第一章
1 小人パキラ
スーパーの隅で赤札が貼られた観葉植物をみるとつい買ってしまう。あと何日か経てば処分されてしまう定めだからだ。うちに庭はないし、鉢植えを室内に置くと湿度があがる。土の表面がかびたりすることもある。なにより私は他界したばあちゃんと違って、花や木を育てるのが得意じゃない。どれも定価はそれなりの値段がする。千円を下回ることはないけれど僅かな〝欠陥〟があれば、原価割れだろうなと簡単にわかる投げやりな価格で隅に置かれる。一部枯れ始めていたり、逆に育ちすぎ密集した枝葉が互いを傷つけあって茎が折れてしまったり、花の旬を過ぎてしまったり。
とにかくそういう理由ですべてが処分品。誰かが買わなければ明日か明後日には、きっともうそこにはいない。でも赤札を一回つけてもらえるだけまだ運がいいのかも。葉に白い斑がついて病気になりかけていたら、一足飛びに廃棄されていたかもしれないから。
ペットの生体販売とどうしても印象が重なってしまう。張見世から下げられた商品たちの行く末を思うと胸がつらくなるばかりだ。
その日、私の足を呼び止めたのは背の低いパキラだった。水もそれほど要らずあまり世話がかからない。ひとり暮らしで留守にすることの多い賃貸ワンルームでも育てやすいから人気でよく売られている。株分けは容易で、挿し木で増える。花屋さんが商品とする鉢を増産するために、親木から枝をどんどん切り離す。
太いな……。ぱっと見の違和感が目を引いた。そのパキラは樹齢におよそ不釣り合いな短い背丈しかなく、ガジュマルかと思うほど幹は膨らんで、はちきれそうなお腹が小人族みたいだと思った。すごく歪でバランスが悪い。見ると、根本付近でいくつも細い幹が切断されている。取り木用の親株だった。
その姿が痛々しかった。周りに足を止める人はいない。取り木は、親となる植物の茎の途中から根を出させ、そこを切り取っていくことで新しい株を増やしていく人工繁殖の方法。この子は繁殖のために、必死に生やした萌え枝を何本失ったのだろう。
スライスされた丸鉛筆の断面のようなものがたくさん張り付いている。変な虫に寄生されているようでうっすらと気持ちが悪い。張り詰めた胴体に詰まった何かが出口を失って苦しんでいる、小さな体で余分な重荷を着込んでいる、そんなふうに見えた。
鉢は床に直置きされ、処分品のシールが貼られていたけれど値段はなかった。花コーナーはエントランスを入ってすぐ左側にあり、一畳ほどの狭い一画で、たぶん直営の売り場じゃない。
平日の午前、数少ないエプロン姿のスタッフは陳列作業に忙しく、ワゴンを押しては行き来する。呼び止めて訊ねても待たされるのがオチだ。鉢底を覗いてもやはり値札はなく、穴から飛び出した鼻毛のような白い根っこがひょろりとあっただけだった。
外は曇天。その日、私は傘を持っていなかった。コーヒー豆だけ買って今日は帰ろう。部屋着の上に直接羽織ってきたカーディガンの襟元を押さえてパキラを床に戻し、副通路へ入っていく。この店はなぜか頻繁に棚の並びを変える。ジャムやお茶のある嗜好品コーナーを一巡してようやくコーヒーを見つけると、似通ったアルミパックがずらりと並んでいる。豆なのか粉なのか、カフェイン入りなのか抜きなのか。もう少し判別しやすくならないものなのかな。
昔は銘柄にも拘ったものだけど、不味くなければ今はそれで構わない。パッケージの表記を見るため目を凝らす。粉のパックは沢山並んでいるのに、挽く前の豆は数も種類も少ない。品揃えを増やして欲しいけれど、ピリカには『お客様の声』すらない。
店頭で見た、樽みたいな胴体をした小人パキラに後ろ髪を引かれつつも、セルフレジで精算して店を出る。北地にいたという小人はなんという名前だったっけ。ドワーフ? 違う。ゴブリンでもない。大きな葉の下にいる人という意味だったような。蓮の葉……?
アルミパックに入った珈琲豆はさくさくと軽い。エコバックを開くまでもなく、スマホだけ入れたショルダーに納まっていた。
日曜にコーヒー豆の封を開ける。大手メーカーのハウスブレンドは普通の香り。日差しが高くなり、半分以上閉めたシャッターの隙間から、眩しい光が差し込んでいた。カーテンは閉めたままで、部屋の中は昼間でも暗い。
グラインダーが激しい音を立てて豆を挽く。テレビもなく、誰とも話さない。閑寂で満ちたこの部屋に湧く唯一の騒音。外にも丸聞こえだろうけど、隣は空き家だし、目の前は寂れた駐車場。裏の建売は売れずに残っている。音を気にする必要もない。
泡が消えないうちに口に近づける。昔ほどには、心の底からコーヒーを美味しいと思うことはなくなった。私が求めていることはきっとこれじゃないんだろう。でもこの部屋に唯一残る、騒音を立てる儀式――それを失ってはいけないような気がして私はコーヒーを飲み続けた。掃除は面倒だし、毎日飲めば豆だって安くない。カフェインの取りすぎも体に良くない。もう止めようと何度も器具を箱にしまっては、また取り出す。そんなことを繰り返した。
最近眠くて堪らない。眠りが浅くて、夜中に何度もトイレに起きる。かといって、コーヒーを切らすと途端にひどい頭痛に襲われるし中毒になっているのは明らか。完全には止められないにしても、少しずつでも控えた方がいいとわかっているのに自分を虐めるようにカフェイン入りの豆を買う。
二十代の頃は、カフェインを取ると眠れなくなるからと打ち合わせの最中に出されるコーヒーさえ断って水を飲んでいた。週末は自然食品店まで遠出して、家では鉄瓶でお湯を沸かし、ほうじ茶や玄米コーヒー、デカフェの豆を挽いて淹れた。たんぽぽコーヒーは濃いめの麦茶みたいであんまり美味しくはなかったけど、色々探すのは楽しかった。鉄瓶は片づけたままだ。
昨日から胃が痛い。せめてソイラテにしよう。冷蔵庫を開けてドアポケットから一リットルの豆乳パックを掴むと、軽さでふっと持ち上がった。傾けるとせいぜいスプーン二、三杯程度しか残っていない。空にしたあと捨てるためにハサミで切り開くのが面倒で、こんな微妙な量を残したまま庫内に戻していたことを思い出す。豆乳は好きだけれど、容器はよく洗わないと臭くなるから苦手だ。
火曜日は特売日でピリカは混む。日曜も家族連れが車で来るからあまり行かない。行くなら明日にしよう。空気ばかりの紙パックの中でぱちゃぱちゃとわずかに残ったスプーン数杯だけの豆乳をコーヒーに垂らしても、全然ラテっぽい色にはならなかった。
翌日ピリカへ行くと小人パキラがまだいた。葉が全体的に垂れ下がり、遠目に見てもはっきりと元気がなかった。かごを取り、少し歩を緩めて園芸コーナーへ近づくと、鉢の表面が乾いている。パキラは水がなくても育つとは知っていても、土を覆うウッドチップに白い垢みたいな苔がついているのを見て、私はまた足を留めた。
連れて帰っても枯らしてしまうかもしれない。でも自分の気持ちに逆らうと碌なことがないこともわかっている。小さな勇気に理由をつけて大きくし、自分を励ます。鉢を手に取り有人レジに並ぼうとすると長い列ができていた。先頭客が苦情を訴えていて中々進みそうにない。躊躇した私はサービスカウンターに向かった。
通路側に椅子が一つ置かれているけれど、専任のスタッフはいない。卓上の呼び鈴を押すと、陳列作業をしていたらしき女性店員がエプロンのポケットにシールの束を押し込みながらやってきた。
「あの、値段がついていないんですけど、どうすればいいですか」
店員は黙って視線を向けると鉢を受け取り、底を覗いた。
「少々お待ちください」
抑揚なく答え、内線を繋ぐ。プルルルという音が漏れるが応答はない。次に店員は胸ポケットに入れた装置へ手をやって、耳につけたイヤホンの上に指を置いた。店内無線なんだろう。やはり返事はないらしく、しばらくして腕を降ろした。
「こちら処分品になりますがよろしいですか」
買うなとでもいいたげな物言いだ。引き下がりたくなるけど、そういうことにはしたくない。店員は引き出しから値札シールを取り出すと、赤いサインペンのキャップを外し、三〇〇円と滑らせた。
「レジにお持ちください」
演技でいいから歓迎するフリをすればいいのに。店員は私にパキラを渡すと陳列作業に戻っていった。会計を終えて店を出る。豆乳を買うのを忘れていたことを思い出したが戻るのは煩わしかった。
歩行者信号が点滅し、赤に変わる。角に大きな車工場のある三叉路で、ここの赤信号は長い。交通量が多い割に民家は少ないから夜間は押しボタン式になる。私は右に逸れて歩道橋を上った。
大きく育った街路樹の枝先が階段の手すりに触れそうなほど伸びている。道沿いにはレゴブロックでしか見かけないようなのこぎり屋根の灰色工場がずらりと連なっているけれど、歩道橋からの見晴らしはいい。夏になると港であがる花火がここから見える。
この一帯は埋め立て地で、昭和中期頃はかなり活発な工業地帯だったらしい。軒並みあった工場の多くは廃れ、大半の跡地がコインパークや月極駐車場になっている。空地や空き家も多く、そういう意味で風通しは良いけれど、人通りも街灯も少ないから夜は怖い。
五分ちょっとで家につく。小人パキラに水をやり、受け皿を外して流しの中に置く。水をあげるときは底から流れるまでたっぷりと朝に――呪文のように覚えている水やり方法。白い苔が浮きあがったチップを取り除き、土表面を指先で触ると固く、ふかふかさがない。受け皿の土汚れを歯ブラシで擦っても中々落ちなかった。
ブランケットを引き寄せソファーに横たわる。目の周りをぐりぐりとやりながら、頬の上から左上の歯茎のあたりを指先で押す。水膨れのようなしこりがその位置にあり気になって仕方がない。指で触れば動くような気もするけれど潰れない。パチンコ玉半分くらいの僅かな隆起だ。起き上がり、引き出しから診察券の束を探る。吉田歯科デンタルクリニック――もう三年行っていない。
アイビー、サンスベリア、パキラ、サボテン、コーヒーの木。未だに名前がわからない植物もある。赤札で連れてきた子たちばかりだけど大体はみんな生き延びた。今朝は水をあげていないからあとでやらなきゃ。たっぷりと朝に――なんて全然守れていない呪文。
当然すぐに枯れたり、腐ってしまう鉢もあった。なかなか捨てられず、しばらくは水をあげてみたりもした。でも一度ダメになってしまうと復活することはまずない。鉢を裏返せば、枯れきって干乾びた黒い塊が土ごと飛び出してくる。それを黒いビニール袋で二重にし、燃えるゴミに出す。土に埋めたくても庭はない。外周はコンクリートで固められ、僅かにある土の部分は防犯砂利で埋まっている。すでに弱っていた植物を救えなくても仕方がない。――それでも申し訳ない気持ちしか湧いてこなくて私はやっぱり自分を責める。
夜更けに神社の境内に集う猫の影は、かわいさよりも畏怖を伝えてくる。闇に立つ鳥居の前を横切れば、私の足は速くなり背筋は張る。指定可燃ゴミ袋の中に収まった黒い塊からも私はそうやって目を逸らす。その日だけは、ゴミ収集車が家の前を通るとき、回転板の駆動音に耳を欹て、ごめんねと思うので精一杯だった。
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