第42話

 息が詰まり、うまく呼吸ができない。

 足の遅いわたしの精一杯の全速力で辿り着いたのは、天王寺動物園からほど近い新世界と呼ばれる観光地の入口だった。

 息を切らしながら背後の動物園を確認すると、誰かが追ってくる気配は今の所はない。

 一先ず、逃げ切れたのだとほっと息をつこうとすると、繋いだ手の先、こちらを訝しむように見る小深の口が、ゆっくりと開かれた。


「清水ちゃーん、この状況の説明、ちゃんと出来るよね?」


 まだ怒ってはいない……と思うけど、子供を窘めるみたいな口調は、発言次第ではそうなる可能性を内包している気さえした。

 事情の如何によっては考慮してほしいけど、尾行をしていたと赤裸々に話せば、間違いなくわたしは怒られてしまう。

 それならば少しくらいの脚色は許されるのではないだろうか。


「何か考えてるっぽいけど、嘘だって分かったらこの夏はもう清水と遊ばないからね」

「えっ!?」


 浅知恵も虚しく、退路を塞がれてしまう。

 わたしが困り顔を浮かべると、小深は僅かに口元を綻ばせた気がした。

 そんな彼女の姿を見ていると、改めてやっぱり綺麗だなぁと魅入ってしまう。


「そのワンピース、可愛い、ね」


 デートに赴く理想の姿、それに比べてわたしの服装は地味過ぎやしないだろうか。

 しかし、わたしの褒め言葉をどうやら誤魔化していると受け取った小深には、てきとうにあしらわれてしまう。


「そりゃどうも。それで説明はいつしてくれるのかな?」

「それは……」


 呑気にお喋りはしてくれる様子はなく、まずどこから話すべきか迷い、熟考の末にわたしは説明をしてほしいのはこちらの方だと思い至った。


「小深! それより、あの人は誰なの?」

「あの人って……あー、柏木かしわぎさんの事? 誰ってお姉ちゃんの後輩だけど」

「普通……は分からないけど、お姉さんの後輩とデ、デートみたいな事するのは、おかしいと、思う」


 わたしはスイッチが入ったかの如く猛烈に抗議の声を上げる。ついでに本当に怒っているんだぞという意思表示も込めて、両腕を上げて威嚇のポーズを取った。

 しかし小深は、動物園でペンギンを見るみたいな興味深そうな目でわたしを見ると、今度は本当に口元を綻ばせた。


「デートみたいってねぇ……まぁあれは一応デートか」

「うッ、本当にデートだったんだ……」


 あっさりと小深がデートだという事を認めてしまい、わたしの威嚇はいとも簡単に勢いを失い、行き場を失った両腕はだらんと宙を彷徨った。

 油断すれば膝から地面に崩れ落ちそうなくらい膝は震え始め、気を緩めたら泣いてしまいそうだった。


「大切な人、分からないって言ってたのに……」


 小さな小さな独り言。直接言う勇気なんてなく、また拗ねた子供の言い草みたいになってしまう。

 身体の大きさと精神は比例するのかもしれない。

 そんなわたしの姿が面白いのか、いつの間にか中腰になった小深がわたしの顔を覗いてくる。


「清水はさ、私と柏木さんがデートしてるのいつから見てたの? やっぱり最初から?」

「えっ、どうして分かったの……」

「うわ、本当なんだ。あれ程ストーカー行為はしたらダメだよって言ったのになぁ、清水に約束破られて悲しいなぁ」


 そんな事を言いながらも、小深は楽しそうだった。

 まるで新しい玩具で遊ぶみたいな、わたしとはまた違った無邪気な子供のような笑顔を浮かべていた。

 普段ならそれすらも嬉しく思うけれど、あの男性の顔がチラついてしまって、むしろ胸のモヤモヤが大きくなるばかりだった。

 だから、小深がきっと嫌がるだろう聞き方をしてしまう。


「小深はわたしと、あの男の人、どっちが大切なの……!」


 きっと面倒くさい女だと思わるだろう。そんな覚悟すらして吐いた言葉だった。

 でも、小深は変わらず口元をニヤニヤしたままだった。


「まぁどっちかと聞かれれば、それは清水だよね」

「えっ……!?」


 渾身の問いにすら、またしても小深はあっさりと答えてしまう。

 わたしの方が大切だと小深の口から直接聞けた事に嬉しくなる反面、何かおかしいと違和感を抱き始めた。

 デートを邪魔した事を叱るどころか、楽しそうにからかってくる小深は、どこか笑いを堪えているようにも見える。

 怒りや悲しみが困惑に変わり、訳も分からず狼狽していると堰を切ったように小深が笑い出してしまった。


「こ、小深……?」

「ンフフ、アハハハっ! あー、清水はやっぱり面白いなぁ」

「な、何がそんなに面白い、の?」

「清水が私に必死なところかな」


 そう言われて顔が一気に熱くなる。

 わたしの気持ちを知っているのに、そんな事を言ってしまうのは、きっとわたしが怒らないと思っているからだろう。それにさっきの威嚇のポーズも小深からすれば、おかしな行動をしている様にしか見えなかったのだろう。

そう思うと少し悔しくもなると言うものだ。

 それならそれで、わたしは小深の言う通り、もっと必死になっても良いのだという免罪符を得たと勝手に解釈する事にした。


「な、ならもうデート、しないでほしい。わたしの

 知らない所で、知らない人とわたし以上の関係を作らないで、ほしい。百歩……ううん、千歩譲ってデートするなら一言……ほしい」


 過干渉にも程があると自分でもそう思う。

 それに小深との束縛や不用意に干渉しない約束にも抵触している自覚もある。

 でも、わたしの知らない間に小深の大切な人が出来てしまう可能性は看過できない。

 だから常に踏み込もうとする意志を小深に見せ続けるしかなかった。本気だと知ってもらうしかなかった。


「ふーむ、それはわたしと友達になる約束を踏まえての発言って事でいいの?」

「うっ……」


 そう言うと、小深は何かを推し量るように目を細め、わたしをジッと見詰める。

 ここで見限られたらと思うと身震いがし、腰が引けそうになる。でも負けじとわたしも小深の瞳を見詰め続けた。


「……本当にいいの?」


 再度、小深が口を開く。

 最終確認というように、もう後戻りはできないよと警告している気さえした。


「うん……」


 小さく首を縦に振った。

 息を吹かれたら、ひと吹きで消えてしまうようなか細いわたしの声。

 それを聞いた小深は何かを考えるように目を閉じ、静の時間が始まる。

 周囲の喧騒だけが雑音として耳に流れ、じっとりとした暑さが額を濡らす。

 これで良かった? 本当に? わたしの覚悟は決して揺らいではいない。なのにやはり何かが違うと、わたしの心が叫んでいる。

 この感覚は、今だけの事じゃなく、今日一日ずっと付き纏っていた。

 それは何なのか。今日のわたしと、今日までのわたしの違い、それは一体何なのか。

 必死に考えていると、タイムリミットだと言わんばかりに小深が沈黙を破った。


「ゴンドラで清水が言った事にさ、ちゃんと返事してなかったよね」

「返事……?」

「うん、嫉妬したり勘違いしてもいいの? ってやつ」

「あっ……」


 言われてみれば、確かに小深からそれに対しての返事をもらっていなかった事を思い出す。

 キスした事で頭が一杯で忘れていたし、小深が言わなければ思い出す事もなかった癇癪じみたわたしの本音。

 正直、あの時に何を言ったか詳細を思い出せないけど、小深に迷惑をかけるぞ! みたいな事を図々しくも言った記憶だけはあった。


「家に帰ってからちゃんと考えたんだよね。小深から向けられる気持ちをどうあしらい続けるか」

「あしらい……」


 その言葉選びは、小深があえて選んだ言葉なのだろうと察する。

 それはまるで、わたしに悪感情を抱かせるみたいで、その理由は考えるまでもなく理解した。

 このままじゃ、わたしは小深に壁を作られてしまう、そんな予感があった。


「だから友達としても、親友を目指すにしてもハッキリ言っておかないとなって」

「……聞きたくない」


 何を言おうとしているのか察したわたしを見て、小深は残酷にも優しく笑った。


「私は清水の気持ちには―」

「聞きたくない!」

「うおっ!?」


 小深の口を、言葉を止める為にわたしが出来た事といえば、力一杯抱きつく事だった。

 ほとんど反射での行動だったけど、小深の言葉は止められたのはほんの一瞬だけ。


「暑いから離れてくれると嬉しいな」

「やだ……」

「さいですか……」


 やれやれと、声に出して小深は言う。

 このまま抱き着いていても、痺れを切らした小深はきっと先程の言葉でわたしを叩きのめすだろう。

 そうなったらわたしに止める術はもうなかった。


「はぁ、清水はいつも私の予想を超える強引さを持ち合わせてるよね」

「……」

「私ね、清水が言った通り、面倒くさいなぁって思う事はあるんだよね」

「ぅ……」

「どの辺がとか聞きたい?」

「聞きたく、ない……」


 回した腕がわたしの汗で小深の背中をしっとりと濡らし始める。

 それでも強く回した腕を更にぎゅっとすると、小深の苦しそうな声が漏れ、腕の力を少しだけ抜く。


「まぁ一例を言うと、現在進行形のこれとかね」


 遠回しですらない直球な物言いで、面倒くさいと言い切られてしまう。

 それでも抵抗もせず、小深がされるがままなのは、抵抗が無意味だと知っているからこその諦めだと知っていた。

 だから、わたしの背中に小深の手が回るとは思っていなかった。

 そう思っていなかったのだ。

 小深の手が背中に触れ、何が起こったのか理解できず思わず顔を上げて、小深に目を向けてしまう。


「おっ、やっと目が合った」


 待ち構えていたのか、すぐに視線が結ばれ、キスしようと思えば出来る距離感に、カッと顔が熱くなる。

 すると、小深はまたニヤリと笑い、軽口を叩いた。


「またキスされちゃうのかな、私?」

「し、ししない、けど!」

「しないの?」

「えっ!? し、してもいいの……?」

「ふふん、ダメ」

「ッ〜〜!!」


 からかわれていると分かり、またわたしは隠れるように小深の肩へ顔をねじ込んで小深の視線から逃れる。


「拗ねちゃった」

「拗ねて、ない」


 怒っているいるんだと言おうとし、迷ってやめる。

 暑いけれど、小深に抱きしめ合っている事実がわたしの怒りを簡単に収めてしまうからだ。


「……さっきの続きだけどね、面倒くさいって言ったけど感心してる部分もあるんだよね」

「……何が?」


 ネガティブな話題に差し込まれたポジティブな言葉に、思わず反応してしまう。

 顔を上げたくなったけど、なんとか踏ん張りわたしの顔はまだ小深の肩にフィットしたまま耳だけを傾ける。


「清水のそーゆうグイグイくる行動力とかね、清水だなーって感じるんだよね」

「行動力……」


 それは褒められているのか計り兼ねる言葉ではあったものの、その言葉は、わたしが求めていた答えでもあった。


「わたしらしさ」


 それが今日抱いていた、何かが違うという感覚の正体だった。

 これまで小深に好かれる為にわたしは行動し続けてきた。

 その過程が傍から見て間違っていたとしても、行動を起こしたおかげで小深とは友達に、親友になる機会を得て、キスだってする事が出来た。

 それは一重に、わたしが行動する事を選び続けてきたからに違いないと信じている。

 それに本当に間違ったら小深が叱ってくれる。だからわたしは、わたしのままで良いんだと自信が持てた。


「小深、あの人とデート、もうしないでほしい……」

「どうかなぁ、そもそも今回のデートだって私の意思じゃないんだけど」

「じゃ、じゃあ、わたしがお姉さんを説得、する! 絶対!」

「あー、それもやっぱりそれも知ってるんだ……もしかしてだけど一緒にちは――」


 小深が何かを言いかけて鞄から電話の着信音が鳴る。


「げっ」


 小深は嫌な顔をした後、スマホを取り出し、電話の相手を見てまた眉をひそめた。


「やっぱりお姉ちゃんからだ」


 そう言われると、抱きついたまま電話する訳にもいかないよね? と自分に言い聞かし、小深に回した腕を惜しみながら解いた。


「もしもし、あー……うん、えっとほら、前に言ったと思うけど清水。うん、うん…………えっ、清水に?」


 ぼーっと電話をする小深を眺め、家の人にはあんな感じの声で話すんだ、と新しい一面に魅入っていると、困り顔を浮かべた小深からスマホを差し出される。


「説得してくれるんだよね?」

「任せて……!」


 そうしてわたしは、小深からスマホを受け取った。

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