2 ガッタパーチャ

「加藤顕花けんかさん、中へお入りください」

 受付で呼ばれ、吉田歯科の診療室に入ると先生が笑顔を見せた。

「はいこんにちは、久しぶり」

 日に焼けて全身が引き締まり、精悍な印象になっている。健康のために始めたという朝ランをきっと続けているんだろう。髪全体をざっとワックスで後ろに流している。生え際の白髪が目立つけど、それを隠さない自然派志向の先生だ。

「それで、左上7番、歯根端切除したところだよね。どうした?」

「はい、あの、歯肉の部分にパチンコ玉の半分くらいの膨らみがあって……中に水が溜まってるみたいな感じがするんですけど」

「ぶよぶよしてる?」

 吉田先生は丸椅子に座り、キャスターごとひきずって体を近づけた。それに合わせて後ろに立っていた助手の女性が、私の髪を肩からすくってまとめ、ヘッドレストの後ろ側へ回す。「失礼しますね」と首にエプロンをかけ、背もたれを倒す。 

「結構奥の方です……。表面は柔らかくはないんですけど、強く押すとたまに液みたいなものが滲み出してくるような気がして……」

 プラスティック手袋の指先で左上の歯肉を押して確認しながら、

「うーん、そう? ……何もないように思うけどなあ」と吉田先生は首を傾げた。

「写真撮っていいかな、ずいぶん経つから」

 レントゲン室に入る。「パノラマで撮るね」私に防御用エプロンを被せ、装置のスイッチを押してアームを引き出す。

「ここに顎をのせて。スティックを口で咥えてね。ってわかるね、前歯で嚙む感じで……。もう少し前に顎を出して、そう。手は下にあるバーを握って。……はい、そこでじっとしててね」

 モニターに向かい調整をすませてから、先生は重いドアを閉じて外へ出た。室内にひとり残される。高周波の耳に障る高音がキューンとかすかに響く。歯を削るドリルやタービンのはっきりとした音より、私はこの手の音があんまり好きじゃない。姿を見せない羽虫が体のどこかにまとまりついているような感覚がして。

 診療台に戻ると、モニターにパノラマ画像が映し出された。

「特に問題はなさそうなんだけどね。根管治療に根切こんせつしてクラウンつけたのもう十年も前だね。表面傷だらけだ。よく食べれてる?」

「はい。ずっと来れなくてすみません」

 治療終了後もメンテナンスに通っていた。三年半前に子宮頸がんがわかったときに予約をキャンセルし、来るのはそれ以来だった。

「もういいの?」先生が懐かしそうに笑う。

「まだ経過観察中で、二か月に一回、婦人科には通ってますけど」

「そっか。いろいろ大変だったと思うけど、顔色もいいし、元気そうで良かった。それで7番だけど、もう一度やり直すことはできるけど、たぶん次が最後だと思う。痛みはないんだよね?」

 明るい声の内に真剣さが宿る。左上の第二大臼歯。今なら削らないで済ませる程度の小さな虫歯だった。小学生の頃にした治療で詰めた金属の下で菌が生き残り、十年以上かけてう蝕は進んだ。

 忙しさにかまけて痛みを放置した結果、根本から歯が欠けたときには神経は死んでいた。近くの歯科医院で標準的な根管治療をし、ゴム状の根充剤ガッタパーチャを詰めたが痛みが残った。顕微鏡を使った治療動画を多くサイトに載せていた吉田先生の診療室を探し出して診てもらうと、歯根膜に炎症が残っているのが痛みの原因だとわかった。

「一度歯を取り出して周りを掃除してから、また戻すという方法もあるけど。痛い場所がどうもピンポイントみたいだから、そこの根っ子、一本だけ切ろうか。奥歯は根っ子が三本あるから」

 三叉に分かれた歯根の一部のみを切除するというオペをして、豆腐も嚙めない日々からようやく解放された。根管には再度ゴム状のガッタパーチャを詰めたけれど、もう痛みを感じることはなかった。

「それで、どうしよっか」手袋を再度はめ、口腔内に指を入れて歯肉を確認する。先生の指先が膨らんでいるはずの部分に触れた。

「あ、そこです……」もごもごと伝える。

「うーん……平気そうなんだけどな。歯槽骨もしっかりしてるし」

 気持ちが沈んでいく。気のせいだとは思えないけれど、先生が患部を特定できない以上、再治療で治まる見込みは小さい。何より、次で最後と言われている処置に踏み切るのは無暗に思えた。

「もう少し、様子を見てみます……」

「うん。それより噛み締めがあるね。歯ぎしりかもしれないけど」

 突然予想外のことを言われ、面食らった。

「え……歯ぎしりはないと思うんですけど」

「歯がね、摩耗してる。特に右の奥歯。今はまだ大丈夫そうだけど、ずっとこのままだとボロボロになるよ。ひどいの見てきてるから。それに――」私の下の門歯に指を置き、軽く力を入れる。「動揺もあるね。歯が動いてきてる。顎とか、痛くない? 頭痛とか」

 ほらこの辺り、といいながら吉田先生は自分の右顎をさすった。

「痛みは特にないです……」

「人が物を噛み締める力はものすごく強くてね。歯と口腔内にとって一番良い環境は、ごくごく軽く、上の歯と下の歯をそっと合わせておくこと。普段は力を抜いておく。舌もこう、宙ぶらりんな状態で、顎にもどこにも触れないようにする。直したほうがいいよ」

 声に、楽し気な気配がした。職人気質と拘りが強い先生だ。歯や患者さんたちに対する愛情も深くて、自分が関わった歯をわが子のように愛おしむ。とことん追求して治療してくれる反面、口腔ケアを自発的にやらない患者さんには厳しい。歯磨き指導にも力をいれ、きちんと自己管理ができるようになるまで治療を始めない。

「直るんですか? マウスピースとか?」

 椅子をぐるりとターンして、引き出しからハガキ大の紙を取り出す。学校教員が使うような色付きの、小さな丸いシールだった。

「文房具屋さんで売ってると思うけどさ、これ」

「シール、ですか……?」

「うん。壁とかスマホとか、目につくところに貼っておくんです。お薦めは手首の内側。なるべくいつも目に入る場所がいいよ」

 私の左手を優しく掴み、青いシールを手の甲にぺとりと貼った。

「はい、これで良し。これを見るたびに思い出そう。噛みしめない嚙みしめないって。シールを見たとき、もし噛んでたら力を抜く。無意識でやっちゃって、癖になってると思うけどきっと直るから」

「直るんですか」

 もう一度訊くと、吉田先生ははっきりと返した。

「直ります。こういう良くない習慣を直すにはね、やっぱり意思の力じゃないと無理なんです。ほら虫歯もさ、虫歯になったら歯医者に行って削ってもらえばいいっていう考えの人もいるけど、僕は予防を一番に考えてるから。良い状態を維持する努力、習慣を身に着けるのは大変だけど、可能なのはわかるよね」

 先生の目には、患者としての私に対する信頼が見て取れた。

「じゃ、ちょっとPTCクリーニングやってもらうね」

 席を立ち、衛生士と代わる。手袋を外しながら振り返ると、手の甲を指して微笑んだ。「僕も昔やったの。自分は歯ぎしりだったんだけどね。あ、それあげるからね、シール」

「じゃあ加藤さん、座席を倒しますね。タオルおかけします」

 衛生士が目隠し用のタオルをかけると、先生は「右下の奥、ちょっと腫れてるから念入りによろしく」と言い残して去っていった。

 帰りがけに、歯科衛生士さんがトリュフを一粒くれた。黄色いリボンでとじられた透明の袋。マーガレットに似た白い花がプリントされている。黄色と白のコントラストがかわいい。

「これ、私たちで作ったんです。まだバレンタインには早いんですけどよかったら。砂糖を使っていないチョコレートです」

 よく見かける花だけどそういえば名前を知らない。

「そのお花、ノースポールというそうです。どちらもキク科だそうで、名前を知る機会ってなかなかないですよね」

「昔は……、マーガレットだと思ってました」

「あ、実はあたしも」微笑むと、「髪、伸びましたね。長い髪もお似合いです」

 と言って、懐かしそうに私の伸びきった髪を褒めた。

「またメンテナンスに来てくださいね。お待ちしています」

 先生が貼ったシールを左手首の内側に貼り直して、歯科を出た。


 家についてトリュフを齧る。久しぶりに電車に乗ったので疲れていた。表面に塗せられたカカオパウダーは香ばしく緑茶にも合いそうだ。お湯を沸かそうかな。緑茶は鉄瓶で淹れると渋みが減り、円やかになる。葉に含まれるタンニンが鉄とくっつくからだ。紅茶や緑茶を飲むと胃が痛くなるけど、鉄瓶で淹れると不思議と平気だ。

 トリュフの欠片をお皿に置こうとして棚を見る。小皿類は奥の方に片づけたままだ。鉄瓶もずっと使っていないから沸かしたお湯は一度捨てないといけないし、茶葉も古いからきっと変色している。鉄瓶は使い続けることで湯垢がついて、初めて良い状態になる道具だ。――もうとっくに錆びてしまっているかもしれない。もしそうだとしても、今知りたくないという煩わしさが先に立った。

 トリュフの残りを口に入れて横たわると、手首のシールが目に入った。そのとき、私の歯は確かに上下噛み合っていて、ああこういうことかと解る。力を抜き、歯も舌もどこにも触れないようにしてみると、その状態はすごく不安定で頼りなかった。私はずっと無自覚に噛み締めてきたんだろうか。他人の口の中なんて透視しない限りわからない。歯の状態を意識している人なんていない気がした。

 口を濯いで、洗面台の鏡で歯茎を確認する。口の端に指をかけて広げると、手首の青いシールが三面鏡に映り込んで分身を作った。摩耗していると先生が言っていた右の臼歯を指の腹で触ってみるけどよくわからない。PTCをした後は少し滲みる。久しぶりだったから血も出た。クリニックで煌々と照らされたライトの下で鏡に歯を映したとき、こんなに黄ばんでいたかなと情けなくなった。三年前はもっと白かったはずだ。フロスも歯間ブラシも使ってきた。口腔ケアだけは続けてきたつもりだったけれど、化学療法中はいっぱい吐いたし、歯磨きなんてできない日もたくさんあった。

「大丈夫だよ、またゆっくり頑張っていけば前みたいになれるよ」

 朋たちはそう言ってくれた。入院中留守番させてしまった猫の空の世話や、ごみ出しもしてくれた。お守りやおかずを持ってきてくれた。みんな高校生の頃からの大切な友人。一生かかっても返せないほど感謝を覚えているけれど、「今は仕方ない」という言葉は、いつまでも呑み込めないガムのように私の中に張り付いている。

 先の尖ったスケーラーを手に取り、膨らみの上に置いて力を入れる。ぐっと押し込んでも血が滲むだけで破れない。場所を変えて刺してもやはり水は出ない。吉田先生にわからないなら、他の歯医者へ行ってもきっと無駄だ。力任せに歯肉を押し続け、じわっと汁が滲んで平らになった気がしても、一週間もすればまた膨らみ始める。

 出てくるのは血漿のような液体で透明。膿でもないから水膨れだと思った。怪我をしたときに傷口から出る浸出液。手術で切った歯根の周りにある傷を治そうと細胞が頑張っているんだと思った。

 靴擦れを起こすと、皮膚が薄く膨んで中に水が溜まる。針で刺して水を抜き、ぺたんと押さえてあげれば私の靴擦れはすぐに治まる。だから勇気を出して吉田先生に会いに行った。注射針でも刺して水を抜きさえすれば、すぐに治ると期待して……。勇気か。鉄瓶を取り出したり、歯医者に行くくらいのことで、勇気がいる自分にがっかりする。

「痛っ……」

 もう少し、と深く入れ込んだら変な痛みが走った。スケーラーを抜くと血は滲んでいるけどやはりそれだけ。歯肉の色はどことなくどす黒く、他の場所と色が違って見える。

「舌に歯の跡がついているから、舌もかなり押し付けてると思う。癖になって気づかないだろうけど、たぶんずっと擦りつけてるよ」

 吉田先生の言葉を思い出し、舌を出して鏡に映す。周囲に確かに四角い痕がついているけれど違和感がない。もうこの状態に慣れてしまって昔の記憶もない。

 鏡に付いた点状の白い汚れをティッシュで擦る。拭いてもとれなくて爪先で削った。顔色が良いと先生は言ったけれど、昔は褒められたそばかすもただのシミにしか見えないし、うっすら透けていた頬の血色も今は完全に失われている。鏡を見ると沈鬱とする。だから私は目を背ける。お風呂場の鏡も曇らせたまま。歪になった躰を確認したところで虚しい。静かに打ちのめされるだけ。だから見たくない。もう一生。

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