3 また買うの?
小人パキラはなんとか生き永らえていた。新しい枝葉はなかなか伸びず、爪楊枝の先ほどの新芽が節の区切りにできては、そのまま茶色くなりポロリと落ちるのを繰り返した。それでも、残っている葉には艶があり、水分と養分を取り戻しつつあるように思えた。この子はずっと小人のままかもしれない、大きくなれなくても枯れないでいてくれたらそれでいい。胴体の皮が、剥がれた鱗のようにこびり付いているのを指で押さえ、生きている感触を確かめる。
コーヒーメーカーの電源を入れると、赤いランプが点灯して出がらしを捨てろと伝えてくる。トレイを引き出し、棚に吊り下げたごみ袋の中に逆さに落とすと、袋の内側に茶色の液体がだらりと垂れる。肥料代わりにコーヒーの滓を観葉植物の土に撒いたことがあるけれど、大抵は一週間もしないうちに白いカビが生えた。私の管理が下手なのかもしれないけれど、養分を足すとうまく育てられない。液体肥料なら平気なんだろうか。見かけるたびに思うけど一度も試していない。緑色のアンプル。中身は透明の液体で、緑色じゃないことは知っている。でもなんとなく抵抗があった。
ばあちゃん家の庭はどんな木も花も立派に育っていた。土に埋めたのは生ごみ。卵の殻、野菜くず、傷んでしまったみそ汁、何でも埋めた。あと煙草の吸殻。肥料も土も、一度も買ってなかった。土を掘り、埋め、土を被せた。みかんの皮も埋めたし、死んだ金魚も埋めた。そのどれもすべて同じように供養めいていた。ばあちゃんは手を合わせたりはしなかったけれど、私はたまに手を合わせた。
ふたり暮らしは幸せだった。ばあちゃんは一日置きに、泊まり込みでホテルの客室清掃のパートに出ていた。月に数万円貰える給与を私の大学進学費用の足しにといって貯金してくれていて、夕方出かけて戻るのは翌朝、高校へ通う私とは入れ違うことも多かった。
雨が降るとよく傘を差して庭に出た。しゃがみこむと、ばつばつとした音が頭上で響き、傘の上を流れていく筋が一本道になったり二股に分かれたりまた一つに戻ったりと繰り返すのを、飽きもせず眺めていた。雫に打たれてしなだれる葉の下で小さな虫が身じろぎしつつ雨宿りしているのを見つけると、私はその植物の上に傘を差し、虫を二重の傘で覆って密かに満足した。急に雨が止んだのを虫が驚いているような気がして想像を楽しんだ。そしてたまに、傘をそこに置いたまま部屋に戻った。縁側のガラス窓の向こうから雨の音のみがこの耳に届くとき、それは私にすばらしい静寂を与えた。
コーヒーの木、サボテン。どうしてこの部屋にいるんだろう。この部屋には、君たちが本来いるはずの気候もなければ、大地も存在しない。鉢植えの中にはミミズもいないし、蟻も棲んでいない。自然と同じ土世界なんてどうしたって真似られない。繁殖用に育てられたものは、そもそもが弱いから自然に放しても生きられるかどうかわからないとも聞く。人工の環境には人工の手入れが要る。それを理解していても、私は人工肥料を与えることを躊躇う臆病ものだ。
少し日を当てよう。まだ弱々しい胴体の太い小人パキラを、コーヒーの木の横へ置く。ガラス越しの日差しは私には眩しいけれど、彼らにはやはり足りない気がする。植物に必要なものは水と土とお日様と微生物。殺菌されてはいるけれど蛇口を捻れば水はいくらでもある。水は控えめに。水を与えすぎないこと。くどいように書かれる〝観葉植物の育て方〟、理由はきっとこのバランスの悪さのせい。もし土も日差しも微生物もすべて十分に揃っているなら、きっと水が沢山あっても腐ることもないし枯れることもないだろうから。
節電で眩しさの落とされたピリカの店内に入る。かごを取り、真っ先に目に飛び込むのは、今日も床に置かれた明日をも知れぬ植物たち。入口を通過する風が乾燥を運び込み、乾いていく鉢が刻々とその時を待つ。流れる冷気がふっと身体に触れて腰が痛んだ。
入口付近の床には赤い矢印がペイントされ、トイレの場所と二階への進路を示している。弱ったミニブーケの束と見慣れない鉢植えが園芸用コンテナに入れられて、花コーナーから少し離れた矢印のある床上まで移動させられていた。それがさらに投げやりな感じを強めて、処分品に対する店の無関心さを訴えている。
ひょろりと背が高いその鉢は知らない種類だった。枯れた茎が根本付近で幾筋も切られ、最後に残った一本もしなだれてかろうじて自立している。裏面にはオーガスタと書かれたシールが貼られておりマジックで塗り潰されていたけど、うっすらと見える定価は二千円を超えていた。どこか他の花屋から連れてこられたのだろうか。
赤い矢印の上で座り込んでいると、後ろから男の子の声がした。
「また買うの?」
振り返ると中学生くらいの男の子が私を見下ろしていた。背はそれほど高くないけど、体が細くて手足が妙に長い。顎を大きく動かしてガムを噛んでいた。
「それ、買うの?」
どうみても十代だ。学生服は着ていない。ずいぶん派手な子だった。オーバーサイズの麻っぽい和柄のパンツ。上は黒無地の長袖。腰にぶら下げたチェーンに指を絡めてちゃらちゃらと鳴らす。ブルーシルバーに染まった髪はスカスカになるほどシャギーが入って肩甲骨くらいまで伸びている。毛先は傷んで完全に色が抜けていた。
なんでここにいるのと初対面でもいいたくなるほど場違いだった。
「またって?」
声をかけられた状況が理解できず、私は訊ね返した。
「だっていつも持ってくじゃん、それ。おれが見る限りおねえさんくらいしかいないよ」鋭い目つきで私を見つめる。もうお姉さんじゃないよともう一人の私が言うけど、わざわざ返すのも白々しい。
「そうだね」
声に緊張が籠る。水受け用の透明容器がぺこりと音を立てるのに気づいて私は持つ手を緩めた。親と一緒なのかな? 背後に視線を泳がしても、それらしい人はいない。
「誰もいないよ、おれだけ。おねえさんひとり? 名前教えてよ」
鉢を戻して私は立ち上がった。ピリカで何をしているんだろう。
「買い物するなら、カゴそこにあるよ」
「ナンパだと思ってんの? なあ聞いてんじゃん、それ買うの?」
ガムを嚙む彼の口元にあるほうれい線が二重に浮かび上がった。
「……わからない」
「あっそう。買わないならどいて。おれがもらう」
少年は、踵を履き潰した黒いスリッポンを擦りながら近づくと、屈みこんで鉢の縁をつまみ上げた。その指に刻まれた深い皺が傷痕のように目立って、バランスの悪さが際立つ。そのまま立ち上がり、脇目もふらず、一階に併設された薬局の方へ進んでいくのを見て、思わず私の声が彼を追った。
「レジ……」
「でえッ! 盗まねえって。あっち、卵買うのッ!」
百面相でもするような大袈裟な顔でイーッと振り返ると、鉢をシャツで包むように小脇に抱え直し、「またねえ」と後ろ手に大きく手を振った。まばらな買い物客の中、通路の真ん中をずんずんと進んでいく。客の何人かが彼の姿をちらちらと見た。
少年は突き当りまで行くと卵パックを一つ手に取り右に折れ、陳列棚の向こうへと消えた。私はしばらく無言で少年を見送った。
家に戻ると朋から葉書が届いていた。美しい毛筆で書かれた〝加藤顕花様〟という宛書が私の名前じゃない気がする。裏面には、春から小学四年生になる胡桃ちゃんの写真がプリントされていた。
『顕花、元気~? この間キッザニアに行ってきたよ! またみんなでランチしようね! 胡桃も会いたがってるよ。』
朋は高校生の頃から日展に選ばれるほど習字が上手だった。今は岡崎の自宅で子供たちに書道を教えている。最初は娘の胡桃ちゃんとその友だち数名に手習い程度に教えていたのが、いつの間にか人が増え、月謝を貰っての教室になっていた。
私なんて全然、と朋はいつも謙遜するけれど、結婚して専業主婦になった時に一度退いた書の道を、子育てが一段落してからまた始めたときは本当にすごいと思った。朋を入れて三人、今でも付き合いが続いている高校の同級生たち。私以外は全員ママ。みんな子供を産むと決まって数年は連絡が途絶えた。髪の毛を洗う時間もない。歯磨きしながら寝ている。座って食事がとれない。掃除機は出しっぱなし。決まり文句のような状態は、やはり本当らしかった。
子供たちが学校に通い始め、日中に家を空けることができるようになるとようやく外へ繰り出して思い出話に花を咲かせた。『育児』という私が乗れない思い出の波。
朋は胡桃ちゃんを助産院で産んだ。紙おむつを使わず、布おむつを手縫いで準備していた。生後しばらくしてお祝いに行くと、「これ、次は顕花が使うんだからね!」と、太陽の光でぱりぱりに乾いた白い布を取り込みながら、朋は笑っていた。
胡桃ちゃんはむぎゅっと私の人差し指を握った。確かな命の温かさが燈る、柔らかくて頼りない手だった。「人見知りなのにめずらしい! 顕花も早くママになりなよ!」そんな明け透けなことをまだ無遠慮に言い合えた。あれからもう十年近い。胡桃ちゃんの笑顔が眩しい。しばらく会っていない。どことなく朋に似てきた気もする。
『ハガキ届いたよ、ありがとね。お正月は混んでたんじゃない? ママ業お疲れ様っ!』メッセージを送るとすぐに既読になった。
『顕花、久しぶり~。どうしてる?』
履歴をたどると、最後のスタンプは去年の十月。今年は一度も会っていない。『元気だよ。教室はどう?』と返すと『今平気? ちょっと話せる?』と続いた。いいよと応える前にコールが鳴った。
「ごめーん、顕花、大丈夫だった?」
「平気だよ、朋こそ休憩中だったんじゃない? それよりハガキありがと。胡桃ちゃん大きくなったね。目が旦那さんに似てきた?」
「最近めっちゃそれ言われる! その写真も興奮して鼻広げちゃってさ、目がまん丸なの。キッザニア初めて行ったんだけど、よかったよ。親も一緒に楽しんじゃって。パパも珍しく動き回ってた」
結婚して、朋は本当に明るくなった。はしゃぐ声を聴きながら、しみじみ思う。学生の頃は一番真面目でおとなしかった朋だけど、今の旦那さんと出会ってからは、気にしていた体重もぐんぐん落ちてきれいになった。幸せそうでうれしいと素直に感じる。
「私たちの時はあんな施設なかったもんね。今の子たちはいいな……。胡桃ちゃん、首からかけてるのこれカメラ?」
記者ベストに黄色い腕章、首からIDカードをぶら下げている。
「胡桃、出版社の人になりたいんだって。ケーキ屋さんとか美容師に興味があると勝手に思ってたからびっくり。出版の仕事もたくさん紹介されてて、印刷する人、取材する人、記事を書く人、どういうのがいいのって聞いたら、胡桃、記事を書く人になりたいって」
「すごいね、将来有望じゃん」
「私の遺伝子だから有望かどうかはわかんないけどさ、顕花が文章書くお仕事してる人だよって話したら、今度お話聞きたいって言いだして、あっこれを話そうとしてたんだった。やっと思い出したよ。遠回りしちゃった」ごめんごめん、と朋が笑う。話が脱線しかけるのを相づちで受け止めながら答える。「今は休んでるから」
「また復活するんでしょ?」
どうだろうと私が濁すと、『顕花ちゃんにいつ会えるう?』って胡桃がうるさくて、とおかしそうに口真似をした。胡桃ちゃんは、私のことを顕花ちゃんとかお姉ちゃんと呼んでくれる。もし私に子供がいれば、私は普通に『おばさん』だろう。それか『○○ちゃんのママ』だ。でも私には、その『○○ちゃん』がいない。
『お父さんはいないの?』五歳くらいの頃、胡桃ちゃんが言った。
それが、旦那さんという意味であることはすぐに分かった。パパはいないの? 顕花ちゃんはママじゃないの? 私に子供がいないことは理解していても、あたしのママと同じようにパパはいるはずなのに、顕花ちゃんにはどうしてパパがいないの? そんな素直な疑問だった。まっすぐな目つきの彼女にそれを説明するには、いろいろ遡らなければならなかった。パパはいないよ。どうしていないの? 結婚してないからだよ。どうして結婚してないの?
〝質問〟がどう続くのか、簡単に連想できた。
それに対する答えも、平然とお姉さんを演じる気構えも、どちらも用意できていなかった私は、ただ「いないんだよ」と答えた。胡桃ちゃんはそれ以上聞かなかった。会話はそれで終わった。けれど、あのときの透明な視線に私は纏わりつかれている。今でも。
「まあ、胡桃のことはいつでもいいんだけどさ。また一緒にランチしようよ」
声が優しかった。これが本題だったんだろう。無理強いせず、深入りせず、手の届く距離でそっと見守ってくれている。
通話を終えると、連絡先アイコンが胡桃ちゃんの笑顔を画面いっぱいに映し出した。幸せそうな姿が眩しい。未来しか待っていない笑顔だ。少し話しただけなのにスマホが熱くなっている。バッテリー残量を示すゲージが赤い。もうこの端末も寿命が近い。
記者か。昔は新聞記者になりたかった。それか社会科の先生。もしくは学芸員……。何回か転職したけど、結局そのどれにもならなかった。ソフトウェアの説明書を書いたり、書籍紹介や観光ガイドの記事を書いたりして、細々と文字の仕事をしてきた。今ではそれも辞め、僅かな印税と、貯めた貯金を減らしながら生活している。
絵を描くのは好きだったのにな……。天井の白い壁紙は何の模様も映し出さない。白い紙さえあればずっと飽きずに絵ばかり描いていたあの頃。絵は趣味で続けられると思った。だから普通科に進学した。でも趣味で何かが簡単に続けられるほど大人の社会に余裕はなかった。いつでもできるという思いがさらに私を絵から遠ざけた。今からだってできるはずなのに、できる気はもうしない。
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