第7話

 県境の山間にあるガードレールも舗装もされていない細い山道を、一台の車が走っていた。街灯の一つも無く、慎重に進まなければ頭から針葉樹にぶつかるか、崖下まで真っ逆さまに落ちていくだろう。車中には重々しい空気と淀んだ匂いが充満しているが、窓を開けようものなら凄まじい勢いで蛾やカナブンといった昆虫達が列挙してやってくる。現にヘッドライトに誘われた虫達が、ペチペチと鞭を叩いた様な音を立てて車体にぶつかっては、その中身を汚らしくぶちまけていく。

 運転席には藤唯人の母親、助手席には真帆、後部座席には私と藤君の四人で、とある神社へと向かっていた。

 藤君の母親からの電話のあと、私はすぐに真帆へと連絡し、やはり今日のうちにも応急処置的な措置が必要だと伝えた。真帆は私からの連絡がある前には既に彼女の祖父、つまりお祓いが可能な神主へと取り次いでいてくれたのだった。緊急を要すると思っていたから、この根回しは大変ありがたかった。事が済めば改めてお礼をしなければいけない。

 しかし、道中に何の問題も無かったわけではなかった。母親と共に私のいる農免道まで来てもらい、いざ出発し隣町に入ろうかという時、突然藤君が後部座席のドアを開けたのだ。それも走行中に、だ。なんとか取り押さえられたからいいものの

「呼んでる、行かなきゃ」

 とただ一点を見つめながら連呼するばかりで、大人の私が押さえても危ない所だった。それが隣町に入り、段々と御粕會から遠ざかると落ち着いていき、市を出る頃には正気を取り戻したのでどうにかなったが、もし私が助手席にいたらと考えると背筋が凍った。何故開けたのかと尋ねると

「女の子がこっちにおいでって言うから、行かなきゃって思って開けた」

 そう言い、開けたら危ない事は分かっているのに、抗いがたい衝動に駆られたという。

 真帆と合流する為に県境付近に停まる新幹線の駅に向かい、三十分程待つと彼女が現れた。幾つかの紙袋を持っていたので荷物持ちを申し出ると、彼女はそれを断った。入っているのはお酒や食材の様だが、彼女以外に触れさせないよう祖父に言われたらしい。

 藤親子との顔合わせをそこそこに済ませ、神社に向かって出発した。

 祖父は数年前までは神主業をやってはいたが、客足の少なさと腰を痛めて仕事に支障が出始めたのをきっかけに辞める事を決意したそうだ。代々続いてきた神社を絶えさせる訳にはいかないので、月に何日か真帆が神社へと出向き、作法などを教えて貰っているとのことだった。

 神社は普通の神事とは別にお祓いや供養を請け負っており、世に出はしないものの、界隈では有名だそうだ。私も名前だけは聞いたことがあり、それなりの評判があるのは確かだが、如何せん山間にあるので、本当に困った人しか訪れないらしかった。

 そしてこの神社に行き着くまでにも、ある種の審査があるようで、その本当に困った人ですらふるいにかけており、その一端を真帆は担っていた。

 つまり、彼は不幸にもそのふるいに合格してしまった事になる。

「今までに一度しか嗅いだことが無い、ドブと腐った肉だけじゃ言い表せない程の悪臭」

 これが藤君から感じられた匂いなんだそうだ。全く霊感の無い一般人の私ですら分かる匂いが、収まったとはいえ敏感な真帆には耐え難いだろう。

 可能なら窓を開けたいそうだが、前述の通りの山道なのでただただ耐えるのみだった。

 麓から大体一時間くらいかけてその神社に辿り着いた。いや、鳥居を潜ってから更に十分程高さのバラバラな石造りの階段を登らなければならなかったので、本殿が見えてやっと着いたと言うべきか

 境内に入るとすぐに奇麗な白髪のお爺さんが現れ、真帆に向かって

「ぬしゃなんちゅうもん連れて来たつや!」

 と怒鳴りつけた。

「こりゃ俺の手に負えるか分からんぞ……婆さんがおれば違ったかんしれんが、いやこれは……どぎゃんしたもんか」

「でもお爺ちゃん、お爺ちゃんが連れて来いって言ったから」

「かーっ……だけんいつまっでん任せられんとぞ」

 目の前で口論を始めた二人。私が霊の程度を判断出来ないのがもどかしいと思ったのはこの時が初めてだったが、程度がどうであろうと気持ちが変わらないのはこの場で一人だった。

「こんな夜分に押しかけてしまい、申し訳ありません。藤と申します。どうかお孫さんを責めないでくださいませんか……悪いのはお孫さんではありません。私の息子が今どういう状況にあるのか、少なからず知っているつもりではありますが、その『つもり』を長年見過ごしてきた私の責任です。その上で、ご迷惑を承知で、大変図々しいのは分かっておりますが、どうか……どうか息子の唯人を助けては頂けないでしょうか。お金なら幾らでも用意します。どんな言う事でも聞きます。私が身代わりになっても構いません。お願いですからどうか……どうか唯人を助けてください」

 膝を着き、頭を地面に擦らせて懇願する母親。そんな姿を今までに見た事があるだろうか。もしかすると口論していた二人はあるかもしれない。だが、彼はほぼ確実にないだろう。それは幽霊を見るよりも衝撃的な光景に映ったに違いない。

「お母さん」

「いいから。唯人はお母さんが絶対守るから。もう……お母さん、誰も亡くしたくなか」

 あれだけいた虫達も示し合わせたようにこの沈黙を邪魔しなかった。

 ここまで父親の話題も出ていなかった。十年前の震災なのか、事件事故なのかは不明だが、もしかすると父親をどこかで亡くしているのだろう。

「お爺ちゃん、折角ここまで来てくれたんだよ。せめて一日だけでも」

「なんば抜かすか、すんなら最後までせなんた……しもうたなあ、これは準備が足らんかんしれん。奥さん……頭ば上げて貰って、息子さんば連れてから、あっこ見ゆっ小屋さん行ってもろてよかですか」

 涙ながらに顔を上げ、神主の足元に縋りつく母親。

「ありがとうございます……ありがとうございます」

「まだ何もしとらんですけん、とにかく今日終えてから改め聞かしてください……で」

 神主は母親から私に視線を向けて言った。

「ぬしゃ、こっから出ていけ。お前がおったら助かるもんも助からん。して二度と敷地ば跨ぐな。分かったや? 分かったつならはよどけさんか行け」

「爺ちゃん何でそんな事言うの!? 桑名君が色々してくれたって言うのに」

「夏帆は黙っとれ! こん阿保が!!」

「でも!」

「水城さん、大丈夫」

 食い下がる真帆を静止する。訳が分からないといった表情をしているがそれも無理はない。分かる人には分かるものなのだ、と思うしかない。

「唯人君をよろしくお願いします。僕は一旦車まで戻ってますので、何かあったら知らせてください。水城さん、二人をよろしく」

 藤君の母親から車の鍵だけ受け取り、今登って来たばかりの山道を歩いて戻る。後ろから私を呼び釈明を求める声が聞こえたが、振り返らずそのまま降りた。

 あまりに真っ黒過ぎる視界と明るすぎる携帯のライトで目がチカチカとして、何度か階段に躓きかけたが、無事車まで辿り着いた。

 その神社で行われた何かしらは、後日送られてきた藤君の手紙で判明するが、とにかくここでは彼が助かった事だけは記しておいた方がいいだろう。

 私が車に戻ったその一時間後、真帆が一人で降りてきて車の窓を叩いた。私は体を起こしてドアのロックを解除し、彼女はまた助手席に座った。

「大丈夫? お腹空いてない? 喉とかは?」

 まず体の心配をしてくれるのが彼女らしい。その優しさに甘えているのを自覚しているが、どうにも律するのが難しい。恋心ではないが、尊敬とか羨望を抱いている面は否定出来ない。

「まあそれなりにお腹は空いてる。とりあえず水くらいあればとは思うけど、流石にこの辺自販機とかないよね?」

 一点の光も見当たらないが念の為に聞いてみる。

「あと10キロ行けばあるかも……」

「えーまじか……」

「ってまあここに水筒とおにぎり持ってきましたけどね」

「えー、まじかありがとう。実際どうしようかなって悩んでたんだよね、助かります」

「どういたしまして」

 氷入りの水が体によく染み渡る。簡単な塩むすびにかぶりつくと胃に物が入って余程びっくりしたのか、急激に疲れが襲ってきた。よくよく考えれば昼ご飯以降飲み物しか飲んでいないし、合流する前にそれも無くなってしまっていた。加えて実家で作業した後に町中から農免道まで歩き、更にそこからの移動に次ぐ移動。疲れて当たり前だ。頼んだ訳でもないのに察して用意してくれるなんて、つくづく彼女には頭が上がらない。

 おにぎりを食べ終わり一息つくと、真帆がバックミラー越しに渋い顔で尋ねてきた。

「その……ごめんね? 本当は社務所で待って貰えれば良かったんのにお爺ちゃんが頑固だから……それでその、お爺ちゃんが君とはもう関わるなって言われて、私には理由が分からなくて凄い困惑してるんだけどさ……私に話してない事ってある? お爺ちゃんに分かって私に分からない事がままあるにしても、あそこまでって初めてだったから」

「……うーん」

 神主、お爺さんには私がどんな風に見えていたのだろうか。タイトルは忘れたが悪魔と戦うエクソシストが主人公の少年漫画で、確か主人公が悪魔の魂が見える設定があった。敵が強くなる毎にその魂が醜くなっていくらしいが、そんな見え方でもしていたのか。

「無理に話す必要は無いからね。話したくなったらでいいから」

「そうねえ……もう十年も前の話だし殆ど時効みたいなもんだから、話してもいいかなって思ってはいるんだけど……ああ、そうだ、藤君のお母さんは?」

 神社の様子を伺うがやばそうな雰囲気は察しえない。むしろ、真帆も普通に降りてきたが、熊などの野生動物の方が物理的な面で危険である。せめて複数人で移動したいが、こうも電波が無ければ連絡の取りようもない。

「声は掛けてきたけど最低でも朝になるまでは来ないと思う。息子が死ぬか生きるかの瀬戸際なら近くにいたいだろうし」

「じゃあまだ時間はあるか……ぼちぼち長い話になるし、聞き苦しい部分もあるから休憩したかったらいつでも言って」

「分かった」

 外の暗闇に目を向ける。今日は月も出ておらず余りに生い茂る木々のせいで、外も車内も本当に真っ暗だ。唯一情報として入って来るのは風に揺られる木の葉と、二人の息遣いのみ。今もこの闇に紛れて霊が唯人を襲いに来ているのだろうが、私には一切感じられない。いつか私もチューニングが合えば、真帆や神主が見ている風景を感じ取れるのか、あるいは一生その可能性は無いのか、それは分からない。

 しかし私もまた、闇が恐ろしい物であることはよく知っている。怪談の怪談たる所以は、幽霊が出る『結果』が怖いのではない。

 幽霊に成るに至るまでの『過程』、人の常軌を逸した思考が垣間見えるからこそ恐ろしいのだと私は思う。

 私の実家がそうであったように。

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