第二章

1 キャベツ太郎はおかずです。

 船方のバス停に、帰宅途中の女子高生がばらけた列を作っていた。熱田高校の生徒だ。どの子もスカート丈は膝上十センチ以上。制服の上にカーディガン、厚いデニールのタイツを履いていても寒そうなのに、平気で生足を晒している子もいる。和気あいあいと語る彼女たちの前を通り過ぎ、横に逸れて歩道橋を上る。

 スロープのある歩道橋は、一段が低く勾配も緩やかだけれど折れ曲がっていて距離は長い。先にある歩行者信号が黄色点滅を始め、シルバーカートを押したおばあさんが立ち止まった。そもそも車社会の町だし、歩いてピリカまで来るような人は大抵ひとり暮らしのお年寄り。赤信号だからといって歩道橋を上る人は少ない。だからこの陸橋の上で誰かとすれ違うことはまずない。

 角にある自動車工場の敷地から、出荷用車両が積まれたキャリアカーが出ていく。牽引車は器用に首を曲げ、大きくお尻を振りながら幅員の広い三車線道路にするすると吸い込まれていった。あまり空気の良くないエリアだけど、歩道橋の上から足元を流れる車両の列を見下ろしていると閉塞感が和らぎ気持ちが落ち着く。こんな気持ちを厭世的というのだろうか。誰とも関わらずに生きていけるなら、ずっとそれで構わない。白く褪せたアスファルトは黒いまだらの継ぎ接ぎだらけ。路上に落ちている軍手がタイヤに引きちぎられ、漂う車粉禍が表層の亀裂にゆっくりと埋め込まれていく。

 田舎暮らしも考えた。自然に囲まれたどこか知らない土地で、治療が終わったらゆっくり空と暮らすのもいいなって。でも田舎は都会の何倍も人と関わらなくちゃ生きていけない。生活が不便になればそれを補うために社会が機能する。必要なことだけれど煩わしさは増す。人里離れた山奥で自給自足の生活を選ぶほど覚悟はない。

 駐車場を抜けて店舗入口に向かう。大手チェーン店とは違って外装は質素なものだ。両引きの自動ドアの前に、自販機がひとつと自転車の空気入れ、あとトレイや紙パック回収用のリサイクルボックスがある。家庭ごみの持ち込みはご遠慮願いますと張り紙はしてあるけれど、白いゴミ袋が雑に押し込まれていることも多い。

 そこに彼はいた。遠目からでもあのときの少年だとすぐにわかった。前回とはうって変わり髪色も含めて全身真っ黒だったけれどやはり目立った。踵を地面から浮かせた蹲踞そんきょすわりで、二つ折り携帯を膝の上でぱかぱかさせている。気づかれるだろうかと躊躇ったけれど、そのまま通り過ぎようとすると顔をあげた彼と目があった。

「……何してるの?」

 仕方なく近づき声をかける。

 少年はニッと笑い、開いた膝をうれしそうに左右に揺らした。

「いた。もう来ないかと思った。オバサン」

 癇に障る。私は向きを直すとカート置き場に進み、積み重ねられたかごをひとつ掴んで持ち手を片手に収めた。

「ちょっと待ってよ」しゃがんだまま、私を視線で追いかける。

「枯れそうなんだ。おれ、わかんなくて」

 すがるような声が忍びなく、「こないだの?」と足を止めると、少年は立ち上がりぴょんと距離を縮めて私からかごを取り上げた。

「そう。教えてよ。おれ探してたの、あなたのこと」

 正面に産地直送野菜が入った段ボールが並んでいる。土の残るジャガイモ、外皮のついた玉葱。キャベツの横には捨て箱が置かれ、遠慮なくちぎられた外葉が取り残されている。苦味のある濃い緑の葉。前を歩く人のかごの中に小さくなったキャベツの玉が入っていた。それがとても白く見えて切なくなる。そこを素通りしながら、「親御さんは?」と訊ねると、間髪入れずに答えが返ってきた。

「いない」

「いないって? ……かご、返して」

 手を伸ばすと彼は素直にかごを渡した。ベビーリーフをひとつ手に取って中へ入れる。

「おれ一人なんだ。ひとりで暮らしてる。あそこ、見える? ブロンコビーンでずっとバイトしてる。おれえらい」

 少年は体をひねって店舗入口から見える黄色い看板を指差した。ハンバーグの店だ。親もいなくて、この歳でひとり暮らし? どこまで本当なのかわからないけれど、冗談めかしている様子はない。

 最初に会った日、卵コーナーへまっすぐ進んだ後ろ姿が蘇る。

「卵……」どこへ向かって会話の舵を切ればいいのかわからず、「買ってたよね、卵。……自炊してるの?」と口をついた。

「自炊ってゆうんかな? キャベツ太郎にかける!」

「え、お菓子?」予想外のワードに足が止まる。

 私が驚いたのが嬉しかったのか、彼は頬を膨らませた。

「そう! キャベツ太郎はおかずです。ボロボロに崩して白いごはんの上にかけて卵乗せるの。おいしいよ?」

 熱々ご飯を頬張るフリをして目を細める。妙な仕種に思わず力が抜けた。キャベツ太郎をふりかけみたいにするということなら、幼い子ならやりそうだ。

「懐かしい、今でもあるんだね……。存在を忘れてたよ」

「へへ、ピリカは売ってるよ。でも担当の人が変わるたんびになくなるから、その度にちゃんとお願いスル」 

「そういうの、ここ聞いてくれるんだね」不愛想な対応をされた記憶しかないこの店で、仕入れをおねだりできる素直さが羨ましい。

「うん、ピリカの『お客様の声』はおれと太郎のためにあるなっ」

「……それってご意見箱のこと?」

「そうだよ、ほらあそこ。この店結構リクエストきいてくれるよ」

 パカリと開いた携帯で、床にある赤矢印の奥を示した。

「あったんだ……、ないと思ってた」

「おねえさん目え悪いデショ? 自販機の横にちゃんとあるよ。あ、わかった老眼だ。売れないとすぐ仕入れなくなっちゃうからせっせと買うんだ。だからおねえさんも買ってね、ボクのために」

 二本の指をウィンクした左目にかぶせて舌を出す。その素振りがわざとらしい。「それよりさ、おれマジで困ってんだ。あの子枯れちゃう。ついてきてよ。キャベツ太郎ごはんオゴルから」

 おどけた態度とは裏腹に『あの子』という声に慈しみが覗いて見え、私は同情心が湧くのを抑えきれなかった。

「この間の、オーガスタ……?」

「そう、オーちゃん」

 買い物客が私たちを遠巻きにし、微妙なバリアができている。ずっと立ち止まっているわけにはいかない。

「キャベツ太郎ごはんは要らないけど……」通路の端に寄り、様子を訊ねた。「枯れちゃうって、どういう感じなの?」

「うまく説明できない。話すより見た方が早いって!」

 少年は私の手から再びかごを取り上げると、中に入れたベビーリーフを取り出して売り場に戻し、カート置き場まで走っていった。

 国道154号線を北へ向かう。国道沿いはさらに住宅が少ない。途中にある公園にも遊具らしい遊具はなく、鉄棒だけが遺されている。緑フェンスの内側は雑草が茂りすっかり鳩と猫の楽園だ。ノラネコに餌をやるなと注意書きがビニール紐で括りつけられている。

「まだ行くの、遠くない?」靴の踵はトラックに引かれた卵の紙パックみたいに完璧に踏み潰されている。ずるずると引きずりながら身体を前斜めにして歩くので、足が悪いのかと疑ったほどだ。

「もうちょっとだから、もうちょっと、もうちょっと」

「さっきからずっとそう言ってるよ……」

 彼は右足のジャージの裾を捲り上げてずかずかと歩き続けた。細い足に、ふくらはぎの筋肉だけがこぶのように盛り上がって血管の筋が透けて見える。ひっかく癖があるのか瘡蓋がたくさんあった。うちの小人パキラみたいだ。それか卵を孕んだメダカのおなか。

「いくつなの?」

「16」

「高一?」

「電気の専門学校だよ。今、二年。中学校の担任が絶対中卒にはなるなっていうから頑張って入ったけどさ、学費やばすぎてバイト三昧。出席やばくて補習来いってうるさい。おねいさんは?」

「私はいいよ……」少なくとも倍では足りない。

「いいじゃん、教えてよ。そんな年に見えないって言ってやるから」

 答えずにいたら、彼はそれ以上訊ねなかった。

 時計工場からウェストミンスターの鐘の音が響く。業務交代の時間を告げるチャイム音だ。ここに越してきた頃は近くに学校があると勘違いしていた。馴染みのあるこの音色は日に何度か私の家まで届くけど、夕方以降にも聴こえるからずっと不思議に思っていた。

「――靴さ、それ歩きづらくない?」

 通り過ぎる車の走行音にかき消されない程度の声で私は訊ねた。履き口を踏むのは癖だろうし、一度や二度ではここまで潰れない。スリッポンからはみ出した踵がアスファルトの地面をこすり、今にもソックスが破れそうだ。

「平気だよ。それよか、おねいさん名前は?」

 ゆっくりいいながら隣に並び、私を覗き込む。

「おれは、理央」

 左の眉山にピアスホールが開いている。目が大きい。一瞬見ただけで、吸い込まれてしまいそうだ。黒目がどうしてこんなに大きいんだろう。そのくせ上目遣いになると、下瞼の内側にきれいな白目が月みたいに昇って、三白眼になる。

「彫りが深いね」

「よく言われる、おれクオーターなの」

 目が悪戯っぽく光る。名前を伝えてしまえば何かよからぬことが起こりそうで躊躇った。

「クオーターって、魔女の家系とか?」

「男でも魔女っていうの?」

「さあ、どうなんだろ。鼻高くていいね」

「それより誤魔かしてるでしょ、名前」

「そういうわけじゃないけど……」

 上手い交わし方もわからない。黙っていると、意外にも彼は微笑んだまま視線を動かさなかった。名前くらい尻込みする理由はないはずだ。沈黙が長引くのが怖くて、私は歩きながら口を開いた。

顕花けんか

 彼が近づけていた顔を離す。変わった名前だと思われているのがはっきり伝わる。みんなそう。同じ反応をする。

「けんか? どういう意味なの? 喧嘩、なわけないよね」

「花が咲くって意味。逆は〝隠す花〟って書いて、隠花いんかっていう」

「へえ! かっこいいじゃん! すげえ」

「別にすごくないよ」

「なんでよ、おれ今まで聞いた中でいっちゃんかっこいーぜ。はどういう字ぃ書くの?」

 意味、そして字面……。昔からそうだ。いつだって訊ねられる。「顕著のけんです。顕微鏡のけんです」と答えたところで、一発で書ける人はまずいない。日常から遠ざかった文字。それが私。就職先で名刺をもらったとき、大人はこうやって楽していたんだと感じた。子供の頃から名刺があれば、こんなやり取りを繰り返してこなくてすんだのに。後でねと答えると、彼は「わかった!」と嬉しそうに前を向き、ポケットに手を入れて背中を丸めた。

 配送トラックがたくさん走り過ぎていく。道路の幅員が広くなるのに反して歩道が狭くなり、足場も悪くなる。崩れていないコンクリートブロックを探すように足を繰り出しながら、彼の擦り足を追った。こういうのがかっこいいと感じる年頃なんだろうか。そんなことを考えながら、情けなくなりため息が漏れた。私は何をしているんだろう。あとでピリカに戻る? でも別に今日買わなきゃいけないものなどない。歳を取れば感覚は鈍くなり、図太くなるのだろうと昔は思っていた。けれど全然そんなことにはなっていない。むしろ刺激や変化が少なくなる分、一つひとつの出来事が占める割合が大きくなってしまい、余計に傷つきやすくなっている気がした。

 百歩譲って感覚が鈍くなっているとしても、長年付き合ってきたセンサーの癖はこの身に染み付いて、軽く振れるだけで感知できる。それを敏感と呼ばないのなら、いったいなんと呼ぶのだろう。

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