え? それは……」
たじろぐ私を見て、セジは怪訝な顔をした。
「なんでよ、おれ穴開けるのうまいよ? ピアスで慣れてるから」
収納ケースを開けて、針を探し始める。身体が離れたことにほっとした。畳の上に四つん這いになったセジのジャージの膝にい草が刺さり、摩擦音が耳に障った。横顔がきれいだ。鼻が高くて。右の眉山にピアスホールが開いている。指でつまみ上げたような膨らみが残っていて少し赤い。
「それ……、全部自分で開けたの?」
そんな場所どうやって針で突き破れるんだろう。最初に見かけた日は下唇にもチェーンのリングがついていた。
「そう、へっちゃらだよ。痛えけど」といって笑う。
「……痛そう」
「でもさっ、痛いと生きてるって感じしねえ?」
どっちが痛い? と訊ねると彼は手を止めて振り返り、「断然こっち!」と眉をつまんだ。「ここはマジやべえ。もう二度とやらねえって思った。墨も一緒、毎回もう死ぬ、無理、ぜってえ最後! って思うんだけど、おれバカだからすぐ忘れちゃうんだよね!」
セジはまた膝を離すと、収納ケースに腕を突っ込んだ。
「顕花サンはつけないの? それ耳ふたつ穴開いてんだよね?」
「たまにつけると痛くなるから……」
セジはふーん、と話を流しながら針を探した。
「ねえなあ、友梨奈チャンに借りてたのがあった気がすんだけど」
「彼女?」
「いや、バイトで一緒の子。ブロンコビーンの人気ナンバーワン。友梨奈チャンがいると売上があがんだってさ。ま、おれはずっと皿洗いだから関係ないんだけど。だからほれ、手がっさがさ。こんなナリしてるから客前に出てほしくないんだろね」
針を探すのをやめ、ケースを押し込む。男女平等といわれても、サービス業で女性は接客、男性は皿洗い、そういう構図はしぶとく残っている。どっちが優遇されているかとか、大変かとかそういう議論は筋違いだろうけれど、もしこれが逆だと女性差別だと騒ぐ人もいるだろうから、実際のところ平等は浸透していない。
「……見た目は関係ないんじゃない?」
「そう? 顕花サンは手えきれいだね」褒めたつもりだったかもしれないけれど、それは私の胸を小さく刺した。
「……手袋しないの?」
「つけると皿割っちゃうんだもん。ほら、プールの匂い」
言って手を近づける。塩素臭のなかに、セジの皮膚の匂いがした。少し酸っぱくて、皮脂の臭いに混ざったわずかに甘い香り。
「あれ? もしかして臭い?」
「ううん、牛乳みたいな匂い……」
たまに飲むと驚く、動物性脂肪特有の舌につくねっとり感と甘さ。これは母乳なんだということを私に思い起こさせる。昔は素通りしていた甘さだ。鼻の奥に張り付いて膜が広がっていく気がする。それは守られるようでもあり、浸蝕されるようでもあった。
「え! それやばいじゃん! ぞうきんってこと!?」
「違うよ」私が笑うと、セジは胸に手を置いて息をついた。確かに臭くはない。でもそれは妙に纏わりつく、忘れていた甘さだった。
「あれえ? やっぱこっちにもねえなあ……」
友梨奈に借りたという針を探したけれど、見つからなかった。
「さてお礼しないとね! とっておきのごはんをご馳走します」
お金に余裕があるとは思えない十代の少年に食事を奢ってもらうなんてできない。そんなのいいよと断ると、「さっき約束したし」と拗ねた目つきで私を見た。約束なんてしただろうかと思い返していると、セジは床下のユニット収納の蓋をバカッと開けた。
「じゃーん! キャベツ太郎!」
そこにはぎっしりとスナック菓子の小袋が詰まっていた。
「……こんなにたくさん?」
「へへん。おれの主食だからね」
冷蔵庫にはラップで包まれた白飯が上段を埋め尽くしていた。
「とりあえずこれで生きてる。おれめっちゃ食うから量は足んねえけど、キャベツ太郎・ウィズ・TKGは神だから飽きねえ」
ソースや萎びたキャベツの千切りらしきものが混ざり込んでいる白飯もあった。もしかしなくてもバイト先から持ち帰っている。
「あ、バレた? 店で余った白い飯。客の食べ残しは絶対持って帰るな! つって店長めっちゃこわいから、内緒な。ほっとんど食わねえ客もいるし、いろいろ出るんだぜ。大抵はその場ですぐ食べちゃうけどね。捨てられるよりマシだろ?」そう自慢げに言った。
「どれにしよかな」
床下に首をつっこむようにして、キャベツ太郎の袋に印字された消費期限を確認する。
「主食って本気だったんだ」
ジャージのウェストゴムがお尻深く下がり、下に穿いているショーツの平ゴムが見える。色あせたオレンジ色のブロード生地。細い背中に浮き上がった背骨……。
「そーだよん。だって他に何食べんのよ? 飢え死にしちゃうよ」
二つの感情が瞬時にせめぎ合った。深入りしない方がいい。ブレーキを踏む理由を探しながら、差し伸ばせる腕を私はまだ持っている――そんな浅はかな正義感が論を張る。踏み込んでも踏み込まなくても、どちらにも自問と自責は起こる。『野良猫に餌をやらないで』公園の貼り札が
私は繭の内側から外を覗く。ここにいれば安全だ。誰にも傷つけられることはない。繭の外には何があるかわからない。及び腰になる気持ちと、繭を破る純粋な億劫さも同時に湧いた。きっとこれは同情じゃない。見ないふりの恐ろしさを私は知っているはず。二度と救えない後悔。これは私自身が後悔しないため。
「土……買いに行こう。これじゃ足りないし大きい鉢も要るから」
食べ残しにお菓子をまぶせて卵をかけたご飯を『食べるな』と制する権利は私にない。だからすでに係っている。結局私は小人パキラも野良猫もどちらも放っておけないんだ。
「でもおれ、金ねえよ。給料日前だし、家賃払ったばっかだから。土はどっかで掘ってもらってくるし」
「じゃあうちに残ってる土あげるから。鉢も使ってないのあったと思う。それで今日はなんかちゃんと食べよう。私が出すから」
「おれかっこわりいなあ。奢るっていったのに」手にしたキャベツ太郎の袋を床下に戻すと、蓋を閉めて私を見上げた。
「顕花サン、ハンバーグ好き?」
「嫌いじゃないよ……」
「んならブロンコビーン行かねえ? おれめっちゃ食うから普通の店じゃ足りねえし。店長サービスしてくれると思うから」
セジは嬉しそうに立ち上がった。普段肉は食べない。バイト先についていくことにも気が引けた。でも出会ったばかりの私が彼の分を持つというのは、施しを受けるようで嫌だったのだろう。日々こういう食生活をしているからこそ気持ちはわかる気がした。だからそれがせめてもの彼の譲歩なら、いいよと答えるしかなかった。
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