第15話 閑静な山里の濁り湯。
歴史ある老舗旅館の女将を想像させる三十代風の女性が、
「ようこそチェリー様、佐倉家八代目の当主、百合子です」
未だ名乗って無い僕の名を知るのは何故だと警戒するより先に、当主の百合子さんはとても美しく清楚な立ち姿に、僕を案内してくれた松子さんとよく似ている。
「始めましてお世話になります、松子さんから良い温泉があると聞いて伺いました、とても立派な建物ですね」
「いえいえ、古くて大きいだけで誉めていただける物では有りません」
これはきっと謙遜だろうが嫌味に聞こえないのは、和装に身を包む上品な百合子さんから漂う雰囲気からだろう。
二十二世紀の今に築百年を越える木造建築の広い玄関構えは老舗旅館にしか見えず、
「百合子さんはこちらの女将さんですね?」
「はい、当家は酒造を営む佐倉です、元々は明治の初め庶民も姓を名乗り始めて、この一帯は佐藤姓が殆どで、佐藤の酒蔵から佐倉を名乗るように成りました」
僕が想像した老舗旅館ではない酒蔵会社『佐倉』の代表だった。
では何で佐倉に温泉施設が備えられているのか、尋ねる先に自分の頭で考えてみるがどうにも答えが浮かばない。
「昔は上得意様を持て成す為の施設でしたが、今はオンラインで清酒の受注と国内外へ発送の為に訪問客も無く、地元の身内だけが利用する温泉です、さあどうぞどうぞ」
あ~なるほど、と納得しながら案内された浴場の先に見える緑の木々と清流の素晴らしい眺めに感嘆した。
今は地元の人以外は訪れないと言う温泉は和風旅館に有る佇まいで、鉄分が含まれる赤みの掛かった
「お背中を流させてください」
湯気で視界も曇る広い浴場へ腰に白い布を巻いた半裸で進入してきた。
「え、ちょっと待ってください」
僕の制止を無視するかのように、
「チェリーさんと一度は肌を重ねた仲ではないですか、私の我侭を叶えてください」
そうか、前に松子さんは随分前にお父さんを亡くして『私はファザコン』と言っていたと思い出した。
「それじゃ遠慮なくお願いします」
職務上でないプレイベートで女性と混浴するのは勿論初めての経験に、恥かしさよりも僕の相棒がムクムクしないか、それだけが心配だった。
それから三十分の間、僕の理性は男の本能と鬩ぎあい何とか無事に入浴を終えた。
「地元の食材でお食事を用意しましたので是非どうぞ」
佐倉が建つ山里で地元の食材とはナンだろう、昔の資料だと野生動物のジビエや川魚に季節の山菜くらいの知識では想像がつかない。
「食事の用意まで頂いて、恐縮です」
時間的に未だ空腹を感じてなかったが、湯舟に浸かりリフレッシュしたからか、お腹がグウ~と鳴った。
盛夏に近い七月の半ば、下界の人里では今日も最高気温が四十℃を超えているだろうが、この山里では木々を通る風なのか、それとも清流を渡る川風か、湯上りの火照った体に心地良い気温に心身共に安らぐ。
畳敷きの広間に座る僕の前に差し出された御膳には、
「お口汚しですが、前菜は蕗の薹とタラの芽と山ウドの天ぷら、ワラビと行者大蒜と自然薯の酢味噌和えです」
和装に着替えた松子さんと女将の百合子さんが二人並んで正座してお品書きを説明する。
高校大学の頃は肉が好物で殆ど野菜に手を出さなかったが、入省してからは上司との付き合いで食わず嫌いが少なくなっていた、それでも山菜に遭遇するのは初めてで、好奇心より不安の方が大きかった。
てんぷらはホクホクとした歯応えと、酢味噌和えは微妙な苦さを残す湯で加減に、山菜食の新たな感激を覚えた。
「初めて食べる物ばかりでも、とても美味しいです」
お世辞抜きの本音で料理の感想を告げた。
「チェリーさんのお口に合って良かったです」
美しい女性二人の顔を見て、やっぱり似ていると思うが母娘か、それとも姉妹なのか判断出来ない僕は質問に困り、きっと額の眉間に皺を寄せたのだろう。
「何かご不満でも?」
松子さんの言葉に、
「えっと、違っていたら済みません、百合子さんと松子さんは姉妹ですか?」
僕は松子さんへ訊いた心算だったが、
「あら、まぁ、嬉しい事を仰って、私は木に登りますよ」
そう答えるのは女将の百合子さんで、
「もう、お母さん、チェリーさんは社交辞令で姉妹って訊いたのよ」
そう言う松子さんの言葉で二人は母娘と気付いたが、僕より年上風の落ちついた雰囲気の松子さんと、美女の百合子さんは何歳違いの親子なんだろう。そう思うがこれも訊くに訊けないセクハラ紛いの疑問だ。
百合子さんは特殊能力者なのか、僕の表情を読み取り、
「私、十七歳で松子を産み、現在は三十九歳ですね」
その計算で言うと松子さんは現在二十二歳になるが、落ち着いた感じから二十三歳の僕より年上に感じていた。
逆に小柄な百合子さんは色白も有って三十代前半かもと推測していた僕は女性に関しての経験不足を否めない。
この後に続く食材の説明も耳に入ってこなく、たしか山里の人が釣り上げた天然鰻の焼き物と温泉水で養殖したスッポン鍋とか、これも人生初のご馳走に箸を持つ手が震えるほど感動した。
「これも手前味噌ですが当家の清酒です、良ければ賞味していただけませんか?」
学生の頃から酒もタバコも嗜まない僕でも佐倉の清酒を遠慮するのは角が起つと、
「折角ので少しだけ頂きます」
お猪口より大きく湯飲みより小さいこれはぐい飲みと呼ぶのか、八割ほど注がれた少し黄色掛かった清酒を一口チビリと舌先を濡らす程度で鼻腔に広がる甘い香りと芳醇な味わいに、あ~なんて美味しいんだ、一口で止める心算でも、右手に持つぐい飲みが空に成っていた。それと同時に身体がフワリと感じて起きていられない状態で、
「食事中に済みません、少し休ませてください」
そこまで言った後の僕は記憶を失くしていた。
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