第13話 名湯を巡りたい。
本部から知らされてなかったとは言え、未成年の十七歳小梅さんと後味の悪い任務を終えて気分転換で此方の名湯を訪れたい。
話は変わるが、あれは確か・・・
物理系や機械工学の講義に疲れた学部生の頃、好奇心から履修科目で無い文系の民俗学を聴講した。
それは人気准教授の講義で『交通手段が発達する前の日本で庶民の移動手段はもっぱら徒歩。経済文化交流の無い場所では口語の違いが方言と呼ばれた。
例えば、東海道の名古屋から三重の桑名間は海路で繋がり、名古屋が尾張弁でも桑名では独特の関西弁が使われていた。それから二百年以上が経ち、高速鉄道や道路整備で人的交流が盛んになり、地域特有な方言を理解できる人は高齢者か民俗学の研究者くらい。東北地方の方言も今では聞ける機会も少ない。此処で一つ例えれば、青森の一部では私の事を『わ~』貴方の事は『な~』、美味い事は『め~』と言ったらしいが、この情報も今となっては確認する事もない。
この民族学は僕に取って興味深く、数年たった今でも覚えている。
言葉の壁が無くなった今だから今回の任務で東北に来ても会話に困らなかった。
◇
仮事務所が設置された県庁で本部へ帰還の挨拶とお礼を告げた僕は、
「お世話に成りました、これから幾つかの名湯を訪ねて帰ります」
中間管理職の男性職員に任務の内容は明かせないが、不快な顔を見せることも無く立ち去る心算に、
「県のホームページに有名な温泉地を掲載してます、もし紙のパンフレットで良ければこれをどうぞ」
今時珍しいカラー印刷の温泉ガイドを受け取った僕は泉質や効能に詳しくないが、高校時代に負傷した膝靭帯の古傷に効けば嬉しい位の軽い気持ちでいた。
思い起こせば大学時代、三年後期から文系の学生は
宇宙工学と言っても注目されるロケットエンジンの研究開発でなく、将来の惑星移住計画に必要な宇宙放射線防御パネルの開発など、簡単に言えば地球外環境の材料工学に興味を持った。
指導された教授の趣味が温泉巡りであり、学会や出張の後に名湯を訪ねるが、僕以外の理系学生は華奢な男子が多く、体力系の僕がボディガード役と荷物運びで助手を命ぜられて同行した。
「大山君、其々の温泉には泉質と効能に違いが有って実に面白い、それとな有毒の硫化水素が混じっているから温泉が沸きでる湯口に顔を近づけるなよ」
先生の注意を聞いて、鼻の奥にツンとした刺激を感じる前に言って欲しいと思った。
◇
◇
県庁を出発して最寄の駅まで歩きながら、有名な温泉でも硫黄臭が強いのは苦手だし肌を刺すらしい強酸性温泉も避けたい、イメージ的に白濁のお湯が古傷に効きそうと素人ながらに想像した。
最寄駅からのアクセスに路線バスが有るらしいが、今は時間帯を外れて次のバスを待つのか、頂いたパンフレットを広げて別の名湯へ向かうか迷う僕へ、
「チェリーさん、チェリーさん、こんにんちは」
任務以外でチェリーと呼ばれるのは、タレントか芸人と間違えられそうで恥かしい僕は聞こえない態度で振り向かなかった。
「チェリーさん、三日前にお会いした松子ですよ、こっちを見てください」
声の主は一昨昨日に任務の和装美人だった松子さんが、今日は明るい色のワンピースで赤い車の運転席から降りてきた。
女性の容姿で判断するのは良く無いと思うけど、和装の時は落ち着いた年上美人に見えたが、ワンピースの今日は年下の様に可愛く見える。
と受け取っても女性と交際経験が無い僕の勝手な妄想に過ぎない。
「あ、松子さんでしたか、気付かなくて申訳有りません」
僕は照れ隠しも有って、こう言うしかなかった。
「チェリーさんは、これからどちらまで?」
相手から声を掛けられて会話が始まったら何て答えれば正解なのか、恋愛経験の無い僕には難しくて言葉に詰まり、どう言えば良いのか自問自答している。
「若しかして私から話しかけたのがチェリーさんには迷惑でしたか?」
決してそうじゃないけど、肯定も否定も出来ない僕は、
「えっと、折角こちらに来たなら名湯へ行こうかなって、迷ってまして」
「あ~そう言う事ですね、でも有名な温泉地はとても混雑してますよ」
言われて見ればそうだ、人口減少と少子高齢化でも高齢者数は多く、過去に栄えた絶叫系アトラクションのテーマパークの多くは閉園して、家族向けのテーマパークが関東と関西に残るだけ、それに引き換え現在は温泉施設を含むスパ・リゾートが賑わっているらしい。
「そうですか、それなら温泉を諦めて東京へ戻ります」
僕の言葉に他意はなかった。
キャリバグを引いた僕が松子さんへ背中を向けて駅へ向かうと、
「ちょっと待って、地元の人しか知らない鄙びた温泉で良ければ私が御案内します」
松子さんが言う『鄙びた温泉』のフレーズに嘗ての恩師が言った『鄙びた温泉にこそ詫び寂の世界』を思い出した。
当時の僕は宇宙工学の教授が文学的な表現に苦笑した場面も今は懐かしい。
思い出し笑いを悟られない様に沈黙した僕へ
「やっぱり迷惑でしたか?」
松子さんの声で我に返り、
「イヤイヤ、迷惑だなんて無いです、是非松子さんが良ければ案内してください」
「それじゃぁ、私の横に乗ってください」
言われるまま助手席に僕を乗せた松子さんの赤い自動車は郊外へ走り出した。
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