2 かけない鍵穴

 彼が住んでいたのは、国道一号線沿いにある古い団地で、堀川をまたぐ白鳥橋を超えてほんの少し内側に入ったところだった。

 人工河川である堀川は下水道と合流されている。雨が一定量を超えると、雨水と混ざった未処理の生活排水が直接河川へ流れ込むから、昭和の終わり頃にはひどい悪臭だった。その頃の私はまだ幼かったけれど、黒いヘドロが浮かぶ水面の姿は今でもよく覚えている。流れは停滞し、缶やポリタンク、布、タイヤ……浮かんだゴミはどこへも行かず、ただその場で彷徨っていた。汚れは汚れを呼んで、不法投棄も問題になった。進学し、名古屋を離れていた間に、堀川は再生計画が施され、今ではすっかりきれいになった。

 あの頃のような臭いはもうしない。子供の頃、犬の散歩でしか踏み入らなかった川沿いには、遊歩道とジョギングコースが整備され、それなりに利用者もいる。それでも、川というよりため池か運河のような存在の堀川からは、常にうっすらと沼めいたプランクトン臭がする。カビとか、抗生物質を飲んだあとの尿のにおい。

「ここ臭いでしょ、だからかな、すっげえ安くってさ。よっ、おっさんお疲れ!」作業服を着込んだ清掃人に声をかける。

 七階建ての棟に続くアプローチに敷かれたブロックはあちこち盛り上がり、隙間からは雑草がはみ出していた。

 道すがら話した感じでは、彼は小学校を卒業するまで親戚の家に預けられていたらしい。その前は北海道の祖父母のところで過ごしたと言った。両親はどうしているのか、今の賃貸契約がどうなっているのか……わからないことは多かった。訊けばあっさり答えてくれそうな、あっけらかんとした態度。気軽にノックできる扉じゃない。簡単に開いてしまいそうだからこそ、踏みこむ権利は私にない。

 当たり障りのない会話をしてポーチを潜ると、中はコンクリート特有のひんやりとした空気が漂っていた。白鳥庭園の先にも団地はあるけど新しい。眺望良好、オートロック、床暖房完備――モデルルームのチラシを少し前に見た記憶がある。公営住宅も様変わりしたものだと思ったけれど、昔ながらの団地もしっかり残っていた。

 郵便受けはフライヤーで溢れ、空き部屋の多さを物語る。一基しかないエレベーターにも『調節中』のプレートが貼られていた。

 彼はそのまま管理人室の前を通り過ぎ、一番奥の部屋まで歩いていく。ドアノブに手をかけて引くと、キイと耳障りな音が響いた。

「鍵、かけてないの?」

「そんなん、こんなトコ団地でいる? ダチも勝手に来たりするしさ」

 ドアが開かれると、暖気がふらりと足元を流れた。それから、煙草とは違うわずかな煙のざらついた臭い。インド産の三角コーンのお香、あれがちょうどこんな感じだ。

「なんか、あったかいね」

「ああ、ここ、壁の向こうにボイラー室があって、冬はわりとあったかいんだ、夏はやべえけど」

 さらりと私を招き入れる。玄関の隅に、透明の雨傘が何本も束になって寄りかかっていて、人の出入りの多さがわかる。彼はスリッポンを玄関口に滑り落とすと、さっさと中へ入っていった。背中で扉が音を立てて閉まる。

 大丈夫、まだほんの少年だ。枯れそうなオーガスタを私は見に来ただけ。――自分にそう言い聞かせ、靴を脱いで彼に続いた。

 奥に畳の部屋が見えた。襖のある押し入れ、黄ばんだ壁紙。エアコンの取り付け位置には金具だけあって、本体は付いていない。ガラス戸にカーテンはなく、外の景色が飛び込んでくる。柵の外側に植え込みがあり、その向こうに公園が見えるけど人気はなかった。

 上部に換気用小窓がついた掃き出し窓は、下半分がすりガラスになっている。その手前にいくつか植木鉢が置かれていた。黄色いプラスティック鉢には、見慣れたピリカの値引きシール。それを見たとき、私の胸の内に明らかな同類意識が音を立てて芽生えた。やかんの中でぽこりと沸騰する最初の一粒の泡のように。全部処分品だったのかはわからない。でもたぶん、そんな気がした。

「こっちこっち」

 ピンクのストリングをクリップで留め、台所に入っていく彼の背を追う。流しの隅に金属たわしが置かれていた。古いけれどきれいに磨かれた流しの中からオーガスタを持ち上げるとそれを台の上に置いた。

 売られていた時とは違う器に入っていて、元気がなかった。

「鉢、入れ替えたの?」

「うん、コレにした! かわいいデショ?」

「たしかにかわいいけど……」

 セレクトショップにありそうな淡いまだらブルーの陶器だ。丸くぽってりした印象で、ちょうど私の両手に収まるくらい。鉢にするには小さいし、たぶん鉢じゃない。

「いつ変えたの? 最近?」

 笹の葉を丸くしたような葉っぱが頼りなく垂れている。オーガスタは暑さ寒さに強く、初めてのインテリアグリーンにもお勧め――たしかそう書かれていたけれど。

「さあ、いつだろ。あんま覚えてねえ」

 手元に寄せて裏を覗くとやはり底穴はない。朝食シリアルをいれるのに良さそうなデザイン。カフェオレ用なのかもしれなかった。

「初めは、赤ちゃん葉っぱすぐ伸びてきてかわいかったのに、それから全然だめでぐんにゃり曲がってくる。どうすりゃいいの?」

 傾けると、表面にじんわり溜まるほど水が溜まっていた。

「鉢の底には穴が要るんだよ。水をあげすぎると腐っちゃうんだ」

「腐るの?」

 黒い瞳が私を捉えた。焦げ茶色の長いまつ毛が蟻の足みたいに伸びている。十六歳で高専の二年生ということは早生まれなんだろうか。ゆくりなくも、たじろいでしまった自分をごまかすように私は考えを逸らし、オーガスタを流しの中に戻した。

「こういうのは使うにしてもカバーにするの。二重にするんだよ」

「青磁の香炉なんだって。バイト先でもらったんだ。こいつ植えるまではお香焚くのに使ってたんだけどさ。おれの名前と一緒なの」

 さっきは〝理央〟と名乗ったのに、どういう意味だろう。

「これ香炉なの?」

「そう、青磁のね」

 と器を指先で撫でる。落とした瞼の先にやっぱり蟻の長い脚が這っている。彼の視線を追いかけるように流しの中に目を向け、青磁の香炉と呟いた。

「香炉なんだ、これ」

 だとすれば、口が窄んだデザインも小ぶりのサイズ感も納得はいった。仏具には詳しくないけど、この形状なら蓋がありそうな気がする。ないなら既に失われてしまったか、訳あり品なのだろう。

「こいつ、裏に脚もあったんだって。見たことねえけどずっと昔に取れちゃって、その後はずっと古着屋のレジに置かれてたらしいよ。ほらあるでしょ? 支払いんときに自由に使っていい小銭が溜めてあるやつ。最近じゃあ現金使う人もあんまいないから、すっかり役立たずみたいな扱いでかわいそうだろ? おれみたいで」

 彼はそういって冗談めかし、また私の顔をのぞき込んだ。

「それで、もらってきたの?」

 おれみたい、か……。預けられていたという親戚の家を出て、この歳で一人で暮らしている。経緯はわからないけれど、それだけで深い事情があることはわかる。ちゃんと契約して住んでいるようだし、専門学校にも通っているというくらいだ。親族か行政の支援は受けているのかもしれないけれど、小銭入れになった香炉を自分に重ねる。なぜそう感じるのかはなんとなくわかる気はした。

 脚も蓋もないけど、香炉の表面はつるりとしていてうちの浴室の鏡よりずっときれいだ。これが捨てられずにいたことは幸運だと思う。傷ひとつない立派な骨董品でも、風呂敷に包まれたまま、押し入れの奥で何十年間も眠り続ける桐の箱だって多いはずだから。

「こういうのいいね」

 私の言葉の意味をどれくらい理解したのかはわからなかったけれど、彼は「そう?」と柔らかい声を出した。姿が欠け、用途が変わってしまっても、存在を忘れ去られることなく使用されていた五体不満足の香炉が貴く感じられる。なにより、捨てられずにこの部屋にたどり着いている。大切にされていたとはいえないかもしれないけど、道具の持つ普遍性は損なわれてはいない気がして。

「なんとかしてあげないとね。最初に入ってた鉢はある?」

「落として割れちゃったんだ。だからこれに変えたの」

 他には? と訊ねると彼は首を振った。

「とりあえず、水はちょっとでも抜かなきゃ」幹の根元部分を指で掴み、左右に揺らしてみる。土の中ですでに傷み始めていると、その頼りない感覚でなんとなくわかる。幹は揺れた。でも軸にはまだ張りがある。器を替えた時に減ったんだろう、土も足りない。

「まだ間に合うとは思うけど……」

 弓なりに葉が垂れている。何度か鉢替えをしたことはあるけれど、何号サイズを選べばよいかも初めはわからなかった。彼一人では持て余すだろう。代わりに調べたとしても必要なものをすべて揃えれば早くても明日だ。東友マートなら外の敷地にちゃんとした園芸コーナーがあるから土はそこで買うとして、あとは――。

「腐っちゃう? どうしよう、おれバカだからわかんねえ」

 おろおろとした声で、流しのふちに顎を乗せて鉢を見つめた。

「これ出していい? 牛乳パックか何かある?」

 大丈夫だよと言ってあげたいけど、もしそうならなかったらきっと落ち込む。

「牛乳パック?」

「空になったやつ」

「あるけど一回潰しちゃった。それでいい?」

 彼は廊下へ飛んでいくと、収納庫から紙の束を持って戻り、床にぶちまけた。足で踏んだとわかるお菓子の箱や、力任せに潰されたポテチの筒状ケースが転がったけれど、ちゃんとハサミで切り開かれた飲料パックもある。ヨーグルト容器のひしゃげた口をこじ開けようとする彼を止め、きれいに解体された牛乳パックを選んだ。

「これにしよう。開き方上手だね」

「デショ。たまに頑張ってる」

 スリッパになるほど履き潰された踵を思いだして、思わず笑ってしまう。ずぼらなのか几帳面なのか、よくわからない子だ。

「ガムテープある?」と訊ねると、「ある!」とまた廊下へ飛んでいく。フリスビーを追いかける犬みたいで可笑しい。ガムテープを手首にくぐらせて回しながら戻ってくると、「はい!」と渡した。

「なんとかなるかな……、ここ押さえて」

 牛乳パックを四角く組み直し、テープで補強する。多少は漏れるだろうけど、今は水はけが必要だからちょうどいいかもしれない。

「でもまだ小さいから、もう一度変えないといけないと思うけど」

「え、そうなの? よくわかんね」

 彼は不安そうにした。要らないことをいったかもしれない。でもこれは一時的なレスキューでしかない。ごめん、と心で呟いて作業を続ける。

「とりあえず、底に穴を開けたいんだけど」

 小さな穴を開けようとしたがハサミではうまくいかなかった。

「なにか、先の尖ったもの……。太めの釘とかある? 穴開けたいんだけど」

「釘? わあった! ちょっと待ってて!」

 ぴょんと跳ねるように立ち上がる。また廊下かと思っていると、今度は玄関を飛び出していき、外廊下に盛大な足音を響かせた。放たれたドアがキィィと高音を長引かせてからばたんと閉じる。

 しばらくすると、彼が釘と金づちをもって戻ってきた。

「おまたせ!」

 玄関で仁王立ちし、金づちを振る。彼はきっと素直でとてもいい子なんだろう。玄関口に共用廊下から日の光が差し込み、彼の姿を影絵のように暗転させた。暗くて顔はよく見えなかったけれど、その表情は明るく華やいでいるのが感じられた。

「金づちは要らないんだけど」

「管理人のおっちゃん! 釘くれっていったら勝手に渡された!」

 どうやら彼は、ここでしぶとくかわいがられているようだ。

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