第43話
『君かい、アタシの可愛い妹を連れ去った泥棒猫というのは』
電話口から聞こえてくる静かな威圧感のある声にドキっとする。
その理由は、小深のお姉さんが敵意を隠そうとしないからではなく、単にどこかで聞いた覚えのある声な気がしたからだった。
小深の家族であるならば、今後を見据えると出来る限り仲良くした方が良いのではないかと、打算的な考えが浮かぶ。
でも、小深に好きでもない相手とデートをさせる人だと思うと、その考えは自然と消えてしまう。
「はい、小深は……わたしの大切な人、なので!」
小深のお姉さんとの初めての会話は、そんな大見栄を張った言葉になってしまった。
当然、喧嘩腰と思われたのか電話口からはため息が漏れていた。
小深のお姉さんとはもう仲良くはなれないのだと悟った悲しい瞬間だった。
『しかし聞いている限りだと君と妹が話すようになってまだ二ヶ月程じゃないのかな? 何をもって大切と言い切るのかね?』
「小深はわたしの運命の相手……なので!」
『……なるほどなるほど、でもアタシの後輩が妹を見て運命の相手だ、と言ったら条件は君と同じになるけれど、君に二人のデートの邪魔をする権利はどこにあるんだい?』
「小深の運命の相手もわたし、なので!」
『いいや、それは君の主観に過ぎない。それに、大切な人だと言ってのけたんだ。妹が他人をどう見ているのかも知っているんだろう?』
「それ、は……」
言葉にして認めていいものか判断に困り、思わず言葉に詰まってしまう。
話すのが苦手なわたしには、こういった言葉責めをしてくる相手には苦手意識がある。
だからと言って沈黙を続ける訳にはいかなかった。
小深に説得してみせると約束したのだからと、スマホを握る手に自然と力が入る。
「そ、それでも、小深はわたしの運命の人なので!」
『はぁ、話にならないね。感情的になって論理的に会話ができないのなら、まだ後輩とデートさせていた方が妹の為になりそうだけど?』
「で、でも小深は乗り気じゃないみたい、ですけど」
『そうだろうね。だからこそ相手を知る為にデートをさせているんだから。君が妹の交友関係に口を挟む権利は? 妹の彼女、という訳でもないのだろう?』
「そ、それは……将来的になれたらいいな……とは思ってます、けど」
小深のお姉さんにこんな話を赤裸々にするのは、どんな状況であっても気恥しいものがある。
「ねぇ、どんな話してるの?」
「えっ、あっ、だ、大丈夫!」
「そう? お姉ちゃん屁理屈ばっかだからまともに相手したらダメだよ」
背後から顔を出した小深に驚き、距離を開ける。
二回も告白を断られているのに、恋人になりたい願望をお姉さん相手に宣言しているなんて、きっと知りたくもないだろうし。
小深に会話を聞かれないように更に二歩ほど離れて、電話口に耳を当てる。
『ふーむ、将来的ねぇ。それは具体的にいつかな?』
小深が望むなら今すぐにでも付き合いたい気持ちはある。けれど、小深がノーと言っているのだから具体的にと言われても答えようがなかった。
それを見透かしたように小深のお姉さんは突き放した言い方をする。
『まぁ無理だろうね。妹にその意思がないんだから』
「そんな事……」
『おや、可能性があるのかい?』
「ない、かも、です……」
悔しいけれど、今はそう言うしかなかった。
チラリと小深を一瞥すると、髪の毛先を弄っている。どうやらもうわたし達の会話には興味が遠のいたみたいらしい。
『妹はね、正直何を考えているのかよく分からない子だけどね、大切な家族だから幸せになってほしいと願っているんだよ。その点で言うと、後輩はアホだが面倒見が良い。女好きなところも相手を決めれば浮気はしないだろうし、ああ見えて一途な子なんだよ』
「い、一途さならわたしも負けません……!」
何がなんでもお姉さんの後輩と小深を結びつけたいらしく、わたしは負けじと食らいつく。
『仮にそうだとして、君は妹を大切に扱えるかい?』
「そんなの、当たり前です」
『ほう、なら君は妹から了承を得るまで欲望を我慢できるんだね。触れたり、キスを迫ったり、貞操を奪う、なんて事はないと誓えるかな?』
「そ、それ……はッ……」
無理矢理触った記憶は……ない。手を繋いだのは小深の了承を得ていた筈。キスを迫った事は否定できないけれど、貞操というのはつまりはそういう事なのだろう……。
「……誓えないけど、まだ早い……と思います」
『何か気になる間があった様な気がするけどまぁいいか。そうだろう、野蛮な君とは違い、後輩は妹とは健全な関係を築きたいと言っているんだよ』
「健全……?」
思わず疑問が浮かぶ。
尾行をしていてすごく不健全っぽい事があった事を思い出す。
内容はよく分からなかったけれど、汐ノ宮の目が血走って怒りを露わにしていた事を思い出し、背筋が震える。
「……でもあの人、小深を更衣室に連れ込んでました、よ?」
『……はァ!? それ本当に言ってる!? ちょ、ちょっと待って、それが事実ならアイツ、デートの練習を口実に妹に手を出そうとしてたって事よね!? マジ? じゃあ殺すしかないわ』
「あ、あの……」
電話口からまるで喋っている相手が変わったのかと思うくらいに口調が違い、これがこの人の素なのかもしれない。
妹に這い寄る害虫相手に取る態度としては確かに適切だった。わたしが同じ立場ならきっと同じ事をするだろう。
それに、なんだか声のトーンが上がったからか、電話口の先から受ける印象はまるであのお姉さんみたいだなとその姿が脳裏に浮かぶ。
「もしかして……」
いや、まさかと頭を振るう。そんな偶然がある訳がないし、浮かんだお姉さんの姿と小深は似ても似つかない。
そんな事を考えていると、わざとらしい咳払いが聞こえ、耳に意識を集中させる。
『……まぁ後で本人に問いただすとして、仮に付き合えたとして君が妹を幸せにできる根拠を聞かせてもらえる? 好きだなんてふわふわな気持ちだけで幸せになれるほど恋愛は簡単じゃないのよ?』
「小深を幸せにできる根拠……」
わたしは小深といるだけで幸せだけど、きっと小深はそうじゃない。
わたしが差し出せる物なんて、両の手ほど思い浮かぶ物はなかった。
お金はあるけれど、それで小深が幸せになるだろうか?
少し考えて、小深に視線を向けと、退屈そうに空を見上げていた。
そう言えば、空を見上げる事が好きだと言っていた事を思い出す。
同じように顔を上げる。雲ひとつない晴天で、眩い太陽の光から目を背けると、小深と目が合ってしまった。
「説得できそう?」
首を傾げる素振りさえ可愛いと思ってしまう。
あぁ、わたしは幸せだな。そう思うだけで、小深を幸せにできる根拠は結局思い浮かばなかった。
「……根拠はないです」
『ないって? それじゃあ妹とは――』
「根拠がなくても、小深を幸せにしてお姉さんを納得させます!」
根拠なんていらない。小深の運命の相手はわたしじゃないかもしれないけれど、わたしの運命の相手は小深なんだから、彼女を幸せにする以外の選択肢なんて最初からないんだ。
「ちょ、本当に何の話してるの!?」
つい、大声で宣言してしまい、小深に話を聞かれてしまう。
「だ、大丈夫、だから!」
「答えになってないけど……」
呆れたように肩を竦める小深に背を向け、更にひと押しと、電話口に言葉を紡ぐ。
「わたし……小深と結婚、するので」
恋人にすらなれていないのに、結婚とは大きく出たなと自分でも思う。
でも、それくらいの気持ちはあるのだという意思表示でもあった。
しばらく小深のお姉さんから沈黙が続き、電話が切れたのかもと思い始め、画面を見ると通話中の文字がしっかりと表示されていた。
『そう言えば、君の名前をまだ聞いてなかったね……』
不意に囁かれた声は、雪解けが訪れたような穏やかな声で、思わず背筋が伸びる。
「わたしは清水、清水楠希、です」
「清水、楠希……その名前、どこかで……」
聞き覚えがある。そう言いたげに聞こえ、先程抱いたもしかしてが、実際にそうなのかもしれないと実感を帯びていく。
「あの、もしかして――」
お姉さんは、銭湯やバイト先で会った事のあるあのお姉さんですか? そう聞こうと口を開きかけた所で、背後からスマホを奪われてしまう。
「小深、まだ……」
話し終えていないと振り返ると、そこにいたのは小深ではなく、息を切らせた汐ノ宮の姿があった。とても恨めしそうな目でわたしを見ている。
「はぁ……はぁ……散々探したのにっ、動物園の外じゃないですか……」
「あっ、忘れてた」
でも、小深を連れ出して今まで連絡するタイミングもなかったし、わたしは悪くない気がする。
そんな汐ノ宮を見た小深は、予想通りと言わんばかりに呆れ顔になっていた。
「うわ、やっぱり千早も来てたんだ……」
「……うふふ、奇遇ですね。ところでこの電話、緒花さんですか?」
「えっ、そうだけど」
小深の返事を聞くと、汐ノ宮は呼吸を整えるように深呼吸をする。
「お電話変わりました、汐ノ宮です。お久しぶりです、緒花さん。言いたい事は山ほどあるのですが……あっ、切れました」
「お姉ちゃん、千早に苦手意識持ってるからね」
あははと笑う小深は、この短い間でもう汐ノ宮がいる事を受け入れた様子だった。
これが小深の言う空気を読むという事なのだろうか?
「んー、これは説得できたって事でいいのかな?」
「分からない……」
正直、小深のお姉さんを説得できた自信はない。
自分の言いたい事を言っただけで、お姉さんからは何の返答もなかったからだ。
でも、最後の声色から、今日のところは説得できたのかもしれないと思う事にする。
「説得? あっ、だから電話を……」
汐ノ宮は一人、何かを察したように呟き、ハッと顔を上げた。
「そうです! こ、小深、あの男性とその、な、何をしていたんですか!?」
「なにって?」
「こ、更衣室でその……し、知っているんですよ。隣の更衣室にいたので」
「えっ、気付かなかった……」
小深は、顔を引き攣らせてわたし達の顔を交互に見る。
「清水がデートの事を知ってるのが不思議だったけどやっぱり千早経由だったんだ。いやぁまさか二人に尾行されてるとは思わなかったな……」
「誤魔化さないでください! 私にとっては大事な事なんです!」
「……わ、わたしも、気になる」
汐ノ宮に同調するように、わたしも小深があの人の事をどう思っているのかハッキリと聞きたかった。
お姉さんとの会話で、デートの練習と言っていたから、予想通りというか思っていた通り小深にとって大切な人ではないと言う事は分かっていても、やはり直接聞かないと心にかかったモヤモヤは完全に晴れないのだから。
「清水はまだしも、千早も気付かないのかー」
ニヤリと口元を上げた小深は、意味深にそう言った。
「気付かない? 一体何の話をしているんですか?」
「何って柏木さんの事だよ。まぁパッと見、そうだもんね」
「だから何の話ですか!」
汐ノ宮が苛立ちを隠そうともせずに、小深に詰め寄ると、「仕方ないなぁ」とスマホを開いて、誰かが映った画面をわたし達に向ける。
そこに映っていたのは、見覚えのある女性の姿だった。
いや、見覚えがあるどころではない。
「これって……あの男の人?」
「ど、どういう事ですか!? でも小深と一緒にいた時は胸なんて……」
わたしも汐ノ宮も訳が分からず困惑の色を浮かべるしか無かった。
「柏木さんは正真正銘、女の人だよ。それにお姉ちゃんは女子大なんだから後輩も女の人って分かると思うんだけどな」
「あっ……そう言えばそうですね」
「えっ、汐ノ宮は知ってたの!?」
「ビジュアルに目がいって、そこには思い至りませんでした……」
「見かけによらず抜けてる。でも女の人でも危険には違わない……」
小深のお姉さんが後輩の人は女好きって言っていたし、今日の行動も無駄ではなかった筈だ。
「で、では更衣室で、何をしていたんですか?」
「見てたと思うなら知ってると思うけど、柏木さんが子供に水かけられちゃって服を買いに行ったんだ。その時にビーホルダー? って胸を潰すやつのチャックを閉じてほしいって頼まれんだ」
「胸潰し? どうしてそんな事を?」
「女子大で男装したらモテるから日常的に男装してるんだって」
「で、では固いとかそういう話も……」
「そう! 胸って柔らかいのに潰したら結構固くてちょっと感動しちゃった」
少し興奮気味に胸潰しの凄さを語る小深を見て、わたし達は目を見合せる。
「はぁ、変に勘ぐりすぎましたね……冷静になってみれば小深がそんな事する筈ありませんでした」
「汐ノ宮が大袈裟に言うからわたしも影響された……」
座りんだ汐ノ宮に続いて、緊張の糸が切れたようにわたしも地面に膝をつく。
事情を知ってしまえば大した事じゃなかったけど、なにより小深に大切な人がいないと分かった事が一番の収穫だった。
わたし達がどんな気持ちで尾行していたのか知ってか知らないか、こちらを見下ろす小深は意地悪そうに笑う。
「二人とも、知らない間に仲良くなったみたいだね」
「仲良くなってません!」
「仲良くない!」
こうして、長いようで短い一日が終わり、三人一緒に帰路に着くのだった。
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