第6話

「わたし……変わった、よ」


 そんな事を言いながら、清水は至近距離で私を見上げる。

 茹だるような暑さの踊り場は、立っているだけで身体中から汗が吹き出すようだった。

 身長差ゆえに密着した体は更に熱を生み、押し出された手は私を逃がさまいする。

 そう、私は清水に壁ドンをされている。


「……」


 反応に困っていると、彼女の薄い唇が、ゆっくりと開いた。


「……おかしいな。小深、ドキドキ……した?」


 襲われるんじゃないかと言う別の意味でなら、ドキドキするかもしれないけど、清水の身長は控えめに言って低い。

 中学生みたいな子から見上げるようにしてされる壁ドンは、少女漫画の主人公でもトキメクのは至難の技だろう。


「してない。普通に暑いから早く帰りたいなって思った」

「そ、そんなぁ……」


 へたり込む清水を放って階段へと向かう。

 三階から先は立ち入り禁止になっていて、テスト前にこんな所にいるのを先生に見つかれば、面倒な事になるのは目に見えていた。


「ま、まって、ください……!」

「ちょ、危ないから足を掴まないの」


 縋るように見上げる清水の瞳は揺れている。

 下校時刻も迫っているのに、清水ときたら遠慮というものが一切ないんだよなぁ。

 帰り道に付きまとわれた方が面倒だ。そんな考えが私の足を止めることになる。


「はぁ、暑いんだから少しだけだからね。それで何が変わったの? 髪型は前と変わってないよね」


 軽く上から下まで流し見するけど、特に変わった箇所はない。強いて言うなら、六月に入り、衣替えで冬服から夏服に変わっていた事くらいだろうか。

 重苦しい黒のイメージは幾分か払拭されたものの、真っ黒なブラウスの上に着た白いベストは、見ているだけで暑く感じてしまう。

 それよりも半袖になって顕になった清水の腕に目がいってしまう。ちゃんとご飯を食べてるのか心配になる、肉付きの薄く細い手脚は不健康さを思わせる。

 身長の低い理由が栄養不足だと思うとあまり指摘していけない気さえしていた。


「ど、どうかな……?」


 清水も暑さを我慢しているのだろう。顔を真っ赤にして私の感想をじっと待っている。

 何も変わってないと言っても納得しそうにないし、適当にあしらってさっさと帰る事にした。


「うん、いいんじゃない」

「ほ、本当……!」


 ほら喜んでる。ちょろいちょろい。


「うんうん、んじゃ帰ろっ――」

「どこが? どこが変わった!?」

「えっ、どの辺……?」


 せっかく帰れそうだったのに、異常な食いつきを見せる清水によってまた壁際へと追い詰められてしまう。

 てきとうな女子同士の会話だと形容詞だけで成立する筈なのに……。


「えーっとね……すーっ、顔……が、可愛くなった?」


 ほら、前髪がなくなって表情がよく見えるようになったから、嘘は言ってないしね?


「んッ……!! そうじゃないけど、嬉しい」


 清水は手で顔を覆い隠し、悶絶するようにして息が荒くなる。しかし、清水の望む回答はもっと別にあるようだった。


「内面で、答えて」


 うわー、めんどくさ……内面って最近トモダチになった相手に聞くような、軽い話題じゃないんだけど。

 また外見を褒めたらうやむやにならないか。


「わたしね、最近まで、禅修行をしてきたの」

「禅修行? あの座禅とかするやつ?」

「うん、小深と友達でいる為に、頑張った」


 友達と禅修行の関係性が全く理解できない。

 最近、私が理解できない事が多い気がするが、私の八方美人によって培ったコミュ力はこういう時にでも発揮するものだ! よし、深掘りするのはやめておこう。


「えーっと、清水が最近休んでた理由ってその修行が関係あったりするの?」

「そう、九泊十日の体験コース……! 高野山まで行ってきたの」

「えっ、こわ……」


 あ、やば。声に出ちゃった。

 いやだって理由が理由だし、嬉々として女子高生が寺で修行してきたって普通じゃないよね!?


「それでどこが変わった!?」


 あっ、良かった。前のめり過ぎて聞こえてなかったみたい。


「うーん、なんだろう。図太さとか?」

「……それは褒めてるの?」


 流石にワードチョイスが悪かったみたいで、お気に召さない様子で、清水は眉を八の字に曲げて首を傾げた。


「そうじゃなくて、なんかこう精神が強くなったって感じかな。鬼メンタルみたいな」

「それは、強そう……!」


 表現を変えただけなんだけど、お気に召した様で何よりだ。これで清水があっさり解放してくれるといいんだけど。暑いしね。


「どう、満足した?」

「うん。大丈夫、そう?」

「自分で言ってて不安にならないでよ。修行したんだから自信持とうよ、ね?」

「わ、わかった……!」


 あはは〜と笑い、会話終了の空気を作り、今度こそ私は階段を降りる。

 清水も納得したのか、黙って私に着いてきていた。

 教室に戻ると、当然のように誰も生徒は残っていなかった。

 エアコンもしっかり止まっていて、踊り場よりは全然マシなものの、外の熱が教室を侵食するのも時間の問題だろう。

 手早くカバンを回収して玄関へと向かう。渡り廊下を進み、職員室の前を通り抜ける。

 あとは階段を下って、玄関で靴を履き替えるだけなんだけど……清水が一言も喋らず、ただ私の後ろを着いてきている。

 行き先が同じだから気にし過ぎかもしれないけど、嵐の前の静けさなのではと不安になる。

 足を止めることなく進み、玄関横の購買の前へ差し掛かった時だった。


「あの」


 ほら来た。まだ付き合いは浅いが、清水の事を少しだけ分かってきたような気がする。

 歩く速度を緩めて、清水の横へ並ぶ。


「どしたの?」

「一緒に、帰りたい……です」


 そう言うと、清水は足を止めてしまった。

 まるで、私が「いいよ」と言わなければ駄々をこねる子供みたいに。

 俯いた清水の顔は見えない。ずっと黙ってた理由は、これを言う為だったのだろうか。

 そうだとしたら、その気持ちを汲んであげるのがトモダチってものなんだろうけど、私は違う。


「いや無理でしょ。清水の家は駅側で、私の家は図書館側だからそもそも出る門が違うんだし」


 通学路的に私は西門で、清水は正門と呼ばれる南門から帰ることになる。こればかりは変えようがない。

 私の家を知ってる清水なら分かっているとは思うけど、清水はまだ俯いたままだった。


「それに、私も流石に本腰入れて勉強しなきゃいけないから、寄り道してる場合じゃないんだよね」


 そう、中間テストは明日なのだ。理数系は得意なんだけど、英語や古典には苦手意識があるので、赤点回避の為には少しでも勉強をしておきたい。


「……分かった」


 そう力無く呟いた清水は、きっと納得はしていなさそうだった。

 まぁごねられたら面倒だったし、嫌々でも納得してくれたなら文句は言うまい。


「それじゃ、またね」

「……うん。また」


 おぼつかない足取りで帰る清水を確認し、私もさっさと帰路に着く。

 明日は英語と古典のテストが同時にあるからしっかり対策しないと。補講なんて絶対回避しなくては。

 そんな意気込みで西門から出たところで、意外な人物から呼び止められた。


「小深、遅いですよ」


 日傘の陰からこちらを覗くように、汐ノ宮千早は優雅に佇んでいた。

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