第16話
今思い出すことではないのかもしれないが、俺は足が速かった。
幼稚園の頃からいつもかけっこは一番で。
それもぶっちぎりのトップで。
あまりの速さに俺と一緒の組になったやつが泣き出して大騒ぎになったこともあった。
俺は走ることが好きだった。
小学生になっても一番先頭を駆け抜ける景色しか知らなくて。
きっとこのまま陸上選手になるんだと。
幼心に抱いた未来図は、しかし両親の死とともに消えた。
入っていた部活も辞めて、走ることへの興味は失せた。
叔父や叔母はせっかくだから続けなさいと言ってくれていたが。
まあ、天邪鬼な俺はそんな提案を拒否して店の手伝いに専念するようになって。
今となればそれでよかったと思っているけど。
思い切り走ったのなんて、いつの話だろう。
中学の運動会でも、適当に走った記憶しかない。
いや、一度だけ……。
しかしあの時のあれが上村となんの関係があるんだ?
「貴樹君、どういうこと?」
「さあ」
「おーい二人とも、走ってくれたら参加賞もあるからさー」
戸惑う雪村はまた足を止めてしまった。
上村が何を言いたいのかは知らんがとにかく俺はこんな人前で走るつもりなんてない。
さっさとこの場を離れようとすると、またマイクを使って上村が呼びかける。
「みなさーん、二人は私の同級生なんですー。でね、彼の家は近所の「浅海」ってラーメン屋さんなんです。美味しいので行ってみてあげてくださーい」
すると、皆が俺たちの方を見ながら笑顔で拍手を始める。
到底、無視できるような状況ではなくなった。
なぜなら、うちの店の名前まで出されたから。
客商売なんて、イメージ一つでいくらでも流行るし廃れる。
今時なんでもネットに書かれて、それを読んだ人は行ったこともない店のイメージを勝手に抱く。
あの店の息子は態度が悪いとか、そんな話まで書き込まれるし、田舎は噂話が回るのも早い。
そんなことで店に迷惑をかけられない。
あの女、心底嫌いだ。
「……わかったよ」
観念して俺は人混みを掻き分けて上村のところへ行く。
すると上村の後ろにいた陸上選手が俺のところにやってくる。
「初めまして浅海君。私は高倉雅って言います。上村さんとはね、オフに一緒に自主練習とかをする仲なの」
上村の風貌によく似たショートカットの日焼けした健康的美人だ。
明朗快活な彼女はいかにもスポーツ選手という感じ。
俺の苦手なタイプだ。
「はじめまして。早く走りましょう」
そんな彼女をスルーしてスタート位置に着く。
微妙な空気のまま、彼女もまた俺の隣に。
さっさと負けて、さっさと終わらせる。
そんな気持ちで両手を地面に着いたその時。
「貴樹君、絶対に勝って! お願い勝ってー!」
悲鳴のような、雪村の応援が聞こえた。
その必死な声に周りからは失笑が漏れるほど。
ただ、その声を聞いた時になぜか。
中学生最後の運動会の日のことを思い出した。
「よーい」
腰をあげて、やったこともないクラウチングスタートの構えをとる。
でも、なぜか体が覚えてるような気がした。
両親の、遺伝だろうか。
「ピーっ!」
笛の音と共に勝手に体が前に出た。
大した練習なんかやっていないはずなのに、足がもつれることなく回る。
そしてあっという間に。
ゴールの線を一番前で超えたところで太ももの裏がピンと貼って痛みがきた。
あと数メートルも走れば肉離れしていた。
しかし、なんとか走り切った。
そして、勝ってしまった。
「……え?」
驚いていたのは周りの観客だけでなく、一緒に走った高倉さん、それに笛を吹いた上村も。
場の空気が凍りついていた。
しかしそんな中で、
「やったー! 景品ゲットだよー!」
一人はしゃぐ雪村のところに、痛む足を引きずりながら向かうと。
「おい、行くぞ」
「え、まだ景品もらってないのに」
「いいから。空気読めよ」
乱れた呼吸を整えながら、雪村を連れてその場を離れた。
なんで俺は、全力で走ってしまったんだろう。
どうせ走れるわけがないと思って走ってみたが、距離が短かったのが幸いしてしまった。
結局、また悪目立ちしてしまった。
「いてて」
「大丈夫? 足、痛むの?」
「いや、大したことない。でも、久しぶりに走るのは危険だな」
「運動会でお父さんが転ぶやつだよね。ふふっ、貴樹君もパパになったらやっぱり転ぶのかなー」
「仮定の話は嫌いだ」
「でも、なんであんなに全力で走ったの?」
「それは……なんでだろうな」
「凛がいたから? ねえ、凛がいたからなの?」
「違う、それは絶対ない」
「じゃあなんでー?」
「……知らん」
あの時、雪村の声が聞こえて。
なんとなく、かっこ悪いところは見せられないと思ってしまったなんて。
言えるかよ、そんなの。
❤︎
「あの子、すごく速いね。同じ陸上部?」
「いえ、違うんですけど……」
「あーあ、男子とはいえ素人に負けるのはちょっと辛いかなあ。ごめん凛ちゃん、私も今日は帰るね」
「は、はい。ありがとうございました」
イベントの主役だった高倉さんが負けたあと、白けた場の空気が戻ることはなかった。
観客は散っていって、片付けの間もスタッフの人たちは終始無言。
このあと一緒に食事を予定していたのに、高倉さんも疲れた様子で帰ると言ってきた。
せっかく私と彼女の縁で企画できたイベントが。
彼のせいでめちゃくちゃになった。
私たちが積み上げてきたものが。
彼のせいでまた、めちゃくちゃにされた。
意地悪のつもりで指名したのは私だけど。
そもそも興味ないならこんな場所になんで来たの?
わざわざ彼女まで連れて。
何にも興味なんてないって、言ってたくせに。
私がお願いしても、走ってくれないのに。
なんであの子がいたら、走るのよ。
むかつく。
全部、さゆのせいだ。
あんなやつ、死ねばいいのに。
あんなやつ、死ねばいいんだ。
あんなやつ。
「……死ねよ、デブ」
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